運命、かも知れない < 前編 > 日中でさえ光の欠片も差し込まない薄暗い森深くは、容易く入ってはいけない禁域とされる。 近隣に住まう者は普段、そこまで入りきらない領域で、日々の糧を得ることも有る。が、目に見えずとも存在する禁域への不可侵について、物心つく前の子ども達に諭すのが大人達の重要な役割のひとつでもあった。 それでも、子どもは知らぬものを見、興味あるものに触れたがるのを常とする。 だからそれは、子どもだったら誰でもが持っている、ほんのささやかな冒険心・探究心に過ぎないのだった。 それが人が入り込んではならない域を侵すという、類のものであったとしても。 旅慣れた風のふたりの少年が、禁域と呼ばれる森に入り込んで既に数刻が経つ。 深い森の中、足許に纏わりつく雑草を掻き分けながら、背後から遅れがちに付いてくる華奢な姿を気遣い、先を行く少年サクラ・マクドールは振り返った。 「ルック、どうかした?」 森の深い緑を一層深くし尽くしたかのような翡翠の瞳が、小さく睨み上げてくるのに訝しげに首を傾げる。 「ルック?」 「……何でこんな仕事、引き受けるのさ」 不機嫌な様を隠しもせず問われ、 「だって、そろそろ路銀尽きそうだし?」 実家の従者が聞いていたら 「帝国でも名門と誉れ高きマクドール家の長子ともあろう者が」 とでも、号泣したであろう台詞を平然とのたまう。 「やっぱり、ルックには野宿させたくな「ーっ、そういうことじゃなくて!」」 ふざけてるかのようなサクラの言葉尻を切り捨て、憤りさえ滲ませてキッと翡翠を一層煌かせた。 共に旅に出て、半年近く経っていた。 ルックは、サクラのたまに見せる高貴な出自らしからぬ粗野な態度や、逞しいとさえいえる世渡り術に、未だに驚く事が度々で。 一方のサクラは、全く世間ずれしていないルックの子どもっぽい様を見ては、柔らかな笑みを浮かべる日々だった。 旅先での物品の購入やそれらの値段の交渉は主にサクラがこなし、ルックは料理を作る。旅始めた最初の日に料理は分担と決めたのだが、そう言い決めたその日の内にルックひとりで賄うことになった。 理由は至極簡単。サクラの作る料理の味が有り得ない類のものだったからだ。見目形は普通なのに、ひと口食べてルックは地獄を見た。 会ったばかりの頃、何でもない事のように料理をこなすルックに、サクラが心底感心していたのを、その時ようやっと思い出し、その日以来、我が身を守る為に料理担当を担っている。 尤も、いつまで掛かる旅なのか、行き着く先があるのかとも知れない旅である自覚はふたり共あったので、路銀を稼ぐ為に商隊の用心棒をする事もある。立ち寄った村や街で小用を引き受けこなす事も度々で、旅するよろずやの様相を呈してきている。 「……子どもの姿って、不利だ」 だけれど、どれをとっても容姿のみで断られる回数の方が断然多く、ルックはその度に悔しそうに顔を歪めていた。 サクラは時が止められたといっても、一応成人年齢は過ぎてはいる。背丈も高く、基本的に物腰が穏やかなのでそれなりに大人としての扱いはされる。が、ルックは実際子どもといっても過言ではない年の上、発展途上の華奢な体躯と、年相応には見られること自体が少ない童顔ときては、それ相応の扱いされるのも当然といえた。 そのお陰で、仕事の内容の所為で暫く村や街に拠点を置けば、周囲の者たちがやたらと世話をやいてくれるのだ。世話を焼かれ慣れているサクラでさえもが、辟易とするほどに。 「でも、武器にもなるよね」 例えば用心棒、ならば。ふたりの容姿も相まって、敵として対峙した者は確実に侮る。多数であればある程に。そうでなくても、それなりの腕前・魔術の使い手であるふたりにしてみれば、その時点で敵ではなくなる。 目下のところ、彼らふたりの旅は順風満帆状態だった。 昨日、初めて訪れた村の食堂で、腹ごなし兼本来の情報収集がてら当座の仕事を探していたふたりに今回齎されたのは、 「守神を退治するなんて、」 といった依頼だった。 「無謀にも程がある!」 五日ほど前に森に入り込んだ子どもが襲われ、未だ意識を失ったままらしい。自分たちの前にも、何人かの討伐隊を出したが、その全てが消息を絶っているとのことで。 サクラは逡巡なく、依頼を受けた。 「心配してくれてるの?」 「違う!」 きっぱり一刀両断に言い切るのに、サクラが一瞬ショックを受けた様など視界にも入らないのか、ルックは矢継ぎ早に言葉を繋げる。 「禁域に勝手に入り込んで守神に襲われたからって、それは全くの自業自得であってその守神の所為じゃないんだから!」 ほとんどの守神は、本来その存在としての姿を持たず、竜の姿を模しているという。そんな守神の役割は、文字通りその地を護るということ。 「禁域っていうのも、そもそも危険なんだよ。各地によって違うけど、人に有害な場やモノを封じ込めてる場合の方が多いんだから」 必至な様相でそう言い募る少年を、サクラは微笑ましい思いで見つめた。 常はその齢に似合わぬ淡々とした素振りを常としながらも、それでもルックは人を気にかけていないわけではない。極端に隔離された状況で育った為、人との距離の取り方が苦手なだけなのだと、共に旅を始めて幾度もそんな様を見てきたサクラは知っていた。 「結局、守ってもらってるのは、人間の方なんだ」 なのに……勝手だ、と項垂れる少年の、淡い茶の髪がさらりと風に靡く。まるで、風が宥めているかのようだと、サクラは思う。 ルックが風の魔法を得意としているのは、彼が風に愛されているからだとレックナートが言っていたのを思い出すのは、こういった様を見たときだ。 そして、そんな時に湧き上がる胸を押し潰すような感情が、あまり晒したくない類のものであるということも……最近、知った。 それは、嫉妬だ。 「解ってるよ」 サクラが頷くのに、ルックは弾かれたようにその黒曜石の瞳を見上げる。 「だからこそ、他の何も知らない奴等なんかには任せておけないよね」 煌く翡翠を見開き、己を凝視する少年へは微笑を返しながら、当然のように言い切った。 「討伐なんて言いながら金につられて域を侵した連中は、そりゃあ自業自得ってやつかも知れないけど。だけど、守神はそうじゃないだろ?」 揺れる翡翠の瞳に自分の姿を見つけ、胸に湧き上がるのは底知れない高揚感。それを抑えきれずにサクラはいっそその笑みを深くする。その瞳に映されるのを、これ以上もなく幸福だと…そう感じていた。 「どうしたらいいのかは、まだ解らない」 でも、行ってみよう? そう、手を差し出すサクラに。 ルックはおずおずと。躊躇いながらも自分の手を重ねた。 赤月帝国でも屈指の貴族であるマクドール家の一子、サクラが思いも寄らぬ呪を掛けられたのは、半年程前。 その呪の判別と解呪の依頼にレックナートという魔女の元を訪れ、そうしてルックに出会った。僅かな時を共に過ごし、そしてその身を縛する呪が不老不死という解呪出来る可能性が皆無に近い類のものであると知った時。 共に居て欲しいと、そう願ったのがこの少年だった。家族でも、無二の親友でもなく、出会ってほんの数日一緒に過ごしただけの、不器用な少年。 その感情の意味する所など、それを感じるのが初めてなサクラにはその時には知り得なかった。だけれどそう思ったからには、彼にも同じ時を望んだ。躊躇もせずにそうなる状況を作り、文字通り陥れた。それは、酷く自分勝手で傲慢な行いだったと、今も変わらずに思っている。 それでも、サクラはその時の己の行動に後悔などしていなかった。 結構な距離を歩いたのではないかと、立ち止まってぐるりと周りを見回す。 が、彼らの視界には、所狭しと隣接する木々と、日の光りを遮る緑の天井しか入らない。 「子どもの足だから、それほど奥に入り込める訳なかったと思うんだけど」 返るのは肯定を表す相槌。 「ここいら一帯澱みが酷くなってきてるから、この辺といえばそうかもね。あともう少し歩けば例の禁域に入るし」 風を遊ばせながら、それとなく探っていたんだろうルックの言葉に頷く。 「それに……血の匂いがする」 それも乾ききらない程に夥しい量が流されたのか、生々しい血生臭さが鼻腔を衝く。 「ーぁ、」 ぎらりと視界の端に捉えた抜き身のままの剣が入り、膝を着いて手に取る。飛び散ったんであろう血が点々と色を乗せているのに、眉間を寄せる。背後から覗き込んだルックが口許を覆い、ぽそりと呟く。 「…………討伐隊、か?」 ぞくりと、背筋に走る悪寒。刹那、周囲の空間が歪みを帯びた。 「ー来たッ」 明らかに捻じ曲げられる、理。 在るべき形を無理やり開かれ、迷い出たる魔獣。 身の丈なら、サクラの倍もあるだろうか。 黒々とした剛毛で覆われた巨体が放つ禍々しい気配。 ぎょろりとした大きな赤い目と、犬歯の発達した口、一振りで身と頭を分離出来得るであろうカギ爪。こちらを認め、息を荒く乱し今にも飛び掛ってこんばかりの様は、実戦経験のない者なら、目にしただけで身動きが取れなくなるに違いない。 が、棍を手に身構えるサクラの背後で、ルックは小さく安堵の息を漏らす。 「……守神じゃ、ない」 魔獣の出現で、血生臭さは一層増した。 「援護、頼んだ」 「ッ、解った」 そのくらいしかルックに出来ることはない。 山のような巨体に怯むことなく、突っ込んでゆく後姿を見やりながら、呪を紡ぐ。 今まで対峙してきた魔獣とは比べ物にならない厄介さだと、身に伝わる存在感で知れる。が、膝折る訳にはいかない。 「切り裂け、」 跳躍後、魔獣の頭上に振り下ろされた棍の衝撃に巨体が傾いだのを目掛け、ルックが風の刃を放つ。 「ぐぉおおおおおーっ」 容赦ない風に血飛沫が舞ったが、大きな足は大地を踏みしめたまま崩折れない。 これだけの巨体ならば、その身の厚さも相当だった。風の刃では、致命傷には至らなかったようだ。 「何だってこんな厄介なのが」 確かに、人の入り込まない地には魔獣が多く生息する。そして、それらの多くはそのままその地で一生を終える。他が、彼らの地を荒らさない限りは。 尤も厄介なことに、人の血は彼らを狂わせ、正気を奪う。故に、一度その血肉を口にした魔獣は、以後人を獲物として襲うようになる。 切欠さえなければ、双方にとって何も問題はない筈なのだ。 そうして、切欠を作るのは大抵の場合人間、だ。 「チッ、」 どこか不条理を感じながら、それでもルックは風の密度を上げ収束させてタイミングを見計らい放つ。 都合の悪いものを排除する―――そんな選択にしか辿り着かないもの達。自分が立つ場所は、そんなもの達が立つこちら側だから。 「ぐあぁぁーーーーーーーーッ」 サクラと連携を取って放った風は、魔獣の脇腹を切り裂いた。痛みに我を忘れた魔獣が、闇雲に太い腕を振り回す。勢い付いて振り下ろされた腕が、地下に張った木の根を抉り出す。その体躯故に動きは鈍いが、力は見た目を裏切らない。おまけに、当然ながら間合いはあちらに分がある。 「ーッあ、」 息つく間もなく振られた一撃が、間合いを見誤ったサクラの二の腕を軽く引き裂いた。 「ちょっ!」 「平気、」 咄嗟のことに、切り裂きの呪を紡いでいた唇が綴りを唱え終える前に詠唱が途絶えた。裂かれた腕を振って血を払い落としたサクラが棍を構え直す姿を視界の端に捉え、ルックは小さく舌を打った。 呪を編んでいる最中に他に意識を逸らすなんて、敵を前にしてあらざる失態だ。 刹那に集中を高め、再び呪を編む。 回復か攻撃か、悩んでいる暇はなかった。さっきの僅かな逡巡の所為で、魔獣の攻撃態勢は整っている。 「ー切り裂けっ!」 脇腹、先程と同じ箇所に風の刃を放つ。血がしとどに溢れる疵を再び深く抉られ咆哮を上げる魔獣が、ぐらりとたたらを踏んだ様を視界に映し。間を空けずに呪を紡ぐ。 視界の端に捉えたサクラは、疵口から流れる血が腕を伝い、棍まで辿っている。痛む腕に加え、武器も滑り易い状態では、本来の実力は出せまい。全力でさえ、未だに倒せてはいないのだ。手負いのまま、屠ることが出来るなどと甘い考えは微塵も持たない。 舌に馴染んだ呪は、完成するのも速い。 「いやしの風」 刻をおかず、そのままサクラへと。魔獣を見据えた翡翠は、逸らす事をしない。 油断や慢心は、ない。それらは戦闘時にはあってはならないものだという事を、旅に出、実践でその身に叩き込んできた。 「ありがとう、ルック」 「ーーー来るよ」 見据えた先には、疵からぼとぼとと血を滴らせる、いきり立った魔獣。 「ぐぅぅぅぅ」 喉の奥から零れる呻きと、血走った朱色の瞳とで、戦意を喪失していない事が知れる。巨体に見合った肉の厚みの所為で、切り裂き程度では決定的な致命傷を負わせられない。 何だって、こんな厄介極まりない魔獣が相手なのか、とルックは唇を噛み締めた。 肉体的・体力的に劣るルックは、魔法と策でしか敵の相手が出来ない。どんなに非力を厭うても、持ち得なかったものを望んでも、諦めるしかない事は多々ある。悔やむくらいなら出来る事をと、日頃から集中力と詠唱の速さに重きを置いて磨いたきた。 「脇の疵、狙って」 口早に告げ、サクラが頷いたのを窺うと、自らは詠唱に入る。 「ルック!」 が、巨体で間合いを一気に狭められ、薙ぎ払われる腕を避けたと同時に集めそこなった風は霧散した。 「チッ、」 体勢を立て直しロッドを構えた視界の端に、魔獣の振り上げた腕を掻い潜り、脇の疵に一撃を叩き込むサクラの姿を捉えた。痛みに悶絶する魔獣の闇雲に振り回される腕を避け、再び棍を揮う。 「ッ、しぶとい」 これだけの攻撃にも崩折れない魔獣に内心焦りを抱きながら、呪を紡ぎ続ける。体力もそうであるように、魔力にも当然限りがある。紡ぎきれなくなれば、その時点で最期になる確立を多大に秘めている。 「ー行け!」 呪に寄って終結された風の刃を、解き放つ。 直接攻撃と魔術の度重なる攻撃で、脇腹の疵は裂傷となり大きくその口を開いているというのに。それでも襲い掛かってくる魔獣の血で、周囲は真っ赤に濡れていた。 「ぐぉおおおおおーっ」 「いい加減っ、沈め」 が、こちらの消耗も激しい。最初の攻撃で血を流しすぎたサクラと、魔力の放出の激しいルックと。これまでにない敵の手強さに、疲弊度は著しい。 しかし、ここで手を休める訳にはいかない。 再度、ロッドを構え呪を紡ぎ始めた刹那――― 「ルックッ!!!」 名を叫ばれた。魔獣の標的が、ルックに向けられたのだ。 解ってる、と間合いのギリギリまで接近を許しながらも、詠唱は止めない。 「ーーールック!」 引き裂かんとばかりに大きく振り上げられた腕と、魔獣の背後から棍を振り被って跳躍するサクラとを視界の真心に収め、ともすれば投げ出しそうになる呪を唱え続ける。 ―――成っ、! 呪の完成と共に大きく練り上げられた風の塊を、今まさに打ち下ろそうとせんばかりの魔獣の腹元目掛けて叩きつけようとした、刹那。ルックに向かい打ち下ろし掛けた腕を錘にし、斜め横に薙ぐ勢いのまま重い筈の身を器用に反転させた。 腕の軌道の先には、棍を跳躍の反動のまま頭上から打ち下ろし、獲物の頭上を捕らえたと確信した瞬間のサクラ。 「ぐ、ーぅっ、」 が、棍先は魔獣を掠ることもなく。代わりに、勢い付いた容赦ない一撃を無防備だった横腹にまともに受けて、文字通り弾き飛ばされる。 「ーーーッ、行け!」 動揺がなかった訳ではない。だけど、同じ愚は二度は犯さない。 今、自分がどう動くかで生か死かが決まるのだ。 渾身の力を振り絞って放った風は、しかし動揺ゆえか狙った軌道を僅かにずれた。 「ぐぁーおおおおっ」 顔を押さえて悶絶する魔獣に舌を打ち、飛ばされたサクラの姿をルックは視線だけで追った。 木の幹に叩き付けられたサクラは、苦痛に顔を歪めて立ち上がろうとしている。無意識に鳩尾を庇っている。何本か折れているのかもしれない。 素人なら、即死だったろう。咄嗟の事ではあったが、一応の受身は取れていたらしい。 「動くな、」 万が一折れていた場合厄介だ、とルックは立ち上がったサクラへ怒鳴った。が、サクラは口端から零れた血を袖口で乱暴に拭うと、 「平気、だからっ」 歪んだ顔でそれでも笑みを浮かべた。 「っ、どこが」 脂汗まで浮かべて言う台詞じゃない。 「……それは、こっちも一緒か、」 ルックは小さく喘いで、顔に負った疵を掻き毟る魔獣へ視線を戻した。 魔力、体力共に後がない。 サクラと旅を始めてそれなりについたとはいえ、ルックは致命的なまでに体力に恵まれていない。それが、ここまで持っている今の状況の方が、珍しいことなのだ。 さっきの切り裂きが、身体を抉る形になっている脇腹の疵に狙い通り命中さえしていれば、膝を着かせるに至ったかも知れない。そう思い、ルックは唇を噛んだ。 そして、キッと魔獣を見据えると、再び呪を編み始める。今は反省も、ましてや後悔などしている暇はない。 回復か、攻撃か―――ルックは魔獣の様を見、後者を選んだ。 致命傷にはならずとも、せめて崩折れさせる事が出来れば、と。 回復の魔法は治癒力を刹那的に高めはするが、骨折の場合、その効力は格段に落ちる。通常時と同じように、疵の深さによって治る時間が比例するのだ。 魔力と体力に余裕があれば、サクラに回復魔法を施し、完治するまでの間ルックが敵の注意を引きつけ、という策もとれたかもしれない。が、絶対的にその両方が足りていない。 「ールックッ」 掠れた声がルックの名を呼ぶ。警戒を促す声であることは、そちらを見ずとも解っていた。 片方の目が潰れ顔面を血塗れにした魔獣がルックの方へ向かって突進してこようとしていた。ギラギラとした怒りに満ちた、巨大な体躯。鬼気迫るその様は、今まで負わせた疵など、何のダメージも与えていないようにも見せ、竦み逃げ出しそうになる身体を必死にその場に抑えつける。 ―――ここで逃げたら、もう起てない。 それは、自ら生を放棄するということに他ならない。 魔獣を見据え、一心に呪を紡ぐ。攻撃の呪を選んだということは即ち、サクラの助力は見込めないということだ。 風を集め、練り上げ、密度を高め、そうしてひとつに纏めてゆく。 根気と集中力を要する作業だ。 が、風は、そうする本人が驚くほど従順にルックの意を形にしてくれる。 今度こそ、失敗する訳にはいかない。 何も成さないままに、このまま終われるもんか、とルックは最後の呪を編み上げた。 血に塗れた、荒くれた魔獣。殺気しか窺えない片目は、小さな少年を見据えたまま。それだけで気圧されてしまいそうな唸り声を上げながら、躊躇いもなく突き進んでくる。 恐らくこれが、自分に行使できる最後の呪だ、とルックは目前まで迫った魔獣へとロッドを翳した。溢れる風を、全身で感じる。 「―――切り裂けッ、」 呪と共に開放された風が歓喜の唸りをあげ、一斉に魔獣に襲い掛かる。 無数の、幾重もの刃。 屠る事を前提として練られた風は、術者の意を忠実に具現する。 が、その刃を一身に受けながらも前進することをやめない。崩折れない。殺気のみをその体躯に漲らせて一歩一歩歩を進めてくる。 「ーーーくッ、」 ルックは唇を噛み締め、よろめきながらも確実に自分に向かい歩み寄ってくる魔獣を睨み付ける。 諦める気など、皆無だというのに。 それでも、今この刃で屠しきれなければ、執れる策はないのだ。 歯を喰い縛り、魔力を行使し続ける。 尽きれば、魔力という枷をなくした風は霧散する。悪くすれば、制御を逃れた反動で暴走しかねない。 が、それでも。この状況で他に取れる方法は持ち得ない。ならば、やるしかないのだ。 「ルック!!」 そう、守られるのではなく、守ることを選択したのは自分なのだから。 「ーぅ!」 急激な魔力の放出に伴い、気力・体力までもを殺ぎ取られてゆく感覚は、焦燥を呼ぶ。そしてそれは、魔力が尽きるという現状において、より一層の拍車を掛ける。 刃に身を裂かれ風に圧されながらも、未だに膝を着きもせず、敵と認識したルックの元へ近づいてくる魔獣の存在諸共に、精神的に追い込まれてゆく。 ずん…と、僅かな地響きさえ感じさせる一歩が又、踏み出される。 じわりと、背筋を生温い汗が流れた。 「さ、せない!」 魔獣は既に目前で。鋭い爪で一薙ぎされれば、ルックの細い身体等それだけで息の根を止める事が出来るだろう。 魔力も底を尽くのは、時間の問題だった。 本当なら、風を暴走させない為に魔法はただちに収束するべきだ。 だけれど、そうすれば間髪置かずに魔獣の鉤爪がこの身を裂くのは火を見るより明らかで。 進退窮まる状態ながら、ルックは自分でも奇妙に思うほど、落ち着いていた。視界の端に、荷袋から薬を取り出し口に含むサクラを認識出来るまでに。 師は言っていた。 魔力には限りがあるようで、実際はないのだと。生命ある限り、尽きる事がないと。生命力を魔力へと変換する術が存在するのだと。 後がないと思った場合にしか使ってはなりません。文字通り命を削るのだから、 「禁忌、なのです」 と、レックナートの傍らから旅立つルックに諭すように言ったのだ。 一瞬瞼を落とし、ゆるりと開いた眼差しで魔獣を見据える。深く息を吸い込み、呼気を整えながら、身体の内の生命の巡りを感覚で追う。未だ魔術を行使しながらのそれは、酷く気力を使う。 生命を繋げる箇所と、魔力の生まれる場所を繋ぐのだとの師の言葉は曖昧で。だけれど、感覚の研ぎ澄まされた今の現状ならば出来る、とルックは確信に近く思っていた。 探る、さぐる―――己が身の、奥深くまで。 深く深く、感覚だけを沈め、潜る。 「……っ、あっ」 溢れる生命の根源と、放出し続けている力の源。 捉えた、触れそうになった、その瞬間。 ―――とどまれ、幼子よ 身体全体を、凛とした声音が貫き。 そうと意識する間もなく、集中が途切れた。 目前に腕を振り上げ、今まさにルックへと振り下ろさんとする魔獣が迫っているというのに。 愕然とするルックの背後から、圧倒的な力の塊が勢いよく脇をすり抜けて、いった。 「ーーーっ」 何、と認識する暇もなく、その塊は魔獣へとぶつかりその体躯を包み込んだ。 「ぐ…ぅううぉ」 徐々に、そのまま小さく小さく萎縮してゆく。 小さな呻き共々に。 そして、拳ほどの大きさまで縮まったそれは刹那、シャボン玉がそうなるようにポンと呆気なく弾けた。 「……聖なる、力」 純粋で清浄な、穢れを纏わない力。人では持ち得ない、それ。 その力の発生源へと視線を巡らせれば。 「ーーーきみ…は、」 その先には、竜の姿を模した守神が在った。 …… to be continue 思ったよりも長くなりました(汗)ので、取り敢えず前編だけを先にアップします。全部で前編程度の長さだろうとか…思ってたんですが、読みが甘かったです。 続きも書けてはいますので、タグ入れたらさくさくと上げます! ……って、長いので、凄く面倒なんですよね。 ルックの言動がやたら漢前なのは、我が家のルックのオフィシャルです(苦笑)。坊さまがヘタレてるのは……パラレルだけど、サクラ坊だからってことで?←…… |