坊 * レン・マクドール
silent night



 風が雲を呼んだ。
 遠く海から渡ってきた風は大地を駆け抜けて山へと突き当たる。
 風は大きな空気の塊となって上昇し、空の高い場所で膨らみ熱を下げる。
 冷えた空気からは水蒸気が生まれる。雲が生まれる。だから、風が雲を呼ぶ。
 雲の中で生まれた氷の結晶が、地上に届く前に解ける。雨が降る。
 雲の中で生まれた氷の結晶が、雪の結晶となり降りて来る。雪が降る。
 だから、風の申し子は、雪が降ってくる時を知っている。
 ひらりひらりと舞い降りる白い雪片を、萌木色の瞳が見つめている。



 雪が降る。ただ静かに降り積もる。
 岩も木も家屋もその懐に包み覆い隠して、音も命も飲み込んで。
 静寂。そのただ中に一人いて、色のない世界を見つめている。
 やがて、短い昼が終わりを告げて、灰色の空が藍色へと変わり、
降る雪も風さえも止んで時は止まる。
 死の世界。
 見慣れた世界。
 そこに変わらずこの身はあり続けるだろうか。それを誰が見つけるだろうか。



 雪は何故、音もなく降り積もるのだろう。



 静寂。その中に、音が生まれた。



「―――ルック」



 名前が生まれた。



「ルック」



 名前を呼ぶ相手が生まれた。



 白い世界の中に忽然と現われた蠢くものは、舞い落ちる雪片の陰に人の形をとる。
「ルック。そろそろ戻らないと、僕らが雪像になってしまうよ」
 目の前までやってきてそう告げた相手の口からは白い息が上がり、毛皮の帽子から覗いた黒い髪に、ひっきりなしに雪がまといつく。その相手の肩越しをみやれば、不自然に固められた雪の塊がいくつか並んでいる。昼間、村の広場であるこの場所で子供たちがそれらを懸命に作っていた。雪が降り始めたので子供たちはそれぞれの家に帰ったのだろう。既に日も暮れかけて出歩くものもいない。
 雪像から目の前にいる相手へと視線を動かした拍子に瞬いた目蓋が、いささか重く感じられたのは睫毛にも白い結晶が降り積もっていたかららしい。
 どれだけの時間立ち尽くしていたのか、冷え切った身体に雪は解かされることなく降り積もる。
 けれどこの呪われた身すらもその懐に抱き包んでくれるのならば、なんと寛大でやさしい存在であろうか。
 甘美な誘惑。その白さに心を奪われるその時に、ふわりと訪れた温もりは、首の周りに巻きついた布からもたらされた。
 見上げれば深い夜空の色の瞳が微笑んでいる。
 その瞳の持ち主の、襟元を覆っていたはずのものがないと、確認するまでもなく、彼が自分の襟巻きをルックに巻いて寄越したことにはどう応えてよいのかわからずに、瞳を伏せた。
「帰ろう」
 どこへ。そう問い掛けた声を飲み込む。今は旅の途中。一時的に寝床を借りた宿へと戻る。それを帰ると表現しただけだ。けれど、終の棲家など何処にもなくても。
「そうする」
 帰ろう。一緒に。そう言ってくれる相手がいるだけで良いのだと思う。
 歩き出した彼の後に続いて足を踏み出せば、靴の下で雪が踏みしめられて悲鳴を上げた。
 ああ、ここにも音はあったのだ。ただ、自分がいるだけで。
「……レン」
 ただ、君がいるだけで。
 躊躇った後、音にした名前に答える声がする。
「なんだい?」
 名前が生まれた。
 名前を呼ぶ己が生まれた。



 問い返しの声に応える言葉はない。それだけで十分だから。



「今日は何の日か、知ってる?」
 返らない返事に何を思ったのか、レンは逆にそう問い掛けてきた。
「って、子供たちに聞かれた」
 それはルックへの問いではなく、昼間この場所で遊んでいた子供たちから聞いた話をしたいらしい。
「今日は一年いい子にしていた子供にはご褒美がもらえる日なんだよ。明日から新しいお日様が生まれるから」
「新しいお日様?」
 子供の言葉をそのまま真似たのだろレンに、ルックは疑問で答える。新年にはまだ少し間があるはずだとつけくわえれば、僕も最初はそう思ったと笑った。
「冬至祭というんだそうだ。一年で一番昼が短い日が過ぎて、明日から徐々に日が長くなる。だから、太陽が生まれ変わる日、光が生まれる日としてお祝いするんだって言ってた」
「光が、生まれる……」
 太陽は太陽だ。ただ一日を境にして変わることはない。だが、確かに日の出や日の入りの時間は季節によって変わる。どちらかというと星の位置で季節の移り変わりを意識した暮らしを強いられてきたルックにはあまり実感のわかないことではあったが。
 太陽が徐々に力を取り戻して春を呼ぶ。とはいえまだまだ遠いはずの冬明けを、今から待ち望む人々の迷信だと、そう嘲笑っても良かった。
「どんなに長い冬の先にも春は来る。人がそれを知っている証拠だよ」
 だが、そう言われては自分は何を知っているのかと自身に問い掛ける。
 長くはない人の一生の中で繰り返されるだけの季節から人は自然の理を学び、暮らしの知恵として生かし、次の世代へ伝える。星が身近であった自分のように、生活に密着している分だけ彼らの感覚の方がより正しい。きっと、そういうことだ。
「明日は森に行って、冬でも枯れない緑の葉をつけた枝を取ってくるんだって楽しみにしていたな」
 それもまた子供たちから仕入れた話だろうか。人好きのする笑顔が似合う穏やかな外見のためか、レンは幼い子供から年寄りまで見知らぬ相手に対しても警戒されるということがあまりない。それも身に宿っているものが魂を持つ者をおびき寄せているのではないか、などと思い悩む種になる。彼の紋章の前の所有者がやはり明るい笑顔を絶やさない人物であったと聞かされれば、それもあり得ると率直に答えたのはルックだ。所有者の身近な相手の魂を喰らう紋章であれば、周囲に人が集まる魅力を持った人間が所有者であることの利点は大きいだろう。紋章は宿る相手を選ぶのだ。
 その皮肉に折り合いをつけたのか、この村に滞在している間だけと割り切っているのか、ともかくレンはここで知り合った子供たちを邪険にすることはなかったのだろう。そんな事情から連想したわけではないが。
「……常緑樹は生命力の象徴だから、魔除けに使われることがあるって」
 ぽつりと答えれば、振り返ったレンの瞳が意外そうにルックを見るので慌てて付け加えた。
「レックナート様からの受け売りだよ」
 なるほどね、と舞い散る雪の向こうで黒い瞳は細められた。
「それで家の入り口に飾ってあるんだ」
 見渡したのは周囲に軒を連ね始めた村の家々。木の枝がそのまま差してあったり、束ねたものがぶら下がっていたり、まだ何も取り付けていなかったりするのは教えてくれた子供たちのように明日森に出かけて調達してくる家なのだろう、それぞれの戸口の形同様それは様々であった。
「トランでは見なかった風習だな」
 比較的南に位置するトラン地方は高地でしか雪が降らないために、冬になっても枯れない常緑樹に信仰を見出すということもなかったのだろう。
「けっこうあちこち行ったつもりだけど、まだまだだな」
 知らないことはたくさんあると、彼は率直にそれを口に出す。同じようなことを考えたと同意の言葉は告げられずに、足元の雪に注意して歩を進めれば、立ち止まっていた相手にぶつかりそうになる。顔を上げると、こちらを向いていたレンの瞳に真正面から覗き込まれた。
「な、なに……」
「ここにも、あった」
 何が、と問う前に両の頬が包まれた。既に冷え切った肌にはなんの感触もなかったが、皮の手袋のはめられた手だということはわかる。
 レンの場合は防寒具としてでなく日頃から愛用しているものではあったが、さきほど渡された襟巻きのように温もりを感じないことに不満を覚えた。
 そのことに気づいてまた不機嫌になる。
 けれど、そんなルックの想いにはかまわずに。
「常緑樹」
 告げられた言葉に、それが自らの持つ瞳の色だと知らされた。
 自分の瞳の色が他人からどう見られるかなど興味がない。鏡でも覗かない限り見ることのないもので、そして鏡を見ることは一番嫌いなことだった。
 今、この瞳に映るのは、レンの持つ夜の色、闇の色。ならば彼の闇の中には常緑樹と言われた色がやはり映っているのだろうか。
 白い雪の中にあるから緑が映えるように、冬があるから春が待ち遠しいように。
 闇の中にこそ光が生まれるように。
 彼がいるから自らもまたここにいると認識できるように。
 間近に見える互いの瞳と、触れ合う息の熱さを想う。
 こつり、と唯一剥き出しの肌が触れ合った。
 目を閉じて額を押し当ててきたレンを、押し返そうとも思わずに、同じように瞳を閉ざした。



 風が雲をもたらし雪を呼ぶ。その雪を地熱が太陽が溶かし、水を生み、風を呼ぶ。
 春になれば一番に風が吹く。



 もし、君に何かしてあげられることがあるとしたら。
 君にいつか春をもたらすことができるように。



 新しい光を迎える前の日の夜は、降り積もる雪と共に、静かに更ける。









終(2003/11/19)




SAKIKOさまより chinita networkさま

 SAKIKOさんのサイトより、持ち帰り可のクリスマス期間限定小説を強奪して参りましたvvv

 胸が痛くなるような儚さなのに、坊もルックもふたりでいるからこその強さがあって。  音も色もない静寂の中で、ふたりでただじっと立ってるイメージが、SAKIKOさんの坊とルックらしくて、とても素敵ですよね!!
 属性が絵描きなら!!!と、SAKIKOさんの坊ルク読ませていただく度に思ってます。
 SAKIKOさん、素敵な小説を本当に有難うございました。


〔 BACK 〕