first of all







 当時、それは互いの利に適うものだった。

 だったら今は?
 何を望んでそうするのか。






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 それは、数多の者に生半可でない痛手を負わせる爆弾宣言。

 占星術師レックナートが遣わした石板前でのそれは、 「付き合ってるヤツがいるんだよね、僕」
 いっそ、冷たいほどに淡々と。

 年若い軍主の周囲でのそれは、 「俺には、好きな人がいるから」
 見惚れるほどに柔らかな笑みと。

 本人の意思に反して寄り集まってくる深い友好を望む者達へと投下されるそれは、非常に出来のいいもので。
 くらった者達はその威力に軒並み立ち直れない程の痛手を負っていた。

 それが、ここ最近の解放軍の日常だったりする。




 つい先日、帝国の要所のひとつを落としたばかりの解放軍にとって、それは束の間の休息。
 ―――にも関わらず。
 そんな日々も戦士達には骨休めになれど、逆に軍の中枢核を担う者は多忙を極める。上層部の一員ともなれば、目前の敵の事だけに目を向けていればいいというものでは当然ない。あちらこちらに配している諜報員からの情報が収集され、分析、戦略会議会議会議……が繰り返される毎日。
 その上、人が集まり組織が大きくなればなるほどに、実に様々な問題が浮上してくるものだ。食糧事情から始まり、人が少ない時は必要なかった規律や軍則。果ては、個人同志のいざこざまで。実に多くの問題がそのまま上層部へと寄せられる。
 寄せ集めの軍らしく、どこでどう処理をしたらいいのかといった基本的な事から軍主本人にお伺いがたてられる始末。尤も、軍師であるマッシュを経由してくる書類に、そんな軍にとって些細といえる事柄を示したものなど皆無ではある。切れ物と名高い軍師が、彼の元に届けられるそれら全てを裁いていてくれるのだろうけれど……。
 しかしながら、しっかりとした縦割りの組織図さえ半端なままの状態故に、どこをどう回ってきたのか、直に軍主に渡ってくる問題も少なくはないのが現状だ。今日中に片さなければならない山と詰まれた軍事書類の束とは別に、それらの問題が記された紙束も広めの机の上を埋めている。
 だけれど、それらは今彼自身が直面している問題に比べればそう苦もなく片が付くだろうと、軍主は思う。
 天気も良く、窓からは穏やかな風がゆるりと吹き込む清々しいともいえる日和なのに。
 机の端に置かれた冷めたお茶を視界に収めて、本日何度目になるか解らない溜息を盛大に吐き出した。

 宿星とやらが増え。
 勢力図での解放区が増え。
 それに比例して、砦内の人口も飛躍的に増えつつある。
 それ自体は喜ばしい事なのだが。それに付随するかのように、とある個人的問題が浮上してきた。
 ―――それ即ち、恋愛事である。
 軍主は、己の外見が所謂人並み以上に恵まれているという事を知っている。おまけに、人を率いてゆけるだけの統率力やら、それに見合うだけの知性やらを持ち合わせているのは驕りでなく、客観的に見て知り得ている。
 性格的には、おかれている状況故に最近荒んできたかな〜と思わなくもないが。そんな深いところまでを他人に見せる訳ではないし、元々が貴族という家柄の所為で普段晒すのは対外用の物腰であれば、外面だけを見ている者達は、騙されて当然だった。
 勿論、こんな時勢なのだから、あからさまに言い寄ってくる数自体は多くないけれど。それでも、そういう態度や視線っていうのは気付くものだ。否、いっそ気付かずにいられた方が良かったかも知れない、とまで思う。正直、鬱陶しいことこの上ない。
 それらは、今現在の自分には不必要というのは建前で、実際は構っている余裕など露程もないというのが実情だから。煩わしい、面倒臭い、時間の無駄だと思いながらも、一体全体どうしたものかと思案に明け暮れる。
 今日中に目を通さなければならない書類の前で、思い切り深々と溜息を零した、刹那。ノックも声掛けもなく、勢い良く正面の扉が開かれた。
「―――ッ、」
 咄嗟、脇に立てかけてあった棍を手にし、腰まで浮かせたところで。そうした本人を認め、がくりと肩が落ちた。
「……入る時はノックくらいしてくれないか」
 そんな当然の申し入れなど、聞く気もないのか。
「ちょっとあんた、どうにかしてくれない?!」 星見が弟子であり、宿星とやらの名を刻む石板を守り、今では解放軍になくてはならない存在でもある魔法使いのルックは、開口一番そう言った。
 いつにも増して、煌く翡翠の瞳が怒りを纏っている。それは、壮絶なまでに美しく、周囲の視線を惹きかねないものであった。人の視線やら接触やらを極端に嫌うルックにとって、それらを向けられる状況は有り難くないものこの上ないだろう。
 しかし、幸いな事に今この場には自分とこの少年しか居なかった。
「……それで、何をどうして欲しいって?」
 これ以上何か揉め事があるのか、と軍主はうんざりしながら頬杖を付く。
 目の前の相手がこの少年でなければ、こんなあからさまなまでの所作はしない。そうするのは、気心が知れてるなどといった可愛らしい関係だからでは…当然ない。誠に不本意と思わなくもないのだが、情けない姿を度々見られているからに他ならない。何故か、見事にタイミングよく この少年はその場に行きあわせて下さるのだ。
「用もないのに石板の間に入り込んできて五月蝿く視線を向けてきたり、煩わしく声掛けてきたり、挙句の果てにこの僕に付き合って下さいなんてふざけた戯言ぬかす男たちを何とかしてよ!」
「………ちょっと、待て」
 今、凄く気になる単語が飛び出てこなかったか?
「今、男たち…って言った?」
「あぁ、言ったさ。ここの男たちは皆揃って目がおかしいんじゃないの? 僕のどこが女に見えるっていうのさ」
「………いや、見えない事もないが」
 というか、黙って立っていれば確実に見える。だけど、男だと知っていたとしても傾倒してゆくその気も…解る。そのくらいには、この目の前の少年の見目形というのは並の美しさではないのだ。
「何か、言った?」
 確実に2、3度下がった声音には、 「いや、気にするな」 とだけ返した。
「兎に角、何とかしてよ。鬱陶しいったらない」
 そんな事までをもこちらに持って来られても…とは思うが。今の様子を見る限り、普段の不機嫌ささえ可愛いと比喩してしまえる程、怒っている。
 このまま放置していたら、その怒りが爆発しそうだ。いや、確実に爆発する。そうした時の恐らく尋常でない被害――人であれ建物であれ――を考えれば、今ここでそれなりの案を提示しておかなければならないだろう。
「ええっと……特定の好きな人とかいないのか?」
 悩みに悩んだ末、そういう相手がいれば問題ないじゃないかと思い至りそう告げれば。返って来たのは、めいっぱい冷たい視線。
「何、それ?」
 正直白状するなら……刹那、あまりに冷たい声音に背筋が凍った。
「そもそも、そんなのいたらどうだっていうのさ」
 何だ、その質問は???
「普通、恋人がいる人にあからさまにアプローチしてくる人はあまりいないから?」
 勿論、横恋慕とかない訳ではないけど。相手がそれなりの人物だったり本人同士が想いあってるのを見せつけられたら、精々見てるだけだろうし。
「……原理は良く解らないけど、取り敢えず恋人って奴がいればいいんだね」
「うん、まぁ…そうだな」
 ひとつ頷いて、ふっと気付く。
 そうだ、己にもそれは当て嵌まるのではないか―――と。
「ところで、恋人って…何?」
「あ…あのな、ルック……」
 頭を抱えたくなるような問いを掛けて来た少年を、脱力しながら見やる。
 そうしながらも、頭の中でひとつの仮定を繰り広げる。それ即ち、今の己の現状と少年の現状、両を解消するものとも成り得る、仮定だ。
 目の前で腕を組んで小首を傾げている様は、文句なしに目の保養になる。これほどの容姿なら、ある程度の女性陣は彼を目にするだけで諦めてくれるだろうし、もし仮に嫉妬に狂われてもルックならば情け容赦のない毒舌でそれらを一蹴してくれる事だろう。
 勿論、そうされた側は気の毒としかいいようがないけれど……。それでも、何かを求めてくるかのような視線には正直辟易しているし、実際は戦争やら家族・友人関連だけで手一杯なのが現状だから。
 強いて言えば、相手がガキなのと、同性である事、恋愛事になど鼻でせせら笑ってくれそうな性格が問題かとも思ったが。
 それ以上に、全ての利害が一致したのを考えれば、最良の相手だともいえる。
 そして、何より。
 解放軍きっての美貌と魔術を誇るルックと、各方面への確かな才を博し数多の崇拝を集めている…と評判の解放軍の軍主。
 互いに、これ以上の相手があるだろうか?
 ―――否、だ。
 そう判断を下した後の手際は早かった。
「な、ルック。手を結ばないか?」
 それは、かくも切羽詰った状況での最良の選択だと思えた。

「この闘いが終わるまで、恋人である契約をしよう」
 ルックは、男共からの求愛から逃れる為。
 こちらは、女性からのアプローチを回避する為。
 双方にとって最善の形で契約は成された。


 翌日から。
 投下される爆弾宣言と呼応するかのごとく、砦内外ありとあらゆる場所で軍主と石板守りの少年が共にいる姿が多数見受けられる事となる。




 疑わしい、と親譲りの金色の髪をこれみよがしに掻き上げながら、先日解放軍へ強制入軍させられた上層幹部の一粒種はほざいた。
「………何が?」
「ずばり、お前等の関係」
 びしりと指まで突きつけてくる。年代が同じ所為か、大概遠慮というものがない。まぁ、こいつの親父が見たら拳のひとつやふたつ降ってきそうなその態度も、変に気を使われるよりは余程ましだと思われる。
「………どこが」
 彼の風の魔術師と契約を交わしてから。時間さえ空けばなるべく石板守りの少年の元へ通うようにしている。食事も共に摂るし、遠征へも状況が許せば同行させるようにはしている。勿論、戦力になるから出来ることでもあるけれど。
 契約が彼とのものであったのは、幸いだったといえる。何をもって幸いと言えるのかと問われれば。一番の理由が、自分を作らなくていいという事実。それ故の、居心地の良さだ。
 きっと、契約相手が彼でなかったなら、二日と持たなかっただろうと妙な所で確信していた。
「恋人っていうよりは、同士…っぽい」
「………シーナ」 思っても見なかった鋭さに、内心ギクリとした。が、それを悟らせるような愚は冒さない。
「そもそも、恋してる初々しさがない。おまけに、お前等の会話は何だ、あれ。魔術指南みたいなのやら、軍議の延長みたいなのって色気の欠片もねー」
「……よく見てるな」
 恋の初々しさや、色気云々は有り得ないから聞き流すとして。このシーナって男は結構侮れないヤツだ、と今更の如く思う。
「見てる…つーか、視界に入ってくんの、お前等が勝手に! 兎に角目立つんだよ、ふたりでいると」
「目立つ…か?」
「ひとりひとりでも、強烈だろーが。視界の暴力にも等しいぞ、」
 ……そこまで言うか? っていうか、そんなに目立ってるのか。それなりに視線を受けているって自覚はあったが……。しかしそれは、恋人説が定着すると喜ぶべきなのか、見るものが見れば本当はそういう関係じゃないと解ってしまうと心配するべきなのか…?
 思わず埒もない思考を巡らせ。無意識に口許を覆いかけた掌に、ふっと気付いて慌てて下ろした。考え事をする時の癖みたいなものだったが、周りの者達が不安を感じるので出来れば止めてくださいとマッシュに言われていた。
 そこで漸く、こちらを窺いながらニヤニヤと感じの悪い笑みを浮かべる男の視線を感じ見返した。
「……もしかして、面白がってるのか?」
 そうとしか思えない。
「おうよ。っていうか、お前俺がルックの事気に入ったって言った時、変態って言ってくれたしな」
「………あ、ぁ」 そういえば……そういう事もあったな。
 そう遠くはない過去を振り返り、冷汗をかいた。
「あん時、お前ガキにも男にも興味ないって言っただろ」
 それは今でも変わらない、と言えないところが何だけど。
「今でも興味ない。ただ単に、ルックがそうだったってだけだ」
 心にもない事を言える己に我ながら感動する。そういえば……ハッタリも大切な戦法の一つだとマッシュが言っていた。これも、その内だ。
 胡散臭そうなシーナの視線に、事が色恋沙汰だと鋭いな〜と思ってたりするけど。流石にこれはマッシュにさえ報告していない最重要機密なので、例えレパントの息子であろうと漏洩する訳にはいかない。
「それに、色気がないっていうけどな、そう軽々しく手は出せないって。ルック、まだ14だし?」
 そう、相手が子供だからっていうのはこういう時に役に立つ。
「そりゃ、最後までしたら犯罪だろうけど? でも、キスくらいなら平気な歳だろ」
「………自分の尺度で物事見ちゃ、駄目だと思うけど」
 確かに、白状するなら自分も初キスは13でした。だけど、相手はルックだし?って事にしとけば、万事上手く収まる気がする。
「っていうか、人前でキスのひとつでもすれば、大概のヤツらは認めざるを得ないけどな」
 いっそ楽しそうにのたまってくれる。
 こいつ…………絶対に、解ってて面白がってやがる。それは、確信だった。


『人前でキスのひとつでもすれば、大概のヤツらは認めざるを得ない』
 それは、確かにそうだし、納得も出来る。
 噂を知りつつ、それでも付き合って欲しいと言い寄ってくる女性達がいるのは実情だけど。ルックも以前ほどではないけど未だにふざけた言葉を掛けてくる男がいる、とは言っていたけど。
 だけれど…だ。
 噂を肯定する為にわざわざするような行為じゃない、だろう?
 自分は兎も角、恐らくルックは初めて、の筈だ。
 軽く肩を落としたところで、 「如何なされましたか?」 マッシュが隣りの席から訊ねて来る。そうだ、今は会議の最中だった。
「いや、何でもない」 背筋を伸ばして、広間に集まっている面々に視線を向ける。その端に、手許の書類につまらなそうに目を落とすルックが入ってくる。
 彼も曲がりなりにも兵団長の身だから、どうしても会議に召される割合は多い。
 その身は屈強な戦士達の中に埋れてしまうほどに華奢で、自分の所為ではないけど申し訳なく思ってしまうのも確かだ。
 今のところ、例の契約で何かしらの問題があったとは聞いてないけど。これ以上、負担を掛けたくはなんだよなぁ。中身はどうあれ、一応子供だし。
 マッシュがひとつひとつの事項を、各団の長に確認する事で会議は閉められた。
「心在らずに見受けられましたが」
 ひそりと問い掛けてこられて、 「すまない」 と僅か頭を下げる。
 この軍師にも、文官より武官が多い所為でかなりの重責を負わせている。彼が居なければ、日に日に大きくなってゆく軍を機能させる事なんて出来ない。
 つくづく、ひとりで出来る事なんて知れてると、思ってしまう。
 反省しきりの態で項垂れている、と。
「……ちょっと、」
 ぐいと、袖口を引かれた。振り返った先には、小さな風使いの兵団長。
「何だ?」
 と、いきなり襟元を取られて。身構えてなかった身は、ルックのか弱い力でも難なく引き寄せられた。
「―――な?」
「シーナの言ってたのって、こういう事だよね?」
「……えっ?」
 耳元を掠める囁くようなルックの台詞の意味を解する間もなく。未だに大勢の団長格が居残るその場で、躊躇することなく唇が触れて、くる。
 ざわめいていた周囲がシンと静まり返り。
 あからさまに凝視してくる人々の視線が肌に痛く。
 そして、触れたときと同様に、唇はそっと離れていき―――。
「〜〜〜〜〜〜ッ?!」
 得意満面に笑顔を浮かべるルックの腕を掴むと、周囲には一瞥もくれずにその場を逃げ出した。


 ―――ばたん!
 自室の扉を勢いよく、閉める。
 駆け回った所為だけではなく乱れた息を整える為に、そのまま扉に身を預けた。
「何、そんなの慌ててるのさ」
 対してあっけらかんとしたルックの言い様に、慌てふためいているのは自分だけなのだと知る。というか、自分より明らかに体力のないルックの息が全く乱れてないのに、こちらだけという状態に動揺の深さが窺えて……我が事ながら情けない。
「………聞いてたのか」
 シーナの『人前でキス云々』を聞いた故の所業だという事は、口付けてくる前のルックの台詞で解った。
「どうして聞こえてないと思うわけ?」
 眉根まで寄せて言われて、そう言えば石板の部屋前で話していた事を思い出す。
「……だからって…」
 キスするか? 人前で。それも、軍議終了後だとはいえ、軍の中枢核を担う要人ばかりの目前で。いたいけとはいえないながらも相手が齢14の少年という事実に、周囲の者等の目がまともに見返せなかった。
 いや……噂で耳にするのと、実際目の前で見るのとは……違う、だろ?
 がっくりと肩を落とすと、ルックは 「何か問題でもあるの?」 と訊いてくる。
 ルックの場合、本気で解っていないので、苦情の持って行きようがない。非常に割り切れないものを感じながらも、何でもないと返せば。
「ならいいけど」 と肩を竦めて、今だ脱力したまま扉に寄りかかった俺の前をさくさくと進む。
 そして、ふっと気付いたように言う。
「あぁ、それにあいつ『それ以上は流石に犯罪かも知れないけど』、って言ってたけど。それ以上って、何するの?」
 さっさと室内を横切り、椅子ではなく窓枠に腰掛ける。この子供はどうやらそこを己の定位置と勝手に決めているらしく、訪れる度に大概その場を陣取る。
 いや、それより問題は。
「………知らなくていいから」
 どうやら、この子供は呆れるほどに純粋培養されてきたらしい。この様子だと、男女間の営みさえ知っているのかどうかも怪しいところだ。
 もし仮に知ってたとしても、あくまで男女間でのそれが本来の意味は違えど男同士で行われるなんて……俺に言える訳ない。
「と、取り敢えず。あの方法は止めよう」
 幹部連の心象云々より何より、己の心臓が持たなそうだ、というのが正直なところ。


『軍主と魔法兵団長、熱い口付け』
 ―――という見出しで号外が出たのは、その一刻後で。

 至る所で阿鼻叫喚を湧き起こした号外の威力は、言わずもがな―――であった。




 ―――帝都陥落。
 獣と化した覇王の主は、宮廷魔術師ウィンディを伴いその姿を没した。
 崩れゆく城を脱し、見上げて。
 瓦礫と化したかつての城跡に、全てが終わったのだと実感した。

 かつての帝都で、任を終えた砦で、報せの渡った元は赤月帝国領であった全域で、広く深く祝宴が催されているんだろう。肌に感じる空気が、喜びに満ち溢れるざわめきを伝えてくる。
 帝都陥落前の半分に減った警備の目をかすめて抜け出すのは実に容易かった。
「どこ行くかな」
 誰にともなく呟いて、ふっと背後にそびえる砦を見やる。
 レパントやら他の重鎮は、自分を新しい国の礎にと望んでいたようだが、そんな気は一切なかった。それでは、赤月帝国の二の舞だ。一時国は繁栄しても、新しい息吹を吹き込まれない限り衰退するのは目に見えている。
 今は解っているそれも、永い時間に閉ざされれたままの自分では、いつまでそう思っていられるのかさえ解らない。
 だけれど、それ以上に―――数多のものを失ったこの国で過ごすには、負った傷が深過ぎる。
「だから、逃げる」
 全てを終えた今なら、それが許されている。
 今でなければ、許されない。
 これ以上、流されてなどやるものか―――と、砦から視線を外して踵を返して。
「ーッわ!」
 視界に飛び込んできた翡翠の瞳に、飛び上がらんばかりに驚いた。
「る、ルック?」
「これで契約終了、だね」
 いつの間にやら背後に立っていたらしい風使いの少年は、悪戯小僧のようにいっそ楽しげに笑う。気付かない内に背後を取られていた不甲斐なさによりも、その滅多にない笑顔に視線を奪われて頷くことしか出来なかった。
「あぁ…助かった、かな」
「お互い様」 そう言って、細い手を振り上げる。呪もなく、杖もなく、そういった媒体を要しもせず易々と風を呼ぶ。
「じゃーね」
 彼の望みのままに集められた風が、その華奢な身に纏いつく。当り前のようにその風に身を任せるルックに、半ば唖然としたまま。
「……あぁ」
 頷くと、一瞬後には彼の姿はその場から消え失せていた。いつもの事だが、あまりに鮮やかに成された転移に、暫しぼ〜っとその場に視線が囚われたまま。
 本当に、風みたいなヤツだ。
「………っていうか、それだけ?」
 己のいでたちを見、他に言うことはないのかと単純に思う。どう見ても、夜逃げの真っ最中にしか見えないだろうに。
 それでも。
 それがいっそルックらしくて、我知らず口端が笑みを刻んだ。

 そういえば、未だに残る疑問がひとつ。
 あの恋愛やら恋人の意も知らなかったルックが、よくキスなんて知ってたよな。
 今度会ったら、聞いてみよう。

「ま、又逢えるだろうし」
 嫌というほどに永い、永過ぎる時間が自分たちの間にはあるのだから―――と。
 前にずっと続く路を、見据える。
 一呼吸吐いてから、再び歩を進めた。






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 穏やかでのんびりとした日々を過ごしていた。
 戦争とか殺し合いとか全然関与しない、3年前には想像も付かなかった長閑な日だ。

 それでも、右手に宿る是が、戦火を欲したのか。
 里心抑え様もなくせめて近くへという思いで日を過ごしていたバナーで、星の加護を受けた軍勢の頭領に鉢合わせた。
 出逢った同盟軍の幼い軍主に誘われて、何故かここ数日彼等の城に逗留している。


 ビクトールやらフリックやらシーナやら…お子様連中やら。
 3年前に自分の星のひとつにもなった懐かしい面々も、多く見受けられた。
 そして勿論。
 彼の石板守も、自分の時と同じ様にレックナートに連れられてやってきたそうだ。
「偵察に行ってもらってるんで、今は居ませんけど」
 今日あたり帰ってくる予定です。
 軍主は満面の笑顔で、そう言っていた。この城内が戦時下という状況に関わらず、のほほんとしているのは、軍主の人柄が濃く現れているからだろう。
 その軍主も、今は軍師との打ち合わせとやらで室内に缶詰状態だった。
 そろそろグレッグミンスターに戻らなければならないと思うのだけど。又、いつ旅に出るか決めてない所為もあって、せめてルックに挨拶してから…と帰還待ちになっている。
「本当に今日、戻ってくるのか?」
 石板前に腰掛けて、ぼ〜っと周りを見回した。呪を掛けているのだろう石板からは、仄かにルックの魔力が感じられる。以前と変わらないその波動に、ホッとする。
 解放軍時の知り合いは、当然ながら経た年の数だけ歳を重ね。子供だった者達も、後2、3年もすれば体格も追い越されそうなほどに成長を見せていた。
「………置いて、いかれるのか」
 我知らず呟いた言葉に、自分で打ちひしがれる。自虐趣味なんて皆無、の筈なんだけどな。3年という月日は、現状を受け入れるのには短い。
 そういえば、ルックはいつから宿してるんだろうか。
 考えに耽った所で、ふっと周囲に満ちた魔力に気付く。
「やっとご帰還か」
 目の前で収束してゆく魔力の余波を感じながら、その中心で徐々に姿を露にする少年を見つめる。風にたなびく浅葱色の法衣と、光を弾く茶の髪と。軽く伏せた睫が、白磁の頬に影を落として、相変わらず見惚れるに値する程の美貌だよな…と感嘆する。
 というより、何か……以前に拍車を掛けて別嬪さん度、上がってないか?
「寄ってくる輩、3年前の比じゃなさそうだな」
 ぼそりと呟くと、滞っていた魔力を霧散させていたルックは、漸くこちらの存在に気付いたようで。
「珍しい…」
 目を丸くしてこちらを凝視してきた。
 挨拶代わりに手をひらひらと振って見せると、
「何やってんのさ、こんなとこで」 呆れた風な視線が遠慮なく向けられた。
 何とも答えようがなく、苦笑しながら立ち上がる。そこで漸く、ルックを視界に収めた瞬間から感じていた違和感の原因が判明した。
 以前は、頭ひとつ分下だった目線の位置が、拳ふたつ分くらい上がっている。
 えっと…ルック、成長してる?
「……ルック、ズルイ」
 第一声が、それだった。


「紋章との相性とか、個体の差とかあるらしいからあんたもまだ成長するかもね」
 アルコールを傾けながら、ルックは何でもない事のように言う。
 あれから、軍主と軍師に報告へ向かったルックを待ち、酒場へと誘った。来城してから毎日のように通った場所で、既に顔馴染になっている。
 物珍しそうに向けられる視線は隣りで静かに飲んでいるルックへのものが殆どで、滅多に顔を出さないのだろう事が知れた。
「出来ればそう願いたいな」
 子供のままの姿で旅を続けるというのは、利よりも不利であるコトが多い。体躯にしても、小さな子供のそれよりは、屈強に越したことはない。
 そんな建前以前に。今現在、俺の隣りで酒まで付き合えるようになったルックに見下ろされるのだけは……ごめんこうむりたい。
「それだけあれば充分じゃないか」
 ルックはちょっと剥れて、頬杖を付いたままじっと見上げてくる。
 そりゃ、ルックに比べたら体力も力もあるし、それなりに筋肉も付いてはいるけれど。あくまで、子供の体格でしかない。
「僕はもう、止まったよ」
 小さなままだと、何の感慨もなさそうに言う。
 長い睫から覗く深く強い翡翠の瞳と、綺麗な鼻梁と、桜色の唇と。普段は色味さえ感じさせない肌は、今は上気し朱色を乗せていて触れたい欲求を沸かせる。きっと、見たままに滑らかだろう。
「……ッ、」
「何、屈んでるのさ」
「…………ちょっと、生理現象?」
 恐らく、それだけで気付いたんだろう。ルックは、すっと目を細めて冷たい視線を向けてくれた。
「最っ低!」
 今の台詞と態度だけでこちらの現状が解るなんて……ルック、成長したなぁ。
 っていうか。かつての仲間、それも同じ男に反応したこちらの心情も慮ってやって欲しいんだけど。

 ようやっと、体も心も落ち着いた頃合を見計らって、
「で、今も誰かと手を組んでるのか?」
 幼さばかりが目に付いていた解放戦争時とは違い、格段に色気と艶やかさの増した少年に興味本位で尋ねてみる。
「でなきゃ、こんなとこに居られないよ」
 ルックの溜息混じりのその台詞には言い得て妙だとばかりに、頷く。
「で、相手誰?」
「現・天魁星」
 まぁ、お星様の天辺にいるんだから、それなりの人選だとは思うけど。それでも、子供っぽさが際立っていやしないかとの思いが、素直に顔に出る。ルックと同い年だと訊いたけどな。
「取り敢えず、天辺だし。そんじょそこらの男だと、何でか状況が悪化するんだよ」
 それが何故なのか、本気で解っていないらしいルックに呆れながらも苦笑が漏れる。
「それでも全くないって訳でもないんだけどね」
「…まぁ、そりゃーな」
 グラスを傾けながら、うんざりした態のルックに視線をちらりと向ける。
 何を敵にしても手に入れたいと、思わせるんじゃないか…この壮絶なまでの容姿は。下手したら、本当に国の一つや二つ手玉に取れるだろうよ。
 ―――所謂、傾国ってヤツだ。
 3年間っていうブランクはあれど、それなりに免疫があった筈の俺でさえ視線が奪われる、んだから。
「…あっ、そろそろ行かないと」
「行く? どこにだ?」 もうすぐ城内も寝静まろうという時刻。
「現・天魁星の部屋」
「…………は?」
「いっそそれらしく見せられるって言うんで、夜はあいつの部屋に寝泊りしてる」
 って事は……。
「『それ以上』の意味、解ったのか」
「まぁね。ついでに言うと、あの時にあんたが知らなくていいって言った意味が漸く解ったよ」
 つまらなそうにぼやき、手にしていたグラスを傾け中身を飲み干す。
 それに―――と、言葉を繋げる。
「あんたの時と、状況が違うからね」
「状況?」
「あの時は僕は子供だったし。それ以上に、あいつがあんたほど切迫した状況にはないって事だよ」
 それは、現・天魁星が単にもてないって言ってるのか。一方的に取り付けてる協力、っていう事だろう。ある程度の妥協は必要ってか。
 とすると、こいつにはないかも知れないが。相手には、そうして欲しいと思うくらいにはこいつに想いがある…って?
「………………」
 ―――あれ?
「ま、あいつの部屋だったら風呂あるから、それだけで良しとしてるけどね」
 じゃあね、ひと言言い置いてさっさと踵を返すその変わらない華奢な背を見送りながら。
 湧き上がるのは、消化不良を起こした時のようなモヤモヤする、何か。
「…………」
 何か…ヤバイ気がする。
 それも、もの凄く…だ。
 見たくなかったものや、それ以上に認めたくなかったものを否応もなく目の前に突き付けられた、そんな感じ。
「おいおいおい………冗談、だろ」
 何だって、よりにもよってあいつなんだ?やら、今頃なんだ?やら……自分でも頭を抱えたくなるような疑問の数々に。
 グラスを持ったままの手首に額をのせて、大仰に溜息を零した。



 当時、それは互いの利に適うものだった。
 だったら今は?
 何を望んでそうするのか。

「仕方ないだろ? 欲しいんだから」

 そう、答えは簡単に弾き出されて。
 悩みに悩んだ末。
「ルック、俺と手を結ぼう」
 翌朝、石板前で現・天魁星と何やら語り合ってるルックに、きっぱりとそう告げた。
 取り敢えずは、宣戦布告。

 そう、まずはそこから始めよう。






END



2004.10.11
 坊ルク企画社さま発行の『週刊 オレのルック No 2』に寄稿させていただいた怪文書です。
 某さまの、「次は○月にでますからv」という否応もない宣告に出来上がった代物です。
 サクラ坊とルック……ではないです。月ノ郷お得意(?)の名無し坊さまです。
 サクラ坊にしようと思って書き始めたんですが……何故か筆が進まなくて、サイトにいない坊さまでいいじゃん!と、開き直ったらさくさく書けた、という? ってか、こんなに長くなる筈じゃなかったのになぁとか??
 掲載させていただいて読み返してみたら、2主とルックはコトに至っているのかいないのか解んなくて、凄い微妙だなぁと思った記憶があります。どうなんだ、実際?!っていうのは、読まれる方の好き好きってことでv
 因みに題名の”first of all”は、”取り敢えず”って意味合いで解釈してください。なにかね、執筆中のメモ帳の題名がそれだったので、そのまま英語に直したという(苦笑)。