不確かな距離 欲しいモノなんてない…って。 ずっと、そう思っていた。 紗の帳越しに差し込む陽は、柔らかかつ穏やかで、ともすれば心地よい眠りに誘ってくれそうなものであったが。 その恩恵などへは興味もないのか、ふたつの人影は向かい合ったまま、互いの言を繋ぐ。 「…何、って?」 発せられた言葉が聞き取れなかった訳ではない。が、前後の繋がりが見えない台詞の内に含まれた意が量れずに問い返す。 ―――と。 「だから、賭け」 するだろ、と問いに返されて僅か逡巡するように言葉の応酬が途切れる。 窺うように向けられる視線は僅かに細められ、口端には笑みが刻まれ。いつものことながら、そんな煽る表情さえ様になる容姿だと、溜息混じりに小さく肩を竦めた。 「……で、内容は?」 いつだって折れずにいられないのだ、目の前の相手には。それが解ってて無駄に足掻くのも情けなく。 結局、頷き返した。 + + + 酒場の扉を開いて覗いた姿に、カウンターに程近い席を陣取っていた集団のひとりが腕を上げる。 「おう、こっちこっち」 気付いた男が、器用にテーブルと椅子の間をすり抜けて辿り着いた。 「今回の里帰りは、時間掛かったな」 「お前の親父にとっ捕まってな」 うんざりとした表情を浮かべ椅子を引いていた腕が、一瞬その動きを止める。その視線の先には、コップを抱え珍しく機嫌の良さそうな石板守り。 視界に入った状況を認めた途端、昏い紅玉が剣呑に眇められる。 「どこ捜しても居やがらねーと思ったら」 こんなとこに居やがった、と苛立ちも露に音を立てて椅子に腰を下ろす。 ちらりと向けられた翡翠が僅かに潤み、その縁に薄く朱色をのせているのに気付くと、いっそ剣呑さを増した。 トラン建国の立役者、比類なき英雄と誉れ高き、アカザ・マクドール。自分に火の粉が降りかからなければ大抵のことは笑って済ませるのを常とする男の、唯一の例外が、この石板守りに関することだ。 何かを言おうとしてか開かれた口は、しかし。 「……それは」 相手の言葉によって遮られる。 「あらゆる意味でご愁傷様」 「一週間ぶりに会った愛しい男への第一声がそれかぁ」 ルックのつれない態度に、周囲のテーブルまでもを巻き込んでの笑いがどっと沸き起こった。 が、渦中の男はといえば、盛り上がる周囲へ向ける関心など微塵も持ち得ないようで。 「……誰が飲ませてんだよ」 不機嫌そのままに、同じテーブルに座する面々に視線を巡らせた。 「俺等の言うことなんか聞く奴じゃねーだろ」 ビクトールの言に、フリックも黙ったまま頷く。その横で、シーナが俺じゃねーからとばかりに手を左右に振るのを見、残すひとりへとアカザの視線は向かう。 そんじょそこらの者ならば硬直してしまうであろう視線をものともせず、肩をひょいと竦めたのは、此度の天魁星、その上同盟軍を率いる頭目。 「本人の自由意志だし、無理やりって訳じゃないから?」 満面の笑みで言われて、はいそうですかと素直に思える筈もないと、アカザは思う。 何故ならそうのたまったのが、オギだからだ。アカザの認識では、この男は食えない者の上位に位置している。 「どうだかな」 胡散臭いことこの上ないではないか。 が、ルックの性格上無理やりって訳でもないことは解りきっていた。依怙地で不器用な彼は、全てのことに関し、自らの意思なしに流されることを良しとしない。 ある意味厄介な性分ともいえる。 アルコールに蕩けた翡翠が、酒場を彩る喧騒に向けられ。 ―――その瞳に映るのが、己でない。 たったそれだけの理由で容易く苛立つ感情。全く笑えない状態の己を抑え、酔いが醒めたら覚えてろよと内心毒づいた。 「レオナさん、いつもの」 喧騒の中でも通る声を張り上げて、酒場の女主人に注文するアカザへ、一部から驚いた視線が向けられる。 「んーだよ」 「いや、お持ち帰りするんじゃねーのか」 「する」 当然だろ、と椅子に踏ん反り返る男は、基本ルックが他の面々と飲むのにいい顔をしない。そのことを知る故の驚きだ。 「一杯くらい飲ませろ」 口調で機嫌の悪さが知れる。ルックに関することには、つくづく狭量で正直な男だ。それが自分で解っているのか、そうさせる張本人に視線を向けないようにしている様が何ともいえない。 目に入れたが最後、そのまま引っ張って帰ってしまう自分が解りきっているからだろう。 「そんなに見せるのやなら、部屋帰ってふたりで飲めばいいじゃねーか」 とのシーナの尤も過ぎる言に、アカザは運ばれてきたアルコールを呷りながらも不機嫌を隠しもせず。ふんっと鼻を鳴らす。 「男の事情ってヤツだろが」 「………へぇ」 誰彼群がってくる女見境なく手を出していた、というのが周囲の者たちのアカザ・マクドールという男に対して持っていた認識、だ。 本人にしてみれば、全く見境なくって訳では決してなかったらしい。しかし、それなりに遊んでいた覚えもあるので、それに関してアカザ本人は強く否定しない。 たまに男からも声を掛けられることがあったが、相手する気はさらさらなく、ましてや有り難くもなかったので記憶の淵に追いやっている。 そんな男が、ルック以外を相手にしなくなって久しい。一週間の帰郷とくれば、唯一の相手を目の前にしての据え膳状態は、きついことこの上ないだろう。 おまけに。 この男は、酔っ払いには手を出さない主義だという。 酔えばいつになく無防備に、その上本人無意識の内に艶やかに色香を振り撒く恋人を前にしてこの主義を貫くのは、色んな意味で哀れだと周囲の者たちは思っていた。 「回収してくからな」 とん、とテーブルの上に返されたコップと、軋む椅子に次いで、小銭を置く音。 給仕の女が酒を運んできたのは、ついさっき。 楽しむというよりは、喉の渇きを潤すだけの役割でしかなかった液体は、この酒場では一番いい酒の筈だ。 「早ぇ」 「もう、撤退かぁ?」 揶揄う周囲には目もくれず、ビクトールを挟んだ場所に陣取っていた目当ての人物に歩み寄る。そして、 「帰るぞ」 空のコップを持ち上げ、今まさに注文をしようとしていた細い腕を掴んだ。 「……」 そうされた本人は、ムッとアカザを見上げ睨み付ける。 あまりのタイミングの良さに、 「……計ってたのか」 シーナは感心しつつ零した。 「飲み足りない」 「……充分だ」 見上げてくるその表情からは、いつも纏っている警戒心が綺麗に剥がれ落ち。子どものように拗ねる様に、ここいらが頃合いだ、とアカザは見切りをつけていた。 恐らく素に近いであろうルックをこれ以上人目に晒すのは、己の精神衛生上ごめん被りたいというのが本音。 むぅっと頬を膨らませる所作を目にしては、その思いもひとしおで。 「……さっさと帰るぞ」 細い腕を引っぱり立たせると、往生際悪く足掻くルックを半ば強引に引っ立てる。不機嫌なルックを、これまた不機嫌なアカザが引き摺って酒場の扉を抜けた。 暫しの間、し〜んと静まり返った酒場内に、誰某かの呟きが響く。 「……初めて見た」 「噂、本当だったんだな」 噂、それ即ち―――トランの英雄、ルック魔法兵団長に溺れるというもの。 花のかんばせと謳われる魔法兵団長であるルックの噂は、同盟軍内に回らない日は皆無だ。それは、数ヶ月前から現れるようになったアカザとて同じで。 目立つことにかけては一二を争うふたりが恋仲になったという噂となれば、軍内に知らぬ者などいないに等しいと言えよう。 が、それでも恋仲になった後のふたりのいつに変わらない態度を目にするにつけ、実に現実味を帯びない噂でもあった。 それが、ここにきて…のこの有態。 目にした者たちが、魂を抜かれて当然とも思える。 奇異なものでも見たような皆の様子に、オギは小さく口端を歪めると。 「な、賭けしねぇ?」 それはそれは楽しそうに、周囲の面々に持ち掛けた。 到着先は、アカザの私室と成り果てている貴賓室。 否応もなく室内へと促されたルックは、 「ひとりで酒場なんぞ行くなって、言ってあっただろ」 開口一番、そう不機嫌も露わに告げる男の存在などどこ吹く風とばかりに無視し、寝台に寝転んだ。 「聞いてんのか、お前は」 「……オギだってシーナだって、居たと思うけど」 「すり替えるな」 気だるげなルックの言を、きっぱりと両断する。 「俺が言ってるのが、そういうことじゃないことくらい解ってるだろ」 「どうしてあんたの言い付けを守らなきゃならないのさ」 僕の意思はどうなる、との当然の台詞に。 「お前が普通なら、な」 それも考慮の対象にしなくもないが、とアカザは冷たく言い放った。むくりと、起き上がって目の前の紅玉をただ見返す。 「何が、どう普通じゃないって」 「普通のヤツが、高々一週間程度目を離した隙に、んーな目立つとこに痕残るようなことするか」 首筋の、法衣で隠れるか否かギリギリのところにつけられた痕を指す。 と、場に合わぬ笑みがくつりと落ちた。 「……まさかと思うけど、」 アカザはぴくりと眦を上げる。 「妬いてるの?」 その仕草と台詞の腹立たしさときたら。 「……明日、覚えてやがれ」 負け犬の遠吠え染みた台詞しか返せない己が、ある意味腹立たしい。 くつくつと零れる笑いに唯一返せるのは、渋面だ。 「明日、ね」 「てめーが酔っ払ってっからだろーが」 「相変わらず、その辺紳士だよね」 いつもはとんでもないのに、と揶揄られ、ふんと鼻を鳴らした。 酔っ払いには手を出さないというのが、アカザの信念だ。元々、女を相手にするのは遊び前提だった。間にアルコールを挟んだ場合、自失されると後々面倒になる。 「酔っ払いに付き合いきれるか」 ルックの場合は、又事情が違ってはいるが。 ふ〜ん、と揶揄るかのような相槌と、細まった翡翠とが向けられて。 「じゃぁさ」 「んーだよ」 「どこまで、堪えられるか」 ―――試してみよう? 誘うような囁きと共に。 熱を帯びた腕が、するりと首に回された。 「……ルック?」 コレは何の試練だろう、と内心唖然としながら腕の中の存在に目をやる。 蕩け潤んだ瞳と、常より赤く色付いた唇。普段の白皙の肌は、薄く上気し桜色に染まり。 じっと見上げてくる、その様が酷く扇情的で。意識しないまま、ごくりと喉を鳴らす。 この魔性の吸引力に抗える術があるのなら、弟子入れしてさえ教えを請いたいと切に思う。 そもそも、ルックからの誘いというのが有り得ない。 この、上目遣いも…だ。 ルックの場合、身長差故に上向かざるをえないその瞳でさえ、常に強い意志を覗かせているから。その視線は、まるで見下ろされているかのような威圧感さえ与えてくれる。 「何、考えてる?」 この状況で余裕だね―――と、ゆうるりと細められた翡翠がそのまま笑みの形を取る。 小悪魔さながらに魅惑的な表情。 普段であれば、その後が色々と面倒なので、酔っ払いといわゆる色仕掛けには乗らないことにしてはいる……のだが。 妖艶な笑みと共に、首筋に回された腕が、距離を密着させ。その上、瞳を覗き込まれるなどといった艶めいた態度を取られれば、惚れた弱みなどとは思いたくもないが、そんな決意も霧と化す。 「後悔しても知らねーからな」 あぁ、のってやろうじゃねーか。 とばかりに、口端を歪め、細い腰を引き寄せれば。 面白そうな色を湛えた翡翠が数度瞬いた後、僅か細められた。 伏せた瞼にひとつ。 髪をかき上げ、露になったこめかみにひとつ。 柔らかな頬に、またひとつ。 あちらこちらに唇で触れれば、くすぐったそうに喉が鳴る。 細い顎に触れた指で僅か上向かせる。薄っすらと開かれた瞼の間から、熱を帯びた翡翠が覗いて。 惹かれるままに、くちづけた。 小刻みに震える睫は、上気した桜色の頬に影をつくり。 「…ん、っ」 鼻を抜ける呼気は、どこまでも甘く…誘う。 舌を誘い出し、柔らかに歯を立てれば、ぴくりと反応する。 吐息を奪い、奪われ。互いを交し合う。 柔らかに解かし、解かされる……刹那、銀糸を引いたままに離れてゆく熱情。 容易くは整わない呼吸を宥めながら、こつんと額を合わせると、目の前の微かに震える瞼がゆるゆると開かれた。 熱を孕んだ翡翠。 抑え切れない情動。 彼の全てが、抗い難い吸引力を持って己を煽る。 だけれど、今、ここで流される訳にはいかない。 「……いい加減、やめないか」 掠れた声で告げた言葉は、囁きに近い。 合わせた額を引きながら、瞳の内を覗き込む。 互いの間に生まれた熱を乱すように、前髪をかき上げた。 そして、深い溜息を吐く。それは、昂ぶった欲を収める為だ。 驚いたように瞠られた翡翠が、じっと見上げてくるのを視界に映し。今更ながらに、忍耐力の限界を高められている気がした。 「お前な、自分が今どんな顔してるか解ってるか?」 「……なに」 「泣きそうな面、してる」 アカザの指摘にキュッと赤く熟れた唇を噛むと、そのまま視線を逸らせた。 本当に嘘の吐けないヤツだと、小さく吐息を吐く。 今回ばかりは誤魔化されてやる気は、ない。自分にだって、限界というものはある。 此度の誘いに流されまいとするのは、これ以上の試練はない、と思える程の苦行だったのだ。実を知らずに居れるものか、という自棄っぽい感情も確かにあったが。 ルックが厭うているのは、行為自体にではないと思っている。 淫らに煽って、仕掛けたのが己だとしても。それに乗るアカザがイヤなんだと、知っている。 そして、それ以上に。アカザの信念さえ捻じ曲げさせてしまう自身が、疎ましいのだと。 だったら……。 「そうまでして、何がしたいんだ」 仕掛けることで傷付くのは、ルック自身ではないか…と。 囲い込んだ腕の中で、ぴくりと小さな躰が強張る。 それには気付かぬふりで、乱れた髪に指を潜らせる。 米神から、流れを追って耳の後ろを通り項へと。 強張りを解くように、緩慢な仕草で梳く。 飽きるまでもなく二度三度と繰り返せば、癖のない髪質故に綺麗に流れを整える。 未だ解けきらない強張りに、アカザは微かに眉根を寄せた。 泣きたくなるほどの愛しさを持っても、伝わらなければ意味がないのだけれど。素直に伝えられない。そして恐らく、伝えたとしてもそのままの意で取ってももらえまい。 「解らないと…思ってたか」 囁くような声音で訊ねると、ゆるゆると髪が揺れた。俯くその表情までは、覗えない。 ―――だけれど。 石板前での出迎えがなかったこと。 行くなと散々口煩く言っていた酒場で飲んでいたこと。 恐らく本意ではないだろう痕も。 艶やかに誘う、その仕草さえ。 今回のこと全てが、アカザの中で不協和音を奏でていた。 「お前はお前が思ってるより、ずっと正直なんだよ」 だけれど。全てがルックの画策だとしても、そうする理由までは解らない。 「何か…あったのか」 故に、訊ねることしか出来ない。 「………何も」 「ない?」 言葉尻を捕って紡げば、僅かながら頷く動作が知れて。 「……あったけど、もう…いい」 そう言って、胸元に縋り付いてくる様に、アカザは動揺した。アルコールの入っている所為もあるだろうが、そんな様は酷く珍しい。そんな動揺をおくびにも出さず、抱き寄せる腕に力を込めた。 「諦め? 解消?」 「……………解決」 だから、もういい―――と、いっそう強くしがみ付いてくる。その台詞を疑うのは容易い。だけれど、腕の中で安心したかのように、柔らかに解けてゆく肢体を前にその疑惑はあっさりと四散した。 鼻腔を擽るのは、甘い香り。 華奢な背に回した腕から伝わるのは、込み上げる愛おしさ。 何だって、俺の中はこんなに簡単にこいつのことでいっぱいになってしまうんだろう。不可思議だけれど、その状況に酷く満足している己がいて。 「おい、あんまり煽るなって」 これでも必死こいて自制してんだからな、との言に。 くすくすと小さく零れた笑みには 「馬ぁ鹿」 という可愛げのない台詞が付随していた。 朝は健やかなものと相場は決まっている。 おまけに、某国英雄殿と自軍の魔法兵団長殿が並んで朝食を摂っていた場面を目にすれば、それも一際だ、とオギは昨夜の賭けの儲けを前ににんまりと笑った。 「やっぱ、堕ちねーよな」 昨夜、他の者たちに持ち掛けたのは、アカザが酔っ払ったルックに手を出すかどうか。 結果はといえば、ルックが食事に来ていたのを見るに一目瞭然で。 「あのアカザが、素面じゃねールックに手ぇ出せるわけねーじゃん」 それは、ある種の信頼である。 ひとり納得しながら、懐から常時離さずにいる皮袋を手に取った。ずしりと、重いそれに満足げな笑みを浮かべる。 守銭奴という訳ではないが、金銭はあるに越したことはないと思っている。半分シーナ行きだけど、と袋を引っくり返して勘定を始めた。 と、かちゃりと執務室の扉がノックもされずに開かれ。 オギは遠慮なく入ってきた人物に一瞥くれただけで、数え終えた金を袋に仕舞う。 「儲かったか?」 最後の小銭を手許の薄汚れた皮袋に投げ込んで、 「まぁ、ぼちぼち」 オギは悪びれた風もなく、その口を結わえた。 「ってーか、今回ばかりは、トランの英雄殿に素直に感動しました」 「………」 胡散臭そうに眇められるアカザの紅玉に、にっと笑って返す。 「儲けさせてもらったってーのもあるけど、鉄の精神力に?」 「今度、奢れよ」 「アカザの信念と、ルックの色香とを天秤に掛けたら、信念なんぞ塵と同じだってみ〜んな 思ってたみたいだけど」 まぁ、確かにルックのあれは、反則に近いしな。堪えられる方が異常だって。 「俺は生まれて初めて、自分が凄いと思ったぞ」 「俺も俺も! 初めてアカザを尊敬した」 尊敬されたという内容がそれでいいのか、との疑問を覚えたが、今更だとアカザは溜息を零した。 「で、何の用な訳?」 「いや、一応言っとこうと思って?」 腕を組んで先を促され、アカザは 「ルック、暫く使い物になんねーぞ」 ぬけぬけとのたまう。 「あっ? ヤってねーのに?」 「土産に夢中だ」 「………土産、何か訊いていいか?」 「グリンヒルの古書屋の掘り出し本」 オギは刹那、絶句した。アカザが言ったのは、確か、先達て立ち寄った其処で展示してあった本だ。 というか、今回ルックが持ちかけてきた賭けの対象物。 「って訳で、お前たちの賭けは最初ッから成立してなかったってことだな」 『賭け』と『古書』は、此度の瑣末の発端ともいっていい。そのふたつの単語がアカザの口から発され、オギは素直に驚いた。 「………マジかよ」 眉根を寄せて訊ねてくるのに、 「あぁ、俺が買ったの二日前だしな」 肯定ひとつ。 「……ずりぃ」 「賭けの対象になってるなんて、離れてた俺が知るかよ」 そもそも、と。 「その為の里帰りだったんだよ」 流石に古書の値は張り、おいそれと持ち歩けるような額ではなかった故の帰郷だ。 だけれど、遠征先でその古書を発見した時のルックの瞳を、アカザは忘れることが出来なかった。普段から、何に対しても執着を見せないルックが、暫らくの間目を離せずにいたそれを。与えてやりたいと、ただ純粋にそう思ったのだ。 「そもそも、その賭け自体絶対的に不利だろう」 「だから、賭けとして成立するんじゃん」 踏ん反り返るオギの言は、尤もだ。 「それに、持ち掛けてきたのって向こうだし」 途端、渋面になるアカザにオギは微笑を浮かべたまま。 「ま、最初は違うけど」 「ん?」 「ルックが最初持ち掛けてきたのは、賭けじゃなくて。古書を購入して欲しいって、純粋なお願い」 ルックからの頼みごとなんてあんまり珍しいから、絆されてやろうかとは思ったんだけどな。 「でも、値段聞いたらやたら高ぇしさ〜? 流石に俺の懐から出すには痛かったから、ただでくれてやるのもなぁってことで、一晩付き合ったら買ってやるって言った」 悪びれる素振りもなくぬけぬけと言ってのける男に、アカザは剣呑に眉間を狭めた。 「……てめーな」 「そしたら、持ち掛けて来たのが今回の賭け」 ―――あいつを陥したら、買ってくれる? ルック本人でさえ、賭け内容の分の悪さは解っていただろう。成功しなければ欲しいモノが手に入らないくらいで済む。が、成功すれば欲しいモノは手に入るが、それ以上の何かを失うことになる。 「だからさ? 俺に抱かれたくないって思う以上に、そうすることで決着を着けたいこととかあるのかな〜って?」 ほら、一週間って長いし? 「再会して、恋仲になって、こんなに長い間離れてたことってねーだろ? そんなこんなも今回のことには関わってたと思うんだけどな」 とアカザを映す瞳に揶揄の色が浮かぶ。相変わらずの鋭い見解に、アカザは感心した。 その見掛けとは相容れず、敵に回せば厄介だと思わせる、数少ない男だ。 「可愛いね〜」 親父臭いオギの台詞に、唸る。 そう言われりゃ、そうなんだが。色んな意味で、心情としちゃ複雑だったりする。 「……難解だがな」 「そうじゃなきゃ、ルックじゃねーし?」 一筋縄どころか、自分で自分をぐるぐる巻きにして身動き取れなくなってる、のがルックだろ。 「…………猫かよ」 猫のが手が掛からない分、扱い易い気がするが。 「っていうか、お前さ、案外見くびられてるよな」 オギにしてもシーナにしても、アカザの鉄壁ともいえる信念が崩されるなどとは露程も思ってなかった。例え、それを仕掛けるのがあのルックでも、だ。 否、逆に言えば。 ルックだから、と言えるのかも知れない。 このアカザという男は、ルックを傷付けるものを徹底的に排除するんだろうと、思える。だからこそ、オギもシーナも認めたのだ。 いつもは飄々とした態を崩しもせず、憎ったらしさまで感じるのだが。 苦虫を潰したようなアカザの表情に、オギはケタケタと笑った。 昼は、サンドイッチと紅茶。 恐らく、未だ古書に没頭しているだろうルックの為、摘まんで食せるものをとの選択。 野菜多めのサンドイッチは昼食前の慌しいレストランで作ってもらい、紅茶は自室で淹れる気で自室の扉を器用に開く。 と、予想通り、朝アカザが出掛けた時と寸分違わぬ場所に、彼は居た。 大きめに設けられた窓辺の傍。直接陽が当たらない場に置かれた椅子に座し、膝上に昨夜渡した古書を開いて、一心不乱に読み耽っている。 開いた扉にも気付かないのか、ちらりとも向けられない視線に、思わず零れるのは溜息だ。 ただ単に、本に夢中になって気付かないのか。それとも、アカザだと気付いた上で警戒の対象にしてないのか。 携えた昼食を机に置くと、脇の椅子に腰掛ける。 視線はルックに向けたまま、昨日も今朝もゆっくり顔見てなかったことに今更ながら気付いた。 結局というか案の定というか、昨夜は添い寝しただけだ。首筋の痕は、アカザを煽る為のフェイクだと聞きはしたが。どんな理由であっても、そんなものをルックの身体に残しておく気には全くなれず、塗り替える行為こそ婀娜っぽいと言えば言えたか。 普段であれば、起床はアカザの方が早い。 当然今日もそうだろうと、高をくくっていたが。朝日の中覚醒した時、寝台上にはアカザひとりだけだった。 驚いて飛び起きた視界に捉えたのは、今と同じ場所で同じように本に没頭するルックの姿で。脱力すると共に、ただ笑った顔を見たくて渡した古書に、嫉妬までしてしまった。 朝、寝ぼけているルックに悪戯をするという、報復行動も見事に阻止された結果となった所為も多大にあったが。 ―――だけれど。 手渡した時の呆気に取られた表情と、花が今まさに綻ばんとするかのよう無邪気な笑みを目にし。単純だと、思いはすれど、もう色んなことがどうでもよくなったのも確かで。 「その執着心の欠片でもいいから、俺の方へも回してくれないもんかね」 「何、言ってんのさ」 古書に囚われていたと思っていたルックからの呆れたような返答に、ぎょっとする。 「…聞いて、たのか」 「同じ部屋にいるのに、そんな大きな独り言が聴こえないって方が変じゃないか」 そもそも、と。 膝の上、抱えていた古書を大事そうに閉じる。そのまま、白い指が革表紙の上をなぞる滑らかな仕草に、目を細め魅入る。誘われているのかと思えるほどに、その指先は淫ら。 そう勝手に解釈して、行為に持ち込むのもありかも知れないが。 「執着するも何も、あんたは僕のものなんだろ」 見慣れていてさえ見惚れるような綺麗な笑みで問われ、燻りは隠したまま小さく肩を竦める。 「お前がそう思ってる間は、そうだろうな」 「……僕は一旦手に入れたものは、手放さないよ?」 実に楽しそうに挑まれて。 「ほ〜う、そりゃ奇遇だな。実は、俺もだ」 「その言葉、覚えとくことだ。違えたら最後、血の海に沈めてやるから」 そう物騒な宣告をし、妖艶さを滲ませ微笑む。 「肝に銘じとくとんだね」 それは、自覚なき告白に他ならず。 誘惑さながらじっと見上げてくる翡翠に。 こいつには勝てねーと、赤らみ緩む顔を苦笑で誤魔化す。 それより何より、当面の心配は。 「……それ、下半身に露骨にクるから、他のヤツらの前ではやるなよ」 情けないとは思いつつも。 無駄な努力はせず、全面降伏、白旗を揚げた。 欲しいモノなんて―――何もない。
それらは、既に手の内にあるんだから。 ...... END
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