ついさっきまで視界を埋めていたのは、目を細めてしまう程の青だったってぇのに。 「……マジかよ」 今は一欠けらさえ窺えないその色を思い出し、盛大な溜息が漏れた。 帰ろう 落ちたのだと、そうしっかと把握するのは案外早かった。 ルーラする時の感覚とは似て非なる、ある意味強烈な浮遊感が未だ脳内を揺さぶる。 いや、それより何より。 「……チッ、」 枝やら幹やらに散々打ち付けられた痛みに、戻った意識を呪いたくなる。 見上げた瞳に映るのは、深い森を彩り造る緑の木の葉。 確かにあの間をすり抜けて落ちてきた筈だけれど、どこをどう落ちてきたのかさえ解らないほどに、深く生い茂っている。尤も、それがある程度の緩急材の役目を担ってくれたのだろうが。 それでも―――。 「なんつーか」 全くもってついてないとしか思えない。 今日の寝床を探している状況だったから、当然魔力は底を尽いてスッカラカン。 薬草の類も、ここ最近使うことなかった所為で持ち合わせもない。 なのに、怪我はここ最近なかったくらいに深い傷が……えーっと、何個だ? 急を要して止血したとこは5箇所だけど。片足捻ってるっぽいし、処構わずジクジク傷みやがるし、実際のところ座ってるのさえきつい。 「ま、なる様にしかなんねーか」 にしても、何だって落ちるかねぇ。 魔物の襲撃を受けたのは、切り立った崖際だった。数歩下がれば崖だと認識しておきながら、落ちちまうなんて。我が事ながら、情けないことこの上ない。 辛うじて身に着いていた弓と、携帯していたてんばつの杖が今の現状で身を護れる手段だ。あるだけで、御の字だと思う。 「ここいらの魔物が強くないことを祈るしかねーな」 尤もそんな仄かな希望も崖の上で対峙した魔物のレベルを見るに、ちょっと期待できない状況だけど。 溜息を吐きつつ、傍の大きな木の幹に背を預ける。 「ーーーッ、」 って、たかがそんだけのことで、息は上がるし脂汗は出るしで、今の自分の状態が楽観視出来ないものであることを、今更の如く思い知る。 「……こんなとこ、で…くたばれるかよ」 運はないが、危機回避はそれなりに上手い方だと思っていた。 現に、今まで状況が全く違うとはいえ、こんな切羽詰った危機に見舞われたことなど、ない。 だけど、それだからこそ、気付く。 「………弛んで、んだろうな」 独りで背負っていた避雷針ともいうべき危機回避を司るそれが。独りではないという状況に、絆され弛んで。 「ザマぁねぇ」 ここまで深く身の内に入れる気など、ましてや入り込む気など皆無だった筈だ。 だけれど、あまりにも居心地が良くて。 距離感を見誤った。 その結果が、コレだ。 溜息を零して、目を閉じる。 どこが痛むとか、既に判断さえ曖昧だ。今や身体を苛む痛さも熱に変換される。漏れる吐息が、熱い。 薄っすらと開いた瞳に、入ってくる景色が霞む。 いい加減、血流し過ぎたか。 「なーんにも残んなくて、干からびて死んじまうのはヤダな」 こんな状況で、暢気に呟く。 何も…誰にも残さない。 いや、元々……残すようなモン何も持ってやしなかったか。 ―――そんな、こと。 「忘れてるくらいには、忙しかったってことか」 後ろ頭を幹に押し付けて、上を見上げる。天井は、緑。 「違うな、楽しかった…んだ」 厚い木の葉の天井は、一片の光さえ差し込ませない。 どうせ同じ状況に陥るのなら―――。 空を望める場所が良かった。惹き込まれそうな程の、空の青。 自分は、あの空を渡る雲にでさえ、手が届きそうな気がしたときもあった。 この場は深い森の中なので元々暗い。 更に後数刻もすれば、夜の帳も追い討ちをかけこの闇を増してくれることだろう。 それ即ち、魔物の暗躍する刻ってことだ。 「……冗談じゃ、ねぇぞ」 こんな場所で、生死さえ誰にも知られず朽ち果ててく、なんてあんまりじゃないか。俺には、そんな最期迎える気なんて、露ほどもない。俺の将来設計には入ってねぇ。 「畜生ッ、さっさと迎えに来い!」 そうだ。そもそも、この現状を作り出したきっかけを作ったのは、あの男だ。 不意打ちや突拍子ないことへの対処が苦手だと知ってやがったくせに。それを承知の上で、あんなこと言いやがったくせに。 思わずうんざりと項垂れる。何だって、こんなに見事なまでに年下の、それも男なんぞに振り回されてるんだ。 刹那―――何かが、感覚に呼び掛ける。 微かに微かに鼓膜に触れた、音。 そして、僅か感じ取れるのは、よく見知った者の気配。 動く度に痛みを伴う所作ながら、きょろきょろと周囲を探る。 途端、 「ククールッ!」 鼓膜を震わせたのは焦りを帯びた俺の名。 同時に、斜め前方の茂る葉を掻き分けて視界に入り込んできたのは、黒檀の瞳と鮮やかな原色の着衣。 「遅い!」 それらを認識し、漸く身体の強張りが解けた。 もう、大丈夫だ―――と。 頭で思うより早く、身体が反応する。 「ククール、」 だが、俺の姿を見た男の方はそうじゃなかったらしい。声音がいっそ焦りを滲ませる。 木々の合間をすり抜け、生い茂る雑草を踏み荒らし、余裕なく走り寄って。 そうして、いきなり人の手を取る。 「痛ッ、」 咄嗟、振動で走った痛みに呻けば。 「ベホマ」 間髪いれず回復魔法が唱えられ、同時に程よい熱が身体を包み込んだ。それは、一瞬の内に身体組織の活性化を促す熱を高め、治癒し、すぐに平温に戻ってゆく。 「もう、平気?」 「みたい…だな」 痛みのなくなった身体のあちこちを動かしながら、ホッと息を吐いた。 そこで漸く、目の前の男の身体も弛緩したようで、ずるずると力なく座り込む。 そして、取られた方とは逆の腕をおずおずと伸ばしてきた。 そっと……壊れ物にするかのように頬に触れて。 「良かった」 今にも泣き出しそうな表情で、じっと見上げてくる。 「無事で良かった」 どこまでも安堵を含んだ声音が胸に響く。 そんな風に心配されて、ほっくりと柔らかな感情が胸の内をくすぐる。何とはなく、気取られたくなくて 「無事じゃなかった…ろ、」 と言い掛けて、気付く。 と同時に、眉間に皺が寄る。 「って、誰の所為だと思ってる」 声音が深く凝り、落ちる。 「そもそも! お前がーッ」 そう、あの時。 この旅が終わっても、一緒にいよう―――なんて、さらりと。 それこそ、いつもの笑顔で当然のように告げてきたから。 言葉の意を解し、パニクって頭の中を真っ白にした直後を狙ったかのように魔物に襲撃された。 「ごめん!」 必死な形相で謝り倒してくる。 「まさか、魔物出るなんて思ってもなかったし。ククールが落ちるなんて、もっと思ってなかったし」 「当たり前だ。計画的だとか抜かしやがったらザキ唱えてやる」 物騒な脅しをかけて、勢いよく立ち上がる。 一張羅があちこち擦り切れてたり裂けてたりで、ボロボロだ。畜生、次の町に着いたら一番高いもん買わせてやる。 決心しながらどこも痛まないのを確認し、 「そういやぁ」 気になっていたことを口にする。 「他の奴等は」 「君が落ちた場所の近くで待ってるよ」 片足を立てて立ち上がりながら、俺を見上げて。 「本当はみんな、ククール捜しに来るって煩かったんだけど、機動性考えたらひとりの方が効率いいし。でも、ちゃんと連れて帰ってくるから待っててって言ってある」 そう言われてゴミを掃っていた手の動きが止まる。 「ククール?」 そう、だな。 「……あ、あぁ」 何も…誰にも残さない、なんてことはないのかも知れない。少なくとも、こいつらだけは泣いてくれそうだ。 「帰る、か」 衣服のゴミを掃っていた男に言えば、うんと笑顔が返って来て。 「帰ろう」 すっと目の前に手が伸ばされた。 「………要らねぇ」 目を細めて、とっとと無視して歩き出す。 「あっ、ククール」 「さっさと来ねーと置いてくからな」 背を向けたままに言う。顔なんて見れない。捨てられた仔犬みたいな顔してるのは解ってる。絶対、間違いなく、絆される。 つーか、たったふたりで、おまけにこんなクタクタの状態で手なんか繋いで、又魔物にでも出くわしたら、それこそ咄嗟に対処出来ねーだろ! 人間は学習する生き物なんだぞ。 似たような間違いは、二度続けて起こしちゃなんないんだぞ。 「………」 あぁ、畜生! 項垂れた耳と尻尾が見える気がする。 「……帰るまでは、我慢してろ」 思い切り逡巡した上での妥協案を、提示する。 振り返らず、顔は見ないまま、に。 と、 「うん!」 実に気持ちのいい返事が返ってきた。 振り切れそうな程に尻尾が振られる幻影が、確かに見えた。 ...... END
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