坊 * シアン・マクドール
Bite, Bite and Kiss



 その奇妙な注意書きが魔法兵団団長の私室にかけられたのは、夏の声を聞き始めたころだった。


 扉を開けたら十秒以内に閉めること


 もとからルックの部屋の扉を開けようという猛者は、たとえ本人に用事があろうとあまりいない。それを彼自身もわかっているはずだし、だとすればわざわざこんな札をさげた理由はよほどのことなのだろうと噂になった。
 さらには、時を同じくしてルックが大量のハーブの鉢を部屋に運び込んでいたとの目撃談もある。
 それらを使って禁断の紋章術の研究をしているだの、やれ扉を開けたら毒薬だ毒ガスが出てくるんだのと憶測が憶測を呼んだ。
 結果、彼の部屋に近づこうという人間がいなくなってしまったのである。
「普通は伝令兵の仕事なんだけどなあ」
 魔法兵団員からの言伝を軍主が持っていくというのはどうなんだろう。
 扉の前で、騒動の元凶を見ながらシアンはぼやいた。もっとも拝み倒される形で引き受けたのだが、彼はこの役目を厭がっているわけではなかった。
 むしろ、いつも何のかんのと理由をひねり出してはルックの部屋にあがりこむ口実を探している彼にとっては大歓迎。
 逆にどれだけ長居してやろうかと、この部屋を怖れる兵士からみたら信じられないことを考えつつ、扉を叩いた。
「ルック、いるんだろう?伝言を持ってきたんだ」
「……誰からの?」
 扉越しでも、やけに声が遠い。どうやらルックは自分で動く気はないようだった。
「おまえの部下。入るよ」
 返事を待たずに、シアンは扉を開けた。
 つん、と鼻に香を感じた。濃い緑の匂いだ。
 なるほど、大量の植木鉢が運び込まれたというのが納得できる光景だった。
 今まで本が積まれていたスペースが片付けられ、代わりに緑が占領している。まるで温室のような有様だったが、外よりは涼しい。背中を伝っていた汗がひくのを感じた。
 思わず扉をそのままに突っ立っていると、途端に少年の鋭い声が上がった。
「ちょっと、閉めてよ」
 はっと『十秒以内に閉めること』ルールを思い出し、シアンは苦笑した。
「わかってるって」
「早くってば」
 急かす様子に従い、緑の影から歩いてくるルックの険しい顔を眺めた。
 シアンの目の前で、仁王立ちする。もっとも、身長が足りないので見上げる形。迫力などない。
「何の用?」
「おつかい。どうやらすぐに返事が欲しいらしいから、待たせてもらうよ」
 手紙を渡しながら、シアンはすたすたと歩を進めた。
 床には所狭しと鉢が並べられている。見るかぎりあやしげな植物も、猛毒を持つ草もない。一般的なハーブばかり。湿気で傷まないようにとの配慮か、机ばかりか床にまで積みあがっていた本が片付けられていた。
 ルックの性格からして、信じられない事態である。何のきっかけがあって園芸に目覚めてしまったのか。
 手紙に眼を通しながらこちらへ向かってくる姿を眺めながら、勝手に彼の寝台のうえに腰をおろした。兵団長の部屋であるにもかかわらず、ここには椅子が一脚しかないのだ。
 勝手知ったるといわんばかりのシアンを呆れまじりに眺め、ルックは自分の机に向かった。
「待ってても、茶なんて出ないよ」
「別にかまわないよ」
 そんなものよりも、ここから追い出されずにいるほうがずっといい。
 シアンの表情にルックは溜め息をつくと、勝手にすればと呟いてペンを手にとった。



 しばらくして、シアンはルックの様子がおかしくなったのに気がついた。
 らしくなく、落ち着きがない。
 自分の左手を見てはなんともいえない顔をし、無意味に指先を眺めている。資料をとる手が何度も止まる。視線を彷徨わせる。
 どうしたのか。
 そんな表情の変化すら楽しんでいたシアンとルックの視線がかちあった。
 不機嫌な緑。
 素直に評したところで、がたんとルックが椅子をひいた。ブーツの踵を鳴らすように、寝台でくつろいでいたシアンの前に来る。先ほどとは違い、完全に見下しモードだ。
「……元凶はあんたか」
「はい?」
 地を這う声で告げられて、思わず問い返す。
 正直、心当たりはない。
 あれだけ眺めているのだから意識くらいしてくれないかなーとか思わなかったでもなかったが、悲しいことにルックがそういう類の人間ではないと理解済みだ。
 では、さて。
 ひたすら首を捻っていれば、その態度に焦れたのか。
 シアンの目の前。ルックが左手をすいと差し出した。
「集中できないんだけど」
「どうして」
「刺された」
「何に」
「蚊に」
「どうしてそれがおれのせいになるんだ?」
 今は夏だし、この本拠地は湖の真ん中にある。蚊なんてどこにいてもおかしくない。
 だというのに、どうして自分のせいにされるのだろう。
 納得いかない様子のシアンにルックは続ける。
「あんたが入ってくるときに連れてきたんだよ。この部屋にはいなかったんだから」
「わからないだろう?ルックが刺されなかっただけで、いたかもしれない」
 言いながらも、シアンは視界いっぱいの植物の群れに分の悪さを感じていた。こうやって見ればわかる。どれもこれも……よくよく見れば除虫菊なんてものも混じっている時点で明らかだった。
「これだけ、あいつらが入ってこないようにしているのに?」
 まさに、蚊よけのために作られた自然の結界。
「あんたみたく日に焼けて、いかにも蚊に喰われそうにない、まずそうな人間にはわからないかもしれないけどね?」
 怒りに紅潮する頬の感触を思い出す。
 ルックは肌も白いし、やわらかいし、ひとたまりもない餌食だ。
 あの扉のルールも蚊を部屋にいれないためのものなのだろう。わかってしまえば他愛もない理由だった。
 が。
「ちょっと、聞いてるの?」
 一方的に自分のせいにされるのは納得がいかない。
「聞いてるよ。集中できなんだろう、かゆくて」
 差し出される手。
 当然のようにシアンは細い手首をつかんだ。
「な」
「だったら」
 驚いた様子のルックに、微笑んでやる。彼のさっと表情が変わる。酷い警戒のされようが面白くて、笑みが深くなった。
「気にならなくなるようにしようか?」
 別にたいしたことをしようとしているわけではない、はず。
 シアンはそうして、そのまま白い手を引く。意外なほど抵抗がなかった。否、するのを忘れているのか。
 刺されたと主張している左手の人差し指。
 その爪先に軽くくちづけて、吐息をわざと残して。
 試すように見上げれば、どこかあっけにとられた色彩で固まった翠があった。

「こんな風に、ね」

 ――めずらしいその表情に勝利宣言。




宮古音子さまより 逆平行さま

 宮古さんのサイトで2周年&2万到達記念フリーになっていたのを、遠慮なくさくさくと頂いて参りましたv
 何かもう、さりげなくルックぞっこんな坊さまと、ある意味そんな事で…と言ってしまいそうになる事に躍起になってるルックがとても愛しいですv
 今更ですが、宮古さん2周年&2万到達おめでとうございましたv と、素敵な小説も感謝でございます!


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