[ 09. ドキドキ ]




 ヤバイと咄嗟に手を伸ばしたときには、もう既に遅く。
「あっ、」
 鈍く光りを弾く紅玉は、弧を描きながらぽしゃりと水面に吸い込まれていった。


 裾を捲り上げ、これ以上水が濁らないように、と慎重に周囲を手探りで探る。
 よりもよってこんな場所で、とか。何だって水はこんなに冷たいんだ、とか。大人しく部屋に居りゃ良かった、とか。反省とも後悔ともいえる諸々が思考を占める。
 その時、砂を踏みしめる音が耳もとを掠った。
 視線を上げた先には、まるで珍妙なものを見るかのような眼差し。呆れを含んだ翡翠に、タイミングの悪さを呪う。
「何、してるの?」
「落としもの」
 見て解らないのかとばかりに、ひと言言い放つ。見つからないもどかしさは、舌を打ちたくなるばかりだ。
「ふ〜ん」
 相槌だけで、興味なんてないとでもいうようにただ眺めてくる存在にも苛立つ。
 再び腰を屈めて、そろりと水の中に手を突っ込んでは探り、心持ち移動して再び腰を屈める。細かい気を使わなければならない作業は、実のところかなり苦手だった。
「チッ」
 気ばかり焦って、浮き出た汗を手の甲で拭う。
「……そんなに大事なもの?」
「あぁ」
 だったら、と続いた言葉に、ふっと華奢な立ち姿を振り仰ぐ。逆光に視界を遮られて、どんな表情をしているのかは見極められない。
「あんたは間違ってるね」
「?」
「本当に大事なものなら、」
「ーーーッ!」
 いきなり、視界が反転する。一転して、水飛沫を浴びて、気道に水が入り込む。
「ッゲホッ ゲボッ …っに!」
「こうやって探すんだよ」
 くすくすとくすぐる様な笑いが悪びれた風もなく耳許に届いて、刹那の突風に突き倒されたのだと今更の如く気付く。
 3年前からのあれこれで沸点が高くなってる自覚はあれど、流石にこれにはムッときて。濡れたバンダナを毟り取りながら振り返った。
「ルック、」
 が―――刹那。
 周囲の時間、風、次いで動きと思考の全てが止まった。
「何さ」
 目の前には互いの位置が変わった所為で逆光に遮られる事なく窺える…楽しそうな目を瞠るほどの綺麗な笑み。
「油断大敵だね、元天魁星」
 笑う。
 強い翡翠が、柔らかにとける。
 そんな様を視界に収め、胸内に広がるのはわずかな波紋。
「本当に大事なものだっていうんなら、格好悪くても泥に塗れて這い蹲ってでも手に入れるのって、基本だろ」
 きっぱりと言い切る唇が、ほんのりと色付いた桜色で触れたくなる。
 波紋が凪ぐことなく、さざなみへと。
 それに連動するかのようにドキドキと、鼓動が勢いよく刻まれる。
「精々、頑張れば」
 小憎らしくひと言を言い置いて、 「本は持って帰っといてやるよ」 砂地に靴と共に置いていた本を手にする様に。
 その本は昨日、現天魁星殿が持ち帰り。
 いの一番に借りつけた。
 こんな場所を通り掛ったのも、それを静かに読む為で。
 ピアスを落としたのも、その本を肩に担ぎ上げた時のこと、で。
 そんなことは兎も角、その本が目的でこいつは人のことを濡れ鼠にしたんじゃないかとの疑念を抱く。
「じゃーね」
 くすりと、くすぐるような笑みをひとつ限り残してから風を纏った。
「……あいつ〜」
 嵌められた可能性よりなにより、未だドキドキと刻まれる鼓動に苛立って、水面に八つ当たった拳をそのまま沈める。そして、身体を支えるのに後ろ手をついた。
「マジ、かよ」
 ……ヤバイ、まったくもってヤバイ。
 ぐるぐるする思考に、訳の解らないイライラ感が募る。
 と―――後ろ手をついていた左てのひらに、硬質な何かを感じて。まさかとの思いに拾い上げたそれは、案の定探し物だった。
「……参った、」
 右手でぐしゃぐしゃと濡れた髪を掻き乱す。
 口から漏れたのは、色んな意味での降参の笑みだった。




2005.11.26



 知らずにいたかった想い?



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