泣きたくなるほどに − 13 足を踏み出した記憶なんて皆無で。 だけれど、気が付けばようやく慣れたたばかりだった温かさに包み込まれていて。 要らないと思い込もうとしていたその温かさに、もう一度包まれてしまえば。 身体から、胸の内から……張り詰めていたモノがゆるゆると制御を失って溶けて壊れるのを、ただ遠い事のように感じるばかり。 ―――感情の波が去った後、胸を占めたのはこれ以上もない安息だった。 軍の中枢核を担う幹部連の部屋が立ち並ぶその一室から、部屋の主と某国の英雄のふたりが姿を現したのは、翌々日の昼少し前。 昼食でも摂ろうと、欠伸を噛み殺しながらレストランに向かっていたシーナは、その道すがら彼らと顔を合わせた。 「よぉ」 「おっす」 「……はよ」 三人三様の挨拶を交わし、どこか疲れた様子のアカザに気付いてシーナは首を傾げた。 「何でそんなに疲れてるんだ?」 ルックの元を訪ねただろうアカザが、それ以降姿を見せていなかったという状況から、どういう形であれふたりの間である種の決着は付いたのだと予測はしていた。 そして、そうなれば当然、アカザは元気溌剌、それはそれは鬱陶しいほど清々しい表情で現れるだろうと予想していた。ついでに言うなら、相方は満身創痍だろう…とも。いつもなら、無理させるなと厳重注意してる所だったけれど、今回ばかりは言うだけ無駄に終わるのが目に見えていたので、言わずにいた。 「んーで、何でルック元気なんだ?」 心底不思議そうにシーナに問われて、薄っすらと笑みを浮かべたルックの横でアカザは渋い顔付きで唸った。 「寝てたからな」 「………そりゃ、寝てたんだろうけど…って、まさか寝るの意味が違う?」 「ご名答」 「お前がかっ?!」 思いっきり驚いて見せたシーナに、表情の渋さがいっそ増す。ルックの方はというと、話を聞いていない訳ではあるまいが涼しい顔だ。 「出来る訳ねーだろ! こいつ、寝やがったんだぞ?! それも同じ寝台で、だぞ?! どんなに俺が我慢強いられたか解るか!」 やたらムキになって言い募っているアカザに、シーナは疑わしげな視線を向けた。 「嘘臭ぇ」 「全く持って同感」 「お前まで言うか!」 畜生、それなら今すぐ喰ってやる!と唸るアカザを、 「一週間お預け、だろ」 万人が見惚れるだろう鮮やかな笑みを浮かべ、ルックは一刀両断した。 「………お預け?」 「そのくらいしないと気が治まらなくてね」 飄々と言ってのけるルックの台詞に、 「朝、目ェ覚ましての開口一番が、『一週間、お預け』だぞ、信じられるか?」 「そりゃ……アカザには、これ以上もない報復だよな」 しみじみと頷くシーナに向けられたのは、アカザのこれ以上ない恨みがましそうな視線だった。 そうそう石板放っておけないから、と。 ルックは三人で食事を摂った後、ひとりで定位置に向かった。その後姿をアカザは目を細めて愛しそうに見送る。横目でその様子を見ながら、 「よく、無傷で許してくれたなぁ」 シーナはぽつりと零した。 見た目からは想像もつかないほど、ルックには苛烈な部分もあるのだ。主にそれはルック自身に向けられているが。 「あぁ、まぁな。つーか、あいつ目を覚ましたの、今日の朝だし」 「あん?」 「部屋行って、怒鳴り散らされた。その後、あいつそのまんま潰れたから?」 ずっと抑えつけていただろう感情を発露できたのか…と、シーナはホッとする。 きっとそれは、アカザ相手だったからこそ出来たのだ。ルック自身が認めようと認めまいと、そうさせる事が出来るのはアカザだけだ。 「疲れてるの解ったから寝かせといた。何か…起こすの忍びなくてな」 寝顔だけ堪能しといた、との台詞にシーナは業とらしく首を傾げる。 「お前の場合、その点が一番不思議」 「……どういう認識だよ」 俺は、酔っ払いと正気失ってるヤツには手ださねー主義なんだ、とちょっとばかり悔しそうに言うアカザにシーナはきょとんと目を丸くした。まさかとは思うけど、勃たなかったんじゃねーのと疑わしげに問うと、アカザはげんなりと肩を落とした。 「んだよ、そりゃ。俺的には準備万端だったんだよ! つーか、そういう状況で正気に返ったら、絶対あいつ傷付くだろーが」 確かに……と、シーナは頷く。 ルックが良しとしないのは、自我を踏み躙られる行為だ。その間に、自身の意を挟まれない事だ。気持ちがあろうがなかろうが、そんな事が問題なのではなく。抱かれる事でさえ、自身が受け入れる事を決めたのだ…という事実が有りさえすれば、それでいい…と。 アカザはアカザなりに、ルックの事を大事にしているのだと思う。それが、他には解り難い方法であっても。 「おまけに着替えさせてりゃ、身体のあちこちに痕つけてやがるし」 「そりゃ…………自業自得」 それを付けたのがオギである事は、明白だったが。シーナにそれを伝える気はさらさらなかった。 怒るくらいなら、忘れなければいいのだ。自分たちの被ってきた心労に比べれば、そのくらいどうって事ないだろとさえ言い切れる。 そして、この騒動中ずっと疑問に感じていた事を訊ねる。 「そういやー俺、お前に聞きたい事があるんだけど」 前置きすると、アカザは 「何だ?」 と目を眇めてシーナを見やった。 「忘れたのが、何でルック限定だったのか…って」 「そりゃー、アレだ! あん時考えてたのがルックの事だけだったから?」 「はぁ? 何だ、そりゃ」 「一月ぶりに出来る予定だったんだよ! どうやって啼かせてやろうかって、そればっかり考えてたら、あのアダリーとかいうクソ爺の奇天烈な発明品にやられちまった…って感じ?」 頭の中にルックの事しかなかったのだから、それ以外に何を忘れる?とのアカザの言は尤もといえば尤もかもしれないが。 「…………………お前な、」 それなら、せめて考えてた方を覚えてろよ―――と言いたいのをシーナは堪えた。 酷く満足そうなアカザの表情に、結局振り回されるだけ振り回された感のあるルックが、今更ながらに気の毒でならない。ついでに言うなら、己を含むその周囲もだ。 「何か……お前って極悪だな」 「慣れろよ」 「…………どうして、ルックはこんな奴がいいんだ?」 不遜でふてぶてしくて、唯我独尊。 それに見合う実力が兼ね備わっているから、余計性質が悪い。 だけれど、ルックが惹かれたのはそんな外から窺えるものではないのだろうという事は解っている。解っているから、ルックがいいという間は黙認している。 「……言っとくけどな。今度泣かしたら一発殴ったくらいじゃ許さねーかんな」 今回だって、本当なら殴って然るべくと何度も思ったが。余計ルックが傷付くのではと思うと、はばかられて結局手は出さなかった。 「―――解ってるさ」 不可抗力とはいえ馬鹿だったな、って思ってる。 還ってきて、泣かないルックを思った時、心底そう感じた。 人との付き合い方を全然解っちゃいないあいつは、呆れるくらいに不器用で。 あんたなんて要らない―――なんて宣告されたのは俺なのに、そう言ってるあいつの方が痛そうで……。 「取り敢えず、後一週間はさせてもらえそうにないお前への小言はこれで終いにする。どうせ、オギからも嫌味をたっぷり喰らうんだろうから? ま、精々頑張ってくれ」 暇つぶしに観覧させてもらうわ、とのシーナの言にアカザは一瞬固まり。 「…………ま、しょーがねーわな」 時期も時期だったし…とぼやきながら、わしゃわしゃと髪を掻き乱した。 「取り敢えずは、あいつのトコトン後ろ向きの考え方を改めさせてやるつーのが、目下のトコ目標だからな」 「あぁ、そりゃ確かに」 今回のことにしても、自分自身が鍵だったのはルック本人にも解っただろう。それくらいに、相手の中の己の占める位置というのも、自覚出来たのではないかと思う。 それだけでも、今回の騒動は良かったのかと思わなくもないが……。 「でも、無理には追い詰めんなよ」 それでも、まだまだ目を離すのを躊躇ってしまう保護者としては、ひとつ釘を刺しておく事だけは忘れなかった。 出迎えは三人揃って、石板前で。 そこに佇む三人の姿を認めた途端、あからさまに眉間を寄せるオギへと。 現在の状況ではなく此度の事の顛末を、巻き込まれたもうひとりに告げられるという状況に。 仏頂面の主を、三人三様にそれはそれは嫌味なほど綺麗に笑って出迎えたのだ。 ...... to be continue
|