法衣を紅く染めるのは、誰でもなく己の血だとは知っていた。 感じるのは痛みではなく、熱。 護衛用にと常に持ち歩いていた小刀を、刺客の喉下に突き立てた、までは覚えていた。 「―――ッ、」 声高に鼓膜に響くのが何なのか、それさえ今の己には判断出来ず。 だけれど―――。 狭まる視界を僅かに掠めた緋色が、底知れぬ安寧をもたらした。 刹那ノ螺旋
坊 … サクラ・マクドール
2主 … ツバキ それは、穏やかな昼下がり。 厄介な書類を四苦八苦しながらも片し、切れ者軍師から昼からの暇を渋々認めさせた同盟軍・軍主のツバキは青々と晴れ渡る空と爽やかに吹き抜ける風の心地良さに目を細め、うーんと全身で背伸びをした。 優しく全てを受け入れてくれるこの城は、酷く居心地がいい。 行き交う人たちと挨拶を交わしながら、姉との午後のお茶会へ向かう為、ツバキはそのままホールの入口に足を踏み込んだ……刹那。 「―――しつこい!」 周囲に響き渡る怒号に、思わず背筋が凍った。自然と視線はそのまま、城の象徴ともいえる石版前に向かう。 その怒声が、日頃から良く耳にする者のそれであったからだ。 その声が、冴え冴えとした冷たい言葉を発する事は頻繁にあれど、それでもこんな風に拒絶するかのような鋭さが込められているのを、ツバキは耳にした事がなかった。石版守りをも担う彼の人は、そもそもの言葉数も少ない上に口を開けば毒がこもったものを発する事が少なくなかったから、その逆はあっても彼自身が声を荒げる事自体が稀といえた。 尤も、唯一の人が関わるに限り、それは覆されるのだけれど。 視界に入ってきたのは、予想に違わぬ―――その、ルックにして唯一の男と、きつい眼差しで睨み上げる石版守りの姿。 「ルック、」 尚も何かを、言い募ろうとする男に向けられたのは、いつになく冷たい翡翠。 傍で見ていてさえ凍えるかと思える程の視線で傍らの男を見据えたままに。 「これ以上、あんたと話しても無駄だ」 ルックはきっぱりと言い切った。 「ルック!」 名を呼ぶ声が、引き止める為のものであるという事に気付いているだろうに、ルックはそのまま風を纏うと男には一瞥もくれず転移を成した。 珍しいと、ツバキは目を瞠る。 どんなにふざけた言い合いにでさえ、諦め半分っぽくもこの男には付き合ってやっている。それを知っていたツバキは、ルックがこの男をここまできっぱりと切り捨てて去って行くことなどないと思っていた。 それ程に、ルックはこの男には甘い。 前・天魁星。3年前のトランでの解放戦争の立役者。 英雄の名を厭いながら、それでもいざとなればそれを行使する事を躊躇わないだろうサクラ・マクドール。 それが唯一、ルックに声を荒げる等といった感情を発露させる事が出来る男の名だった。 「……サクラ、さん?」 未だに動く気配を見せないサクラに、躊躇いながらもその名を、呼ぶ。 「あぁ、ツバキ。騒がせてごめんね」 と、あんな修羅場であったにも関わらずツバキの存在に気付いていたのだろうサクラは、驚いた風もなくいつも通りの笑みを見せた。 今回の滞在は、この男にしては長い。迎えても、すぐにトランに帰ってしまうからだ。尤も今回に関しては、元々の来城理由が理由故長くなるのも当然といえる。 何かあったんですか? と問い掛けるツバキに、サクラは彼にしては珍しくえもいわれぬ苦笑いを返す。 「うん、ちょっと……怪我の事で?」 そう、それが今回の彼の来城理由に他ならない。 「今回の怪我、酷かったから」 念の為に一応忠告をね、というサクラに、 「……ですよね」 とツバキは眉を顰めて素直に同意した。 ハイランドとの大規模な戦闘があったのは、一月ほど前の事。 魔法兵団長であるルックは、兵団を退却させる際に怪我を負った。 いつもは護衛役として就けている騎士が、退却の先導に向かった直後の事だ。 兵団長ひとりを狙い放たれていた刺客相手に、魔力を使い果たし疲弊していた状態のルックが選んだのは、繰り出される刃を避ける事でも背を向ける事でもなく、小刀を構える事だった。 異変に気付いた騎士が愛馬で駆け寄った先で目にしたのは、血の気を無くし緑の法衣を紅く染めるルックと、その近くで一目で事切れているのが解せる刺客の姿。 気丈にも魔法兵が退却し終えたのを聞くと、彼はそのまま意識を失った。 昏睡の状態が2日ほど続き、そして意識を取り戻した後も2週間は寝台を離れる事さえ出来なかった怪我を思い出す。 ツバキの知るサクラは心配性だ。 そして、それはルックに対してだけであるという事も知っている。 しかしながら、自分の身を顧みる事もしないルックには、ツバキでさえ肝を冷やす事も多々ある為、サクラの心配を過剰だとは思った事はない。 昏睡状態から目覚めたルックが、ツバキが慌てて呼び寄せたサクラの姿を認め、 「……どうして、こいつ呼んだのさ」 と心底嫌そうな表情を見せ。そういう顔を見せる分、サクラはルックにとって他の者と一線を画していると簡単に窺い知れる。 他の誰が言っても綺麗に聞き流すルックが、サクラがそうする事で少しは反応を返すのだ。 「無茶しないでって、言ってるんですけど」 僕が言っても聞いてくれないしとむくれるツバキに、 「そこで聞いてくれてたら、ルックじゃないんだけどね」 とサクラは綺麗に笑う。 「尤もですけど……」 それでも、善処はして欲しいとツバキは思う。 軍の中枢格を担う魔法兵団長云々以前に、今現在、目の前で優しげに微笑むサクラがルックを失った時にどうなるのかが解らない。常日頃から口癖のように口にする 「僕はルックしか要らないから、他のモノは何も必要じゃないんだよ」 との台詞が、彼の真実そのままだという事くらいは傍で彼らを見ているツバキにですら解るのだ。 「心配しなくても」 「はっ?」 「僕がそうはさせないよ?」 例え相手が死神だろうと、何であろうと、ルックを手放す気なんてないからね…とのサクラの言に、ツバキは一瞬虚を突かれ。やがて深々と肩を落として見せた。 堅く閉ざされた扉が、三度叩かれた。 だけれど、返答はなく。 「……ルック、入るよ」 その部屋の住人が在室している事を確信しているかのように声が掛けられた後、扉は開かれた。 ―――途端。 鮮やかな橙色の夕焼けが黒曜石の瞳を射る。 世界を染めるその色合いに、咄嗟に目を眇めたサクラの視界に映るのは、捜し求めていた小さな姿。訪れる夕闇を纏い、窓枠に腰を下ろし、その翡翠は落ちる陽に向けたまま。 「……ルック、」 躊躇いがちに呼んだ名に、だけれど応えはなく。 華奢な身体全体で頑ななまでに拒絶を見せるその様が、いっそ彼らしいとは思うものの。サクラは掛ける言葉を見つけられずにいた。 本気でルックに拒絶されれば、サクラは動けない。今の己の世界を創るのは、小さなこの存在なのだ。その彼が居なくなれば、きっと全てのものが意味を失い世界は瓦礫と化す。 ふっと、サクラはそんな自分を自嘲する。 結局は、彼を…ルックを欲するのは、己の我が儘に過ぎないのだ。彼を護る事で、己の世界を護りたいだけなのではないのか…と。 きっと………その想いは、重いだろう。 だけれど、そう知りつつも―――ルックだけは失くせないのだ。 暗く沈み込みそうになる思考を遮るが如く、 「………あんたの、」 唐突に清涼な風が通り抜けた。 刹那、呆気ないほどに己の内に光りは差し込む。 そして……溢れる。 「……あんたの戦争は、3年前に終わったんだよ」 だけれど、口ほどにものを言うその翡翠が窺えなくて、サクラは曖昧な表情を浮かべた。 戦場に立つ事も厭わない―――。 サクラがルックにそう告げたのは、 「好き好んで痛い目みたいなんて……馬鹿としか言いようがない」 ルックが珍しく声を荒げ、転移する少し前の事。 「…………あんたが、戦場に立つ必要なんて……ない」 ルックが激昂した理由が、己が戦場に立つと言ったひと言に起因するものだと。他の誰でもなくルックの為にそうするのだと、聡い彼が気付かない筈もなく。 「うん……それは僕の我が儘だ。それに……僕にルックを護れるなんて、そんなに自惚れてやしないよ」 護りたいとは、思っているけれど…と、サクラは微笑う。確かに、相手がそんじょそこらの将軍ならば負ける気など皆無だったけれど。 そんな事以上に、サクラはルックの実力を知っていた。 他より劣る腕っ節や体力などは、些細な事でしかなく。 それを補って余りある実力の伴った機知と兵を率いる統率力、咄嗟の判断力、そして部下の信頼はいうに及ばず。 その儚げな印象を綺麗に払拭してしまう程の実力。 手を掛けられるかどうかは別としても、絶対に敵に回したくないと思うくらいにはルックの実力は買っていた。 「ただ……傍に居たいだけなんだ」 そうすれば、何かの役に立つ事があるかも知れないから…とのサクラの言に、ルックは微かに翡翠を揺らした。些細なそれに、だけれどサクラが気付かない筈もなく。 「ルック?」 名を呼ぶ事で、問う。 「……あんたは」 「うん?」 「あんたは………そうやって、僕を弱くする」 強い意志を秘めた翡翠が告げたのは、その強さとは相容れない言葉。 「ルック……」 「僕はひとりで生きていける筈なんだ。ひとりで歩いて行かなきゃ…ならないんだ。なのに……」 次第に掠れてゆく、声音。 それは、目の前のサクラに告げるというよりは、己に言い聞かせているかのようで。どこか痛々しさを感じる。 「………ひとりは…淋しいよ」 「淋しくなんて……」 微かに微かに零れる言葉。 そう、あんたに逢うまでは。 淋しさなんて感じる事、なかった―――それは言葉になる前に、掻き消されてゆく。 ぎゅっと握り締められていた拳がゆるりと、力を失って、落ちる。 揺れる瞳と、噛み締められた唇と。まるで迷い子のようなそんな様に、サクラは 「違うよ、」 と僅かに笑みを浮かべて見せた。 「僕が、淋しいんだ」 サクラの台詞に、ルックは弾かれたように面を上げる。翡翠に映るのは、穏やかで柔らかな黒曜石。 愛しいと、そのままの想いが胸を埋め尽くすかのような…その瞳。 「僕が淋しいから、ルックの傍に居たいし、ルックに傍に居て欲しい」 そうすれば、淋しくなんてないから…と、いつもと同じ優しい笑みで囁かれて。ルックは再び、頭を垂れた。 「…………我が儘、」 ほつりと呟かれた言葉に、サクラは 「そうだよ」 と頷いた。 「だって、誰にでも諦めきれないっていうものはあるよね。僕にとってのルックがそうであるように?」 「……それこそ、いい迷惑だよ」 強い意志を秘めた翡翠を。 常に高みを望むその煌きを。 間近で見せ付けられて、目を反らせられる筈など、ない―――と、断言できる。 その強烈な存在感は、他では類を見ないほどの強さで否応にも視線を惹き付けるのに。それでも、掻き消えてしまいそうな儚さを含んでいて。 いつでもどこででも抱き締めて、その愛しい存在を確かめずには居られない。 その衝動を抑える気は、サクラには露程もなく。 「ね、触れて…いい?」 ひそりと、耳元に落ちる声音は至極優しくて。 だけれど、微かな毒を含む。 その毒が確実に己を墜すのを……ルックは知っている。 「……今、更」 そう応えたところで、ゆるりと捕られたてのひらの真中に、そっと触れるだけの唇が落とされて。ルックは、僅かに身を強張らせた。 何度も触れては離れてゆく、唇。 熱を煽る為のその所作は、羞恥以外のナニかを揺さぶり熾す。 優しく、穏やかに―――それでいて、抗う事を許さない強引さで。 「……ッ、」 漸く解放された頃には、耳朶まで朱で染め上げて。そんな態でありながらも、ルックは小さくサクラを睨み付けた。 くすりと零れる笑みがそのまま耳朶へと落とされ、 「そんなに、煽らないで?」 囁きと共に強張る身体に染み込む。 「…ッ、誰が」 それが、ルックに出来得る精一杯の虚勢。それと知りながら、サクラは笑みひとつでそれを受け流す。 「ねぇ、ルック」 ―――もっと、触れたい。 そっと囁かれた台詞に頬を染めながらも、ルックは促されるように引かれた手を振り解かなかった。 さらりと、白い敷布の上に散った髪が揺れる。 一房手に取り、柔らかな感触に目を細めると、口許に寄せたそれにそっと口付けた。 そんな些細な仕草に、ルックの細い身体が僅かに竦む。 腰帯を解き、手慣れた風に法衣を剥いでゆく節くれ立った手を留めるかのように、擦れた声が落ちた。 「………ぇ、知って…る?」 幾分、上がった息を宥める為の吐息にでさえ、サクラは煽られる。 「何…を?」 肌蹴た箇所から覗く肌に柔らかに触れるのは止めずに、問い返す。 「僕には……あんたなんて、必要じゃないんだよ」 必至で何かを圧し殺すように告げられた台詞に。 刹那、ぴくりと強張ったけれど……。 「―――知ってる、よ」 温かく哀しい応えが、返されて。 あまりに優しいその肯定に、視界が自然溢れた泪の膜で歪む。 痛む胸は、ただ己だけを欲する男に平然とそう言える己、故か。それとも……拒絶されてさえ尚、微笑う男の所為か。 「ちゃんと、知ってるから。……泣かないで」 哀しんでいるのは、己ではない。 泣いていいのも―――己ではないのにと、そう思いながらも零れる泪を止める術さえ知らず。 眦にそっと触れて、離れてゆく唇に。ルックはゆるりと笑みを浮かべた。 「だ…ったら、いいよ」 小さく、そう囁いた。 深い吐息と共に零れたそれは、貪るように合わせられた唇から口腔内へと返されて。 熱を暴き立て、意識を浚う口付けに……煽られるだけ煽られて、深く酔いしれる。 荒れ狂う熱に翻弄され、思考が焼ける。 淵に沈み込む―――。 どこまでも己を包み込む黒曜の瞳に魅入られて……ゆるりとその背に腕をまわす。 押し寄せるのは、全てを浚いつくそうとする波。 ―――いらない。 何も……要らない。 ………永遠の安寧など、要らない。 今、この刻だけが…あれば、いい。 END 2004.06.20
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坊ルク企画社さま発行の『週刊 オレのルック No
1』に寄稿させていただいた怪文書です。 事の起こりは、某所でのチャット時。「今度、オフで活動してない方々に声掛けて本作ろうかと思ってるんですが、いかがですか?」的な某さまのお誘いでした。その時は月ノ郷の他にも二方いらしたので、ひとりじゃないなら…と、安請け合いしてしまった結果が、コレ↑です。 サクラ坊とルックです。もう、何書こうかと頭痛めた思い出があります。←これはいつも お誘いくださった方が当時月ノ郷が「この人がいなければここまで坊ルクにのめりこまなかっただろうなぁ」と尊敬していた方なだけに、凄まじいプレッシャーが(苦笑)! 取り敢えず……我がサイトのメイン坊だし、サクラでいっとく?みたいな。 蓋を開ければ執筆陣はもう凄い方々ばかりで、思わず『某さまのウソツキーーー!』と、半泣き恐慌状態に陥ったりもしましたが……今となっては、それもいい思い出です、かね? |