魔王の恋人 それは一つの戦いが終わり、城全体が戦勝祝いでお祭り騒ぎになっていた夜のことだった。 例によって、喧騒のただ中から逃げ出して来たルックは、どこからか美しい旋律が、細々と聞こえて来るのを耳にした。 気をつけていないと、人々の声に掻き消されしまいそうな、微かな音だ。 人の気配がしない暗い廊下の先から、ルックにだけ、風が伝えて来る。 特別な音色だと、教えてくれる。 ルックはゆっくりとそちらに向かった。 祝勝会は主に酒場やレストラン、広場などで盛り上がりをみせていたが、その音は逆に人気のない方から聞こえて来た。 ゆっくりと階段を上って行くと、徐々に音がはっきりしてくる。 ピアノの旋律だ。 段々と人の声が遠ざかって、その音色だけが耳に届くほどになった時、ルックは一つの扉の前で足を止めた。 そこはアンネリーやピコなど、楽団の者達が、普段練習用に使っている部屋だった。 ピアノの弾き手は、かなり上手い。 姿も見えず、声も聞こえないのに、ルックにはそれが誰かが分かった。 低く奏でられる不気味な曲には、闇の気配が潜んでいた。 そっと扉を開く。 中は火も灯されておらず、暗かった。 窓から差し込む月明かりだけが、大きなグランドピアノと、それを弾く青年を神秘的に照らし出していた。 こんなおめでたい日に、こんな寂しい場所に一人いるなんて、その青年には似合わない気がした。 彼は賑やかなのを好むたちではなかったが、ルックと違って、大勢の人に囲まれるのは慣れている筈だ。 故国ではパーティーにも出ることが多かったというし、祝いの席でなくとも、彼の周りには常に人がいた。 マクドール家の嫡男であり、解放軍時代は軍主であったのだから、当然だ。 今ではトランの英雄とまで言われ、人々から慕われ続けている。 盛り上がっている祝勝会の会場では、彼を捜す者も少なくないだろう。 酔うようにピアノを弾き続ける青年の頬は、月明かりを受けて、青白く見えた。 キーを叩く度に、その体も揺れる。 艶やかな黒髪が、さらりと流れた。 どくんと、心臓が跳ねる。 月のせいだろうか。 やけに彼が大人っぽく感じられた。 鼓動がうるさい。 いつもは人の気配に敏感なくせに、今日はこちらに目もくれない。 じっと見つめているのに、気付かれないなんて変な気分だった。 寂しい…なんてこと、ある筈ないのに。 早く、あの光のような瞳で、自分を見てほしかった。 今の彼は、夜の中に紛れ込んでしまったようだった。 いや、逆か。 闇さえも支配するのは、この青年の方なのだから。 夜に溶けるのではなく、自ら望んで、その存在を闇に染め上げるのだ。 この恐ろしげな曲に似合う、全てを従える魔物へと変わる。 ルックの前から、いなくなってしまう。 怖くて、反射的に声を上げそうになった。 その時、不意に音が途切れた。 まるでルックの叫びが届いたかのように、彼は手を止めて、顔を上げた。 「ルック?」 随分驚いている。 どうやら本当に気付いていなかったらしい。 けれど、その顔に先程までの翳りはなく、ルックはほっと息をついた。 「……いつからいたの?気付かなかった」 苦々しい顔で言われた。 来てほしくなかった、いや、見てほしくなかったという雰囲気だ。 こんな風に拒まれたのは、初めてだった。 知らず一歩退いてしまい、背に壁が当たった。 その様子を見て、彼が深く苦笑した。 「来ちゃ…いけなかった…?」 つい俯いて、そう尋ねる。 らしくないのは、お互い様かもしれない。 でも、この青年のこんな姿は見たことがなかったから。 自分の知らない人物になってしまったような気がして、怖かったのだ。 彼はピアノの前から動かず、窓の外を眺めた。 いつもなら、ルックが不安そうにしていれば、迷わず近付いて来て、抱き締めてくれるのに。 胸が締め付けられるように痛んだ。 「ピアノ…弾けたんだね」 意味もない問い掛けをする。 返事はなかった。 代わりに、低い旋律が響いた。 「この曲、知ってる?」 弾きながら、尋ねて来る。 闇を纏うような気配はそのままに。 彼の長い指先が、優雅に鍵盤の上を滑る。 どこかで聞いた曲ではあった。 音楽になんて興味はないけれど、前に誰かが弾いていた覚えがある。 確かタイトルは…。 「魔王?」 「正解」 答えた直後、ピアノに合わせて、歌声が発せられた。 普段より低めの、通りの良い声が、異国の言葉を紡ぎ出す。 「Wer reitet so spät durch Nacht und Wind? Es ist der Vater mit seinem Kind; Er hat den Knaben wohl in dem Arm, Er fasst ihn sicher, er hält ihn warm.」 風のように馬を駆り、駆けて行く者がいる。 腕に子供をしっかりと抱いて。 そんな始まりの歌だ。 やがて脅えた子供が、父に訴える。 魔王がいる、と。 「"Du liebes Kind, komm, Geh' mit mir! ――可愛い坊やおいでよ―― Gar schöne Spiele spiel' ich mit dir; ――おもしろい遊びをしよう―― Manch' bunte Blumen sind an dem Strand, Meine Mutter hat manch' gülden Gewand." ――川岸には花が咲き、綺麗な服も沢山ある―」 魔王は誘い、子は脅える。 父さん、父さん、魔王がいるよと、叫び続ける。 けれど父は気付かない。 彼には魔王の姿が見えないのだ。 そうして魔王は子供攫って行ってしまう。 「"Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt; ――可愛い、いい子だなあ坊や―― Und bist du nicht willig, so brauch' ich Gewalt" ――じたばたしても攫って行くぞ――」 ふっと、琥珀の瞳がこちらを向いた。 口元には、魅惑的な笑み。 まさに魔王そのものの様な、美しく、邪悪な微笑みだった。 立ち上がって、彼は楽しげに繰り返した。 「可愛い坊や、攫ってしまうよ?」 魔王が、そこにいた。 誰も知らない、ルックにしか見えない魔王が。 またしても後ろに退いてしまい、どんっと軽い音を立てて、背が壁にぶつかった。 けれどもう、そんなことに構う余裕すらなくて。 開けっ放しだった扉から、全力で駆け出した。 怖くて、早くその場から逃げ出したかった。 廊下を駆け抜け、階段を駆け下りて。 その途中で、ようやく我に返った。 何故逃げて来てしまったのだろう。 彼を怖いと思ったことなど、一度もなかったのに。 何が怖かったのか、自分でもよく分からなかった。 乱れた呼吸を整えながら、壁に背を預ける。 走ったせいだけでなく、心臓がドキドキしていた。 月に照らされた青年の姿が、信じがたいほど魅惑的だったからだろう。 怖かったのも確かなのに、一方で逃げ出したくもないと思っていたのだ。 魅せられてしまったのかもしれない。 闇を纏う彼が、あまりに美し過ぎて。 そこまで考えて、ルックは何が怖かったのかがやっと分かった。 魔王のごとき彼が怖かったわけじゃない。 あの青年に捕まるのも、怖くはない。 捕まってもいいと思った自分が、怖かったのだ。 彼に関わる度、ルックはそれまでの自分を変えられてしまう。 変わるのは、怖いのに。 人と交わることを知り、恋をして、愛するということも知った。 それらは全て、 あの青年に教わったことだった。 ルックは彼が怖かった。 いつだって、知らない自分を自覚させられるから。 弱い自分に、気付かされるから。 でもどうして、今日に限って、ピアノなんて弾いていたのだろう。 不意に疑問が、頭の隅を掠めた。 たった一人で、闇に紛れるようにして。 何故、魔王のふりなんてしたのか。 ルックを脅して、逃がしたがっているようだった。 単に、今の姿を見られたくなかっただけだろうか。 側にいてほしくなかったのか。 そう考えて、ずきんと胸が痛んだ。 あそこに行ってから、ずっと感じていたこと。 彼は、ルックに来てほしくなかったのだ。 でもどうして? あの英雄と呼ばれる青年が、実はとてつもない闇を抱えているなんてこと、ルックはとうに気付いていた。 そんなことくらいで、今更嫌いになったりしないのに。 ルックを遠ざけて、どうする気なのだろう。 不安定な心は、ソウルイーターの制御をも乱す。 闇は闇を呼ぶだろう。 心を侵食されて、その後は? 以前のように、他の誰かを求めるだろうか。 傷つけても何の支障もない、無関係な女性と、肌を重ねるのか。 そんなのは嫌だった。 ルックは下りて来た階段を、再び駆け上がった。 廊下には、先程とは違う曲が流れていた。 どこか切なくなるような曲だ。 まだ一人で悩んで、苦しんでいるのだろうか。 そんなの、ルックが我慢できなかった。 ノックなしで、乱暴に扉を押し開く。 音がやんで、驚いている青年の顔とぶつかった。 「ルック?」 「……やだ…」 「え?」 「あんたを一人にしておくの、やだ」 彼は呆然と瞬きを繰り返していた。 その顔には、先程までの翳りは、微塵も感じられない。 ルックはほっとして、知らぬ内に微笑みを浮かべていた。 彼は困ったように視線を彷徨わせ、鍵盤へと顔を向けた。 「止められなくなりそうだったから、近付いてほしくなかったんだけど」 「止められなくって、何が?」 意味が分からず訊くと、淡い笑みだけが返された。 「ちょっとそのまま聞いてて」 その言葉の後で、すぐに部屋中に曲が流れ始めた。 廊下を駆けて来た時に聞いた曲だ。 こっちは聞いたことがなかった。 不思議な曲だ。 聞いていると、何だかドキドキしてくる。 心が浮き立つような感じがした。 ピアノを弾く青年の目元に、睫が影を作る。 妙に扇情的で、見ていると変な気分になってきた。 頬に熱が増し、じっとしていられない。 うずうずしていると、曲が終わったのか、青年はその場を立った。 ゆっくりとルックの方へと近付いて来て、熱いままの頬に手を伸ばす。 手袋をしていない指先が触れ、鼓動が跳ね上がった。 「今の曲、知ってる?」 「し…知らない…」 そう答えるのがやっとだった、恥ずかしくて、俯いてしまう。 耳元に、彼の唇が触れた。 「Je te veux」 耳慣れない、異国の言葉。 でもそれは、都市同盟のどこかで使われている言葉で。 その意味に思い当たった途端、体中が熱くなった。 強張ったルックに気付いたのか、くすくすと笑う声が耳をくすぐる。 「Je te veux――君が欲しい」 繰り返して、頬に口付けが落ちた。 顎を捕らえられ、上を向かされる。 「あ…待っ…」 制止の声は届かなかった。 壁に押し付けられるように、口付けられる。 ぎゅっと目を瞑るのが、精一杯だった。 ドキドキし過ぎてて、体に力なんて入らなかった。 抵抗なんて、できる筈もない。 それほど深くは合わせなかったのに、唇が離れると、僅かに唾液が滴った。 再度軽く口付けて、舐め取られる。 キスをする時の、彼のいつもの癖だった。 「今なら逃がしてあげるけど?」 いつの間にか絡み付いていた手を、そっと解かれる。 心が動かなかったわけではない。 怖かったからこそ、逃げたのだ。 けれど、もう一度逃げるくらいなら、戻って来たりはしてない。 「僕が逃げたら、あんた他の女の所に行くだろ」 不機嫌に言ってやると、目の前の琥珀が、大きく見開かれた。 すぐに優しい微笑みを浮かべ、小首を傾げるようにして告げて来る。 「ヤキモチ?」 かあっと顔が熱くなった。 そう思われても仕方がない、いや、実際そうなのだろうけど。 それを認められるほど、ルックは素直じゃなかった。 「好きでもないのに抱かれるなんて、女の人が可哀想だろ!」 「好きでもないって、どうして分かるの?」 面白がるように訊かれ、目の前が真っ暗になった気がした。 「好きな人…できたの…?」 震える声で訊くと、さっきとは微妙に違う、驚いた顔が返った。 ぐいっと引き寄せられ、きつく抱き締められる。 「俺が好きなのは、ルックだけだよ。だから、そんな顔しないで」 そんな顔って、どんな顔だろう。 そうは思ったけれど、問いただす気にも、抗う気にもならず、ルックは抱き締めてくる腕に身を任せた。 頭上で、吐息混じりの苦笑が零れる。 「俺がどれだけルックを好きか、まるで分かってないんだから。もう他の女なんか抱けないよ」 「でも昔は…」 「教えてあげるよ。俺が誰よりも、何よりも君を愛してるってこと。一晩掛けて、語ってあげる」 「何言って…わっ!」 軽々と片手で抱き上げられ、ルックは慌てて相手の首に抱きついた。 青年は優雅に窓際まで歩いて行く。 膝の上にルックを乗せて、彼は窓枠に腰掛けた。 「戻って来てくれたのが嬉しかったから、今夜は攫わないでいてあげるよ」 微笑んで、昔の話をし始める。 そうして彼は、宣言通り、夜中ルックへの愛を語り続けた。 その夜、再び魔王が現れることはなかった。 けれどいつかは、その腕に抱かれ、闇の中に攫われる日が来るだろう。 その最奥にある光を、ルックが求め続ける限り、必ず。 そしてそれを手に入れた時、魔王は最も輝かしき存在へと変わるのだ。 魔王の恋人/終
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