坊 * レン・マクドール / 2主 * リク
secret life



 君の心の向こう側を占める人たちを知っている―――――






 雲が低く空を覆っていた。
 数日前までは小春日和というには暑いくらいの日々が続いたところにいた。そこから南下したはずなのだがここは西方に位置する山から吹き降ろす風に曝されて冷え込みの厳しい土地として知られていて、否応なく深まっていく季節を思い知らされる。
 今来た道のりを振り返れば灰色の空、遠くに木の葉のだいぶ落ちた森。これから向かう先へと目を転じれば突き当たるべき山も見付けられずに風が吹き抜ける。ひからびた草しか生えていない灰褐色の大地に踏み出した足のかじかんだ感触に眉をひそめて、ルックは目の前の背中をにらみつけた。
「なんで僕がこんな旅につきあわなければいけないんだ」
 独り言にしては大きすぎる声は(もちろん聞こえるように言ったのだ)前を歩く人物の足を止めるには十分だった。
「……だったら戻ればいいだろう」
 褪せた若草色のバンダナをした頭を巡らせて振り返れば、頭の後ろで結び余らせた分の布が追って行く。けれど後を向いたことで向かい風に流された細い布が顔にかかって不快だったのかわずらわしげに手で身体の後へと持っていきながら、ぼそりと返した声もまた不機嫌さがにじみ出ている。
 この相手にしては珍しい感情の表現は、ルックの眉間の皺をさらに増やした。
「転移魔法を当てにしたのは誰だった?」
「当てにはしてないよ。最初から歩いていくつもりだった」
 視線をまた前へと向けて足を進ませ始めた相手、レンはそう返した。ルックは慌てて足だけでなく言葉でも追いかける。
「時間がかからないし、人目にも触れないから都合がいいって言った」
「利点を上げただけだ。頼んではいない」
「ここから歩いていくって? 強情っぱりだね、君も」
「上手の手から水が洩れるって知っているかい?」
 いきなり変わった話題にルックが戸惑いの間を設けている間に、今度はくるりと身体ごと反転させてルックと向き合い、レンは言った。
「どんなに上手くても失敗はするってことさ」
 転移魔法の失敗で目的地とは別の場所に着いた。レンはそう言いたかったのだろうが。
 失敗などしていない。この僕がそんなミスをするものか。
 だが、レンはそのルックの心を読んだように。
「でも、ルックが失敗するわけがない」
 それはルックへの信頼だったのか、それとも他に根拠があったのか。まるで揺るぎのない調子で続けて。
「ルック。こういう時は一言謝ればいいんだ」
 そう言われてはい、そうですかと答えられる素直な奴がいたらお目にかかりたいものだ。






 ルックがグレッグミンスターまでやってきたのはいつものことながらデュナン同盟軍軍主のお供をしてのことだ。その軍主であるところの少年リクはトラン共和国の首都を訪れた際には恒例となっている買い物や交易商の誰やらと何事か交渉をした後、やはり恒例となっているトランの英雄の生家に行ってかの人物の協力を仰ぐのだろうと思っていた。確かに出かけていった。レンという名のかつて解放軍を率いた人物に面会を求めた。そこで二人の間で交わされた会話についてはその時点では知ることは出来なかったが、リクが辞去する際にレンは同行するためではなく見送りのために玄関先へ出てきた。
「それじゃあ、よろしくお願いします」とリクが別れの挨拶に先んじて言えば。
「ああ。責任を持って届けるよ」とレンが答えた。
「なんだ?」と口を挟んだのは同じくリクの供をしてきたビクトールだ。
「え……あの。レンさんにお使い頼んじゃった」
 えへへ、と悪戯が見つかった子供のようにリクは笑った。
「使い? また何の」
 具体的な答えには至らなかったためにビクトールはレンにその説明を求めた。
「メグが実家に手紙を届けて欲しいってリクに託したらしい。リクはほら、グレッグミンスターから外へは出られないだろう。誰か頼める人はいないかって相談されたんだけど、僕が行くことにした」
 レンが口にした名前を持つからくり師を名乗る少女を思い出して、そう言えばあの子も解放軍に参加していたんだっけなあとビクトールは頷いた。
「なるほどな。けど、言っちゃあなんだが、他にも人間はいるだろう。おまえが行くこともあるまい?」
「メグの家ってレナンカンプにあるんだよ」
 ビクトールの疑問にレンは平坦な調子で答えた。特に何を強調した様子もないが、ビクトールは軽く目を瞠った。
「レナンカンプか……」
 剃り残しの見える顎をさすりながら、ビクトールは小さく呟いてレンと顔を見合わせると「ふうん」と唸った。
「なんですか?」
 今度はリクが不思議そうに二人を見比べる。
「いや。だが、懐古趣味に走るならやめておけよ」
 最初はリクに、後はレンに向けられた言葉だ。そうと知ってリクがビクトールからレンへと視線を移す。レンが苦笑した。
「そんなつもりはない。ただせっかく帰って来ているからね」
 レンの答えを受けてビクトールは調子を改めた。
「にしてもメグもメグだな。どうせなら一緒にグレッグミンスターまでくれば、まあ、ちょっとは歩くがレナンカンプならすぐそこだろう」
 すぐそこというには距離があるが、メグが現在在籍している同盟軍の本拠地があるデュナンから比べれば近いには違いない。
「あ、それは僕も言ったら、だって帰りたくないもんって言ってた。だからここに来るって言うといつも逃げちゃうんですよ。普段はからくり丸追いかけているのにこのときばかりはからくり丸がメグを追いかけているんです」
 リクが身振り手振りを加えて話すのへビクトールが「あれもはねっかえりだなあ」と笑った。「でも、ご両親が心配しないようにって手紙を出すあたり良いところもありますよ」とリクは付け加えた。孤児のリクにしてみれば、そんなところにほだされて手紙を頼まれてきたのだろう。
「おう。だったらこいつに手伝ってもらえばいいんじゃねえか」
 それまで我関せずを決め込んでいたルックの肩を、突然ビクトールが掴んで引き寄せた。
「な……」
「あ、そうだね。ルックもお願いできるかな」
「なんだって、僕がっ」
「だって、レンさんだけじゃ大変だろう。場合によっては竜洞騎士団領まで行ってくれるって言うし……」
「竜洞騎士団?」
 ビクトールが再び土地の名前を繰り返し、ルックはその太い腕の下でもがくのを忘れて目を瞠る。
「いや……竜洞騎士団の方は、レパントに頼んでみるつもりだけど……」
 二人の反応にレンは再び苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ、その方がいいだろうな」
「え、え? 竜洞騎士団領ってそんなに遠いんですか?」
 周囲の会話にリクが目を瞬かせて尋ねると、ビクトールが答えた。
「遠いって一言で言えば遠いんだが、これがまた複雑でなあ。今はどうか知らねえが、赤月帝国の頃は帝都防衛を重視してこのアールス地方にはクワバの要塞を通らねえと出ていくことも入ることもできなかったんだ。トラン湖に出る河川を使った交通もシャサラザードの水上砦が押さえている。グレッグミンスターが難攻不落だった理由だ。そんなわけでな、こいつなら船を出してシャサラザードを通してもらうって手も使えるだろうが、普通は歩くしかねえ。それで宿があって道が整備されていてなんて真っ当な道筋を考えるとなるとここから南下してゴウラン地方に入り、トラン湖を回りこんでガランの橋を渡らねえと竜洞騎士団領のある西方領には入れねえんだ。そして目的の竜洞騎士団はその一番奥だ」
「うわ。僕、見当つかなくてすみません。軽々しく頼んじゃって」
「大丈夫だよ。竜騎士の砦から定期的に連絡のための竜が来ているはずだから」
 デュナンの同盟軍を率いていると言っても育ったのはハイランドの片田舎であるリクにしてみればさらに外国のトランの地理には詳しくなくても当然である。自分が予想していた以上に遠いと知って慌てるリクをレンが宥めた。
「しかし、なんだ。竜洞騎士団ってことはこっちはハンフリーか、フッチか」
 竜洞騎士団への用件をビクトールが推測した。レンは笑って「当たり」と答えた。
「両方らしいよ」
「あの無口が手紙ねえ。まあ、あのチビ竜のこともあるしいろいろと連絡したいことはあるだろうな」
「そうだね。だからできれば竜洞騎士団の方こそあまり時間をかけないで届けたいところなんだけど。今どれくらいの割合で竜が行き来しているのかまではわからないしな。レナンカンプにしても人目につかないで行けた方が都合がいい。確かにルックに手伝ってもらえると有り難い」
 忘れた頃にまた名前を出されて顔を上げれば、漆黒の瞳に出会った。
 かなりの希望を口にはしたが自分からは頼んだりはしないだろう。かつてはルックの上官であった彼も現在はその立場にない。頼むにしてもそれを決めるのは現在ルックを配下に置いているリクだ。そしてこの話が最初からルックの能力を当てにしていないことに、彼やリクのルックに対する姿勢を見ることができる。
 つまりレンはルックに直接頼まない。リクにも要請はしない。そしてリクは。
「ルック。良ければ頼まれてくれないかな」
 軍主なのだから命令されればルックは従うしかない。軍務とは直接関係ないから命令ではないのだろうか。
「帰りはどうするんだい?」
「え?」
「戻ってくるまで待っているの? 先に帰るのなら僕がいなくても大丈夫なわけ?」
「ああ、うん。先に帰るけど、なんとかなるよ」
 行ってくれるんだね、と確認を取られて仕方がないね、と答えた。
 ありがとうとリクは言う。なんで君が礼を言うんだと問えば、みんな喜ぶよと返ってきた。


 故郷、家、家族。置いて来た者たちに届けるもの。
 意味の見出せないものに時間と能力を裂く為にリクやビクトールたちを見送り、レンの準備を待って出発した。





「最初から歩いていくつもりだったって言ったね。つまり君は初めから竜洞騎士団の連絡便になんて頼るつもりはなかったんだ」
 ルックの口から素直に謝罪の言葉が出るなどとは考えていなかったが、売り言葉に買い言葉で返したそれを言葉質に取られるとはそれ以上に予想外だった。意外な方向からの反撃に今度はレンが言葉を詰らせてルックを見返した。
「頼まれたのは手紙だけだ。使いの竜騎士に渡せばそれで用は済む。でも、君は君自身が竜洞騎士団領に行きたかった。そうだろう」
 レンは少しだけ目を細めてルックを探るように見てから口を開いた。
「それが、どうした」
「否定しないんだ」
「否定して欲しいのか」
「僕には関係ない」
「だったら言われたとおりにすれば良いだろう」
「君の言葉には従わない」
「……レックナートさまの命令じゃないからか」
「そうだよ」
 ふ、とレンの口元が歪む。皮肉めいた笑みの対象となるのは他者か、己か。 「それこそ、君の自由だよ。君自身がそう決めているのだからね。だったら文句を言って付き合う理由もないだろう。勝手に帰ればいい」
 身体を反転させれば、追い風に流れたバンダナの裾がレンの向かう方向へと先行する。それはまるでルックに未練を残さない現在の彼の態度のよう。ならば自分からも断ち切ればいい。
 彼は困ったりはしない。例え長旅に出る仕度を整えていないにしても、この国で彼が粗略に扱われることはないはずだ。ルックがいなくてもレンが困る事はない。
「ああ、関係ないよ。君が、頼まれた手紙を届けることを口実に、何処へ行こうと、何処を訪ねようと、僕には関係のないことだ」
 言い終えると、ルックは転移のために呪文を唱え始めた。






 レナンカンプを先に訪れて、さほど時間もかからずにメグの家を見つけて依頼のひとつを無事に果たした後、レンはもうひとつ寄りたいところがあるから少し時間をもらってもいいかと尋ねてきた。つきあってくれとは言われなかったので街の入り口で落ち合う約束をして別れた。
 初めて来た街でもあったので、通りを流しながら適当に時間を潰していたが、先に城門に着いて彼を待っているうちにふと思い出した。レンとビクトールが交わしていた意味ありげな会話。
『懐古趣味に走るならやめておけよ』
 解放軍に在籍した人間の内、ビクトールやフリック、そしてハンフリー他数名をまとめて言い表す言葉がある。
 第1次解放軍。レンが率いたのはそれらと区別するために第2次解放軍とされている。レナンカンプはその第1次解放軍のアジトがあり、リーダーとされる女性が命を落とした場所と聞いている。レンはその臨終に立会い、彼女の意志を継いだのだと。
 ルックが宿星のひとつとしてレンの元に参じる前のこと。
 街の名前を聞いて、ビクトールのように敏感に反応しなかったのも当然だ。そしてレンがルックの能力は頼りながらもそれ以上の同行を求めなかったのも。
 だが、それならば。もうひとつの場所へもただ手紙を届けるだけで終らせるつもりはないのだろうと、すぐさま推測できた。
 竜洞騎士領内には一般には知られていない秘境とされる場所がある。シークの谷と呼ばれるそこへ普通の人間ならば容易には立ち入る許可は下りない。険しい山間であるから竜を扱える竜騎士でなければ入れないということもあるし、それでも魔力を宿しているとされる水晶や希少価値の高い薬草などを求めて盗掘者が入り込み遭難するという事故があることから、資源の乱獲を防ぐ意味もあり、その存在は外部の者には漏らされることがないからだ。だが、騎士団長のヨシュアと彼に手紙を託したとされるハンフリーは旧友という間柄だ。だからこそ、元騎士団に所属していたフッチを預けた。彼らの消息を携えて一時はリーダーとして仰いだ相手がやってくるとあれば、レンが谷を荒らしたり資源を望む共和国政府からの使者という目的でもない限り、彼らが協力を拒む理由はないだろう。
「お待たせ」
 そう声をかけられて気づけば、レンが戻ってきていた。
「何処へ行っていたんだい」
 聞くまでもないが、そう尋ねれば「うん、ちょっとね」と言葉を濁した。
 レンにしてみれば話すまでもないと判断したのかもしれない。ルックには面識のない相手だし、解放軍に参加したのもルック自身が志を持ってのことではない。それでも、あるいはなおさら。あいつのことはどう説明するのかと、ひどく意地の悪い興味が湧いた。だから、目的の場所とは離れたところへわざと転移した。
 例え行きがかりでもルックの能力を頼んで行くのなら、なんらかの説明はしてしかるべきだ。  そうルックもきちんと伝えるべきだったのだが、それができればこんな悪戯じみたことは最初からしなかっただろう。師匠と二人だけの生活が長いためか、ルックのコミュニケーション能力は本人が思っている以上に低い。そしてそれに不便を感じたことがない。他人に関わること自体面倒だと思っているのだから当然と言えば当然なのだが。
 通常であればその点を承知しているレンが補っているのだが、違う場所に辿り着いて、それが故意だと気づいて、さすがにレンも寛容でいることはできなかったようだ。いつもなら困惑した顔でルックを窘める程度で済ますところを、気候や周囲の景色などから以前訪れたことのあるトランの北方、キーロフやカレッカの近くだと察しをつけると歩いていくと言い捨てた。
 そこまで彼の態度を硬化させた理由がすなわち竜洞騎士団に行きたいという熱意だと思えば、ルックの不満も否応なく増した。第1次解放軍のリーダーであった女性とは違い、シークの谷に散ったレンの親友とやらとはルックも多少の面識がある。レンにすべてを置いて逝く事を選ぶことが出来た彼の持つ紋章の前所有者。
 あいつは狡い、と魔術師の島で初めて見たときからそう思っていた。真の紋章の所有者でありながら、しかも子供の姿のままで普通の人間のふりをしているから。そして、生きている間も死んだ後も、こうして彼の心を占めているから。
 あいつは、狡い。そうやって彼の足を進ませる事実を前に、彼をこの場において去ることはひどく惨めだった。






 突然の衝撃に詠唱は中断され、身体中にかかってきた圧力に抗する術はなく地面に仰向けに転がった。当然地面に叩き付けられる痛みを覚悟したが、多少の衝撃はあったもののひどく打ちつけるという事態にはならなかった。ルックの細い身体を抱きしめて庇ったものがいる。
「なん、だよ……」
 だが、それもぶつかるように抱きついてきて、魔法の詠唱を中断させた当人であれば出てくる言葉も感謝ではない。
「……やっぱり、ルックにいなくなられたら困る」
「虫のいいことを……」
「違うよ。転移魔法のことじゃなくて……ルックにいて欲しい」
 少し速めの鼓動が伝わってくる。動いたことよりも緊張と緩和とで上昇した熱が、吐く息も白くする。互いの体温に触れたことで、周囲の気温の低さを改めて感じた。
「……少し聞いてくれるかい?」
「この状態で?」
「安心する」
「馬鹿みたい。人が通ったらどうするのさ」
「当分通らないよ。人影は見当たらない」
 確かに丈の高い草も岩もなく見通しがいいおかげで獣の陰すら見当たらない、生きものがいるのかと思われるほど荒涼とした場所だ。しかしその荒野の真ん中で、男同士で抱き合っているなんて(正確にはレンが一方的にルックを抱きしめているだが)奇妙以外の何ものでもない。それを要請してくる方も変だが、何が何でも厭だと思わない自分もどうかしている。
「……いいよ」
 溜息と共にルックは答えを吐き出した。
 だが、聞いて欲しいと言ってきた割には、かなり躊躇った後でレンは口を開いた。
「ここに帰って来て少ししてから、レパントの開いた会食の席で父の墓参りを勧められた……クレオからも落ち着いたらと勧められていたから、近々家の者たちだけで行くつもりだと答えたら、駄目だと言われたんだよ。立場を考えてくださいってね。レパントは大袈裟には思わないでくれって、代理の者に花を持たせるだけだって気を遣ってくれたんだろうけど、当日きた奴らの顔ぶれを見てわかった。立場と言うのが何か、よくわかったよ。そいつらはレパントに対してまだ発言力を持っている僕に取り入ろうとしたんだ。僕に気に入られようという目的で来たんだ。何を期待したんだ。父の墓前で、その父親を手にかけた息子に対して!」
「……レン」
 震える肩に手を回せば「大丈夫だ」と小さく返ってきた。
 当時のことが目に浮かぶようだとルックは思う。表面は穏やかに笑って、礼儀正しく応対したのだろう。見え透いたお世辞をやんわりとかわしながら、取り入る隙は決して見せなかったのだろう。
 帝国が一部の階級の腐敗によって滅び、代わりに打ち立てられた共和国にも利権に群がる人間は存在する。それを彼が承知していなかったのではなく、彼が戦争を導いた意味を、権力者となることを拒んで国を出ていった理由を想像もせずに、共和国大統領が敬っているという事実だけで判断した人間がいたということだ。怒っても良かったのだろうに、例え形だけに過ぎなくても父親の墓に詣でてくれた人に対しては相応の礼儀で返すしかなかった。それができてしまう自分に一番腹を立てている。
 器用に見える一方で要領は悪い。だからこそ解放軍のリーダーなんて引き受けるはめになったのだろうけれど。
 互いの顔が見えないことにむしろ安心する。そう思ったことで、ああ、そうかと納得した。だから不自然な体勢ながらもこのままでとレンは求めたのだ。
「でも、父のところは僕の父親だからという理由だけで詣でる人たちばかりじゃない。アレンやグレンシールや、マリーさんやソニアさん……多くの人たちが忘れないでいてくれる。だから、そう思うとオデッサさんやテッドはどうなんだろうと気になった……」
「……だから、今回のことは渡りに船だったわけだ」
 ルックの転移魔法を頼むのに、時間がかからないだけでなく人目につかないという点も上げた。つまり目立たないように移動したかったのだ。世間から隔絶された竜洞騎士団ならともかく、第1次解放軍リーダー縁の地を、第2次解放軍リーダーだった人間が訪ねればそれはそれで話の種だろう。逆に竜洞騎士団領に入るには一般の人間の目からは隠れるが、それなりの手続きが要る。竜を使うにしても船を出してもらうにしても政府の許可が要るのだ。知られずにというわけにはいかない。それは一般的には知られていないシークの谷に個人的な理由で立ち入る許可を求める以上、共和国内に属してはいても竜洞騎士団領という自治権を持つ相手に対して、共和国政府に口を挟ませる余地も排除したかったということだ。彼が歩いてでもと拘った理由はそこにある。
「そうだ。ただの感傷かもしれない。あの戦争で死んだのが彼らだけじゃないことを思えば偽善と呼ばれても仕方がない。でもビクトールが言ったように懐かしむためでもない。彼女の……オデッサさんが実際に亡くなった場所は閉鎖されていたけれど、隠れ家になっていたあの宿を彼女を悼むために訪れる人は今もいるそうだよ。それを知ることが出来ただけでも良かったと思っている。マッシュのことはアップルに任せておけばいいからね……でも、テッドは……僕だけだ……僕が忘れちゃいけない。だから、どうしても行きたいと思った……」
 己を運命に縛りつけたものをどうしてそんなに大切にできるのかがわからない。忘れようとしても忘れられないというのならわかる。いや、忘れさせてくれないのだ。この身に宿ったモノが。鏡に映るその姿が。
 ここにはいない相手へと思いを巡らせたルックの背をレンの腕が今また強く抱いた。
「ルックは暖かいな」
「……ここが寒いだけだろう」
「うん。でも、暖かい」
「このままこうしていたら凍るよ」
「それもいいかもしれない」
「僕は厭だ」
「それじゃあ、どうしてここを選んだ?」
 その問いに暫し考える。
 暑かろうが寒かろうが、それはどこでも良かった。ただ見せ付けたかっただけなのだから。
 今、君が行きたい場所へ行かせることができるのは僕だけなのだ、と。
「頭を冷やさせようと思った」
 けれど何故寒い場所なのかという部分に限ってそう答えると、喉の奥で笑う声を振動と共に受け取った。
「なんだよ」
「それは、僕自身が竜洞騎士団に行きたい理由をルックが気づいていたからだろう?」
 その理由自体は口には出さなかったが、知っているんだということは誇示した。
 黙っていると、身体を離しながらレンはにやりと笑って言った。
「お互い様だ」
「……何が?」
「”レックナートさまの命令じゃないからか”って聞いて”そうだよ”って君が答えたとき、こんちくしょうって思った」
 見下ろしてくる黒い瞳を、ただ見返した。
 自分だけではない。(嫉妬したのは)
 彼だけではない。(心の中に複数の人間を住まわせているのは)
 手を取り引っ張ってルックの身体を起こし、自身はその傍に膝まづいて、レンは今度はルックの瞳を覗き込むようにして言った。
「けれど、命令では誰も動かない。僕がどうしてそうしたいのか、ちゃんと伝えることを忘れていた。改めてお願いするよ。一緒に行って欲しい。ルックの能力を当てにしていることも否定はしない。でも、それがルックであることに感謝する」
―――――彼は、狡い。そうやってルックの前に彼しかいないように錯覚させる。
 命令では誰も動かない。リクはルックに軍主として命じたのではなかった。ならば何故、自分は頼まれる気になったのだろう。
「ルックが協力してくれていろいろと助かるけれど、それよりも一緒にいられることが一番嬉しいよ」
―――――狡い。今更そんなことを言うなんて。
 命令では誰も動かない。レンはルック自身がそう決めているのだと言った。レックナートの命令ではないからレンには従わないという会話を交わした時。
「だから、一緒に行こう」
 だが、一番狡猾なのはその言葉を待っていた己だと、ルックは気づいて愕然とする。
 いつもいつも。
 君の傍にいたいと、君が必要だと言っていたのはレンだ。歩いていくと強がっても結局ルックが本気で転移しようとすれば引き止めたではないか。「ルックにいなくなられたら困る」と言って。
 だが、実際にレンはルックがいなくても困らない。いや、荒野に一人残されては全く困らないことはないだろうが転移魔法が誰でも使えるものでなければ、人はそれに頼らない方法を知っている。それ以前からレンには竜洞騎士団へ行くためにいくつもの方法が使えたはずであり、それが共和国政府に借りを作りたくないという理由で選べないというのであれば、他の方法を考え、最終的には時間をかけて歩いていくことも厭わなかった。事実レンはルックが竜洞騎士団へ向かうことを拒絶したと知ると、己の足に頼る方へと切り換えた。最初からルックを頼らなかったのは要請できる立場にないという考えからだったようだが、切羽詰った状況においてもなお、その能力を頼まなかったことはルックの自尊心を傷つけた。
 ルックにいなくなられたら困る。それはルック自身が言わせたかった言葉だ。自尊心を充たすためなのか、それとも。
「……さむい」
「え……?」
「寒い!」
 挑むように言葉を叩きつければ、レンは困ったように微笑んだ。誰の所為でこんなところにいるんだというのはレンにしてみれば逆恨みだろう。それでも、ふわりと両手を広げてルックを包んだ。
「さっさと行くよ。こんな寒いところ」
「うん」
 抱かれたまま宣言すれば、答えた声が震えている。彼の腕に包まれた身体にもその振動は伝わったが、寒さのためではないだろう。
「ああ、冷たいね」
 ひたりと頬に頬を寄せて、そう呟いた声が耳を擽る。密着した部分が徐々に熱を帯びる。吐息が首筋を辿りながら白く消える。
 熱が離れた瞬間、絡んだ視線は互いの意志を違えることなく伝えて、次の行為へと進ませる。
 ここは寒いから、この荒野に二人だけだから、ただ熱を欲している。それだけだ。
 言わせたかった言葉に何を求めたのかなんて考えられなくなるくらいに抱きしめて、接吻をして。
 今はそれだけでいいから。






 言葉にしなければ伝わらないことも、言葉で伝えるにはもどかしすぎることも。
 伝えたい相手がいればこそ。君がいなければ意味がない。
 君がたった一人でこの世に生まれてきたのでなければ、その向こうにいくつもの人生があり、触れ合うごとに互いの世界は広がっていくだろう。
 誰も一人じゃない。


―終―
(2002/11/19)





月ノ郷杜さまに捧げます。サイト開設1周年及び10000hit(間近)おめでとうございます。そしてお待たせしました。キリリクいただいたものをこちらの都合で差しあげられなかったのでずっと気掛かりでいたのですが、それをお祝いに兼ねてしまおうという図々しさ。しかも再リクエストの「痴話喧嘩」はあまりクリアしていないような……喧嘩って難しいですね。というよりつくづくうちの坊はルックに甘いです。結局ルックに負けてます……情けない。この後、竜洞騎士団に真っ直ぐには向かわなかったに1票(入れるな)こんなものですが、お納めいただけますでしょうか?




SAKIKOさまより chinita networkさま

 SAKIKOさんのサイトでキリ番ニアピンと、一周年記念・10000ヒット前祝(笑)という事で頂きましたv もう、メール頂いた時は体調悪いにも関わらず、パソの前で小躍りしましたよ、マジで!
 ルックの依怙地さや可愛さに坊さまじゃなくてもメロメロ状態ですって!!!
 SAKIKOさんの書かれる坊ルクは、喧嘩しててもどこかほの甘く、それでいて甘過ぎない強さを感じます。
 何しろこのお話のリク内容が”坊ルクにおける痴話喧嘩と仲直りの方法”ですから、SAKIKOさんにおかれましては、さぞかし大変だった事と思われます。(月ノ郷だったら、平身低頭して逃げちゃう可能性大!) それをこんなに素敵なお話にして頂いて…本当にありがとうございました!

 それと、月ノ郷もSAKIKOさんと同じく『寄り道』に1票でお願いしますv


〔 BACK 〕