微笑い上戸






 これはどうしたことだろう―――と、サクラ・マクドールは刹那言葉を発する事も出来ず、唖然とその場に立ち尽くした。
 仏頂面と厭味がトレードマーク(?)の美貌の風使い。
 その彼が…信じられない事に。

 ―――満面の笑みを浮かべていた。






*           *           *








「今日帰るから」 現天魁星であるツバキにそう告げると、実際の年齢より幼い顔立ちをした少年は 「有り難うございました」 と、ニコニコ笑って頭を下げた。
「又、近いうちに伺います!」
 続いたその台詞には苦笑しか出なかったけど、ツバキの斜め後ろの自分の定置で、呆れたような視線を向けてくる風使いの彼をちらりと見やり、
「いつでもおいで」
 と言葉を返した。嫌そうに眉間を寄せるルックに、満面の笑顔を送る。
「…さっさと帰りなよ……」
 眉間の皺を一層深くしてルックが言うと、
「そうですね、早くしないと陽が高いうちに帰り着きませんもんね」 慌ててツバキが腕を引く。
「―――えっ?」
「途中までビッキーに送らせます」
「あぁ、有り難う…」
 ぐいぐいと腕を引かれながらルックの方を見ると、彼は目を瞑り手をひらひらと振っていた。
 苦笑が洩れる。笑って…なんてムチャなことは言わないが。せめて、その視線くらい向けて欲しかったんだけど。



 何度聞いても慣れない…っていうか、ビッキ―のその掛け声は心臓にいいものじゃない。
「あれ…?」
 2度も続けざま…ともなると、尚更だ。

 ざっぱーーーーん

 それも、2度が2度とも同盟軍名所の風呂場の湯船の中。名所とはいえ、来たくて来た訳じゃないから(服着たままだし…)何だかな〜って感じである。
 まあ、頼んだ相手が相手だし。彼女の 「あれ…?」 は、3年前から何度か被っていたんで、責める気にもなれない。…っていうか、徒労に終わる確立の方が高いだろうし。
 それよりは建設的に、確実にグレッグミンスターまで送ってくれるだろうルックの転移に頼るべきだ―――と考えながら、濡れた衣服を思い切り絞った。



 いつも通りの石板前。
 風の使い手であるその彼は、いつも通りのその場所に――誠に珍しいことながら――居なかった。
「……あれ…?」
 居ないなんて思ってもみなかったから、思わず声が零れてしまう。
「困ったな……」
 今から徒歩で帰るとなると……。
 計算しかけて諦める。グレッグミンスターに帰り着くより先に、ツバキが迎えに来そうな気がする。だけど、流石にビッキーには暫くの間頼みたくない。
 さて、どうしよう…と、取り敢えず周囲を見回したところで、ふっとそれに気付いた。
 ホールへの入り口付近からのざわめき―――。
 このブラックベリー城に訪ねて来る度に、まるで申し合わせてでもいるように頻繁に起こる何かしらの騒動(一度ツバキに、定期のレクリェーション?と本気で聞いたことさえある)を目にしていたから、そのざわめき自体には興味がなかったんだけど…。
 もしかしたら、ルックが居るかもしれない―――と思い、覗いて見ることに決めた。



 ―――そして、その場(正確には酒場)で目当ての彼を発見し。
 と同時に、幸か不幸か…信じられないものを目にする羽目となった。






*           *           *








 目の前にした状態ながらも、それが現実のものとは思えず何度も目を瞬かせ、終いには自分の頬を抓ってもみた。
「痛い……」
 その痛みでそれが現実なのだということが分かっても、やっぱり視線を捕らえて離さないそれが信じられなくて。
 暫くの間、呆然とルックを見つめていた自分に気が付いたらしいフリックが、 「帰ったんじゃなかったのか?」 と声を掛けてきた。
「フリック。あれ、ルック…だよね?」
 恐る恐る尋ねると、フリックはさも可笑しそうに笑う。
「まあ、そうだな」
「…でも、笑ってるんだけど……?」
 ―――信じられない。こんな場所に居ることも、あんな大勢の人間の中で満面の笑顔を浮かべていることも。
 自分にはあんな笑顔見せてくれたことないのに……等と、他人が聞いたら苦笑されてしまいそうなことで、むっとしてしまう。そんな自分の様子に気付いた風もなく、フリックは 「あぁー」 と頷く。
「何だ、お前初めて見たのか」
 ほのかに殺気さえ込めて睨み付けてやったのに、この鈍い男は気付いた様子もない。
「最近じゃあ、この城一番の名物なんだぞ」
「……何で?」
「あっ?」
「何で! ルックが笑ってるの?」
 強い問いかけに、フリックは驚いたように目を見張った。
 何だか…凄く悔しかった。自分が見たことがなかったそれを、自分が知らないところで、自分以外の人が彼のそんな表情を見ていたという事実にやたら腹が立つ。
 この感情が、子供っぽい嫉妬だということは解っている。
解っているのに…やっぱり悔しい。
「あぁ、あれ酔ってるからな」
「…………は……?」
 酔ってる…って。
「ルック、お酒飲まないんじゃなかった?」
 3年前は14だって聞いたから、飲んでるとこ見たことないのは当たり前だけど。
 この城にもう何度も来てるけど、アルコール類を口にしてるのなんて一度だって見たことない。逆に、酒場から出てきたビクトール達が声を掛けていくのを、凄い不機嫌な表情で見ていたから、 「何で?」 と聞いたことはある。その時返された言葉は 「酒臭い」 のたったひと言。
 だから―――。
「お酒、嫌いだと思っていたけど」
「まあ、本人の意志で摂取したんじゃないからな」
「は………?」
 あぁ、今日はもう頭を捻ってばかりだ。
 まあ、フリックの前で…というのは少し有り難かったけど。そういうところ、かなり鈍いから。これが、熊のような外見に似合わない機微を汲み取るのに長けたビクトール辺りなら、にやにや笑って突っ込みを入れられそうだ。この苛ついた状態でのそれは、ちょっと…というか、かなり勘弁願いたい。
 僕だって、何も好き好んで紋章を発動させたいわけじゃないから。
「ハイ・ヨーに酒入りのケーキ作ってもらって、それを食わせたんだ」
 当然ながら、フリックが言いにくそうに白状する。
「…………あのルック相手に、よくそんなことやる気になったね」
 命が惜しくないんだろうか。
「最初は違ったんだ。ニナが俺に、って持ってきたケーキをそのまま放って置いたら、ナナミがみつけてな。食っていいって言ったら、ツバキやらフッチやらキニスンやら…お子様軍団で切り分けてたんだ。そこにルックが通りかかったんだよ。最初は要らないって言ってたけど、何しろ相手がある意味最強なお子様たちだろ」
 まあ…確かに、ツバキを筆頭とした同盟軍のお子様軍団は、最強っぽいけど。
「殆ど奴らの勢いに押されて、食っちまった訳だ。俺も、アルコール入りとは思ってなくてな」
 フリックは何かを思い出したように苦笑する。
 ……だから、何でこの男は僕の機嫌が悪いのに気付かないかな?
 フリックがそれこそ頻繁に災難に見舞われるっていうのは、運が悪い所為ばかりじゃないと思う。
「ケーキに入れるにしちゃー、アルコールの分量が多かったらしくて…。おまけに、下戸だったんだ、ルックの奴が」
 もっと自分の周囲の空気の流れとかに注意を向けるべきだと、誰か助言してやればいいのに。
 勿論、僕にその気はないけど。自分で災難を引き寄せてるとしか言い様がない。もしかしたらビクトール辺りは、これで退屈を紛らわしてるんじゃないのか? 見てる分にはさぞかし可笑しいだろう。
「そりゃー、いきなりあのルックに笑われてみろ! たまげたなんてもんじゃないぜ。酒場に居た十数人が固まったまま動けなくなってたしな。動じなかったのは、ツバキとナナミだけで、あのふたりのけたたましい歓声で、皆我に返ったって感じだったからな」
 尤もだ…と思う。自分だってその場に居たら、そうなったろう。つい先程の驚きを思い出してしまう。
 しかし、だからと言って……。
「あのルックが何度もそれに引っ掛かってる…とは、思えないんだけど?」
 その齢には思えないほどに、聡過ぎる少年なのだ。恋愛感情云々以外のことでは…と、注釈が付くのだが。
 まぁ、当然だなと、フリックが頷く。
「酔ってる間のことは、記憶にないようだぜ」
「でも、次の日とか…」
「二日酔い対策には、ホウアンの薬と流水の紋章使ってな、見学者には一切口止め。箝口令しいてるよ、ツバキが」
 その名に、笑顔が一瞬引きつってしまう。城全体で画策してる訳だ。
「ふーん…。結構やるじゃない、ツバキも」 自分でも、声音が低くなってゆくのが解る。
「最初ン時にルックの酔ったとこ見た兵士のひとりが、調子に乗って本人に 『笑っても綺麗ですね』 とか何とか、つい言っちまったらしくてな。ホール半壊しかけたんだよ」
 あー、あれか…と、サクラは顎に指をあてる。
 初めて来城した際、かなりの数の職人がホールの修繕をしていた。あれが多分、そうだったんだろう。
 3年ぶりに逢った…っていうのに、ルックの機嫌もすこぶる悪かった。
 原因はこれだったのか。
「まあ、仕方なく…だな」
 ―――仕方なく、だって? 冗談じゃない。フリックと話してる今だって、視界の端であのルックがにこにこ満面の笑顔で笑ってたりするし。
 いくら酔ってるからだ…って言ったって、そんなもの、誰にも見せたくなんかない。
「おっ、サクラ来てたのか」
 不機嫌丸出しの僕に気付いたらしいビクトールが、酒瓶片手に寄って来る。こういうとこ、3年前とちっとも変わらない男だ。
「あれ、見ものだろ」 不機嫌の源であるルックを指差して、にやにや笑ってるし。僕の怒りを煽って何をさせたいんだろうか、この男は。
「同盟軍には、命知らずの人たちが随分多いんだ?」
 にっこりと盛大に笑顔を向けてやると、
「おいおいおい、遊びだろ」 ビクトールは口許を引くつかせる。
「悪趣味極まりないね。本人の意識のないところでそういうことやらかすの。まさかビクトールまでが、こんなことの片棒担いでるなんて思わなかったよ」
 やっと怒りを向けられる対象――フリックには全く厭味が効かないから――を見つけたことに、嬉々として辛辣な言葉を笑顔で言ってやる。
 こういうとこ、周囲の人たちを退かせてしまうらしいけど。ちゃんと分かっててやってることだから、全く問題ない。
 苦虫を潰したような表情のビクトールに、もうひとつおまけの笑顔。
「もう一泊してくから。アレ、引き取ってくね」
 顎で示した先には、いつもの仏頂面が嘘みたいににこにこと笑顔大放出中のルック。その笑顔だけで悩殺されてしまいそうなくらい、可愛いことこの上ない。
 ……でも、もう誰にも見せてなんかやらない。
 やれやれと肩を竦めるビクトールが、
「本人に言う気か?」 と、半分本気で心配して訊いてくるのに、 「まさか」 と、冷たい視線を向けた。それこそ、ホールの半壊なんかじゃ済まないだろう。
「でも、次はないと思ってね」
 やるんなら、本拠地が跡形も無くなることを覚悟してからやってね。
 ビクトールはちゃんと台詞に込められたそれを理解したんだろう、熊のような面を引きつらせた。
 こういう聡いところ、好きだな。いちいち説明する手間がなくって。フリック相手じゃ、こうはいかない。
「了解。ツバキにはちゃんと言っとくさ」
「そうだね。まあ、僕からも後で釘刺しとくつもりだけど」
   どんな釘だかは、その時考えるとして。
 話は終わったとばかりに踵を返しかけて。あぁ、それから―――とビクトールに向き直る。
「その相棒、もうちょっと何とかならない?」
 言いたいことだけ言うと、一瞬絶句したふたりのことなんか放って置いて、さっさと踵を返す。
 やっと、本来の目的であった彼の前に歩み寄る。
「やあ、ルック。迎えに来たよ」
 そう言うと、ルックはきょとんと首を傾げた。
「もう部屋に戻ろうね」
 子供に言い聞かせるみたいに言うと、ルックはにっこりと微笑んで。
 何だか……胸が痛くなる。笑って欲しいとは思ったけど…。
「―――行こう」
 手を出すと、嬉しそうに握り締めてきた。
 こんな風な笑顔が見たかった訳じゃないから。
 しーんと妙に静まり返った酒場を出ようとすると、ビクトールが五角形に折られた紙包みを手渡してきた。
「……二日酔いの薬?」
 頷くビクトールに小さく頷き返し、優しくルックの手を引き、酒場を後にした。
 大人しく引かれながら、手の甲で目許を擦るその様子に、
「眠いの?」 と、尋ねてみる。小さく頷くルックの手を離し、
「負ぶってあげるから、寝ててもいいよ」
 彼の前に跪いて背を向けると、ちょっと間を置いてから、背に温かい重みが重なった。愛しい温かさと、切なくなるような重み…。
「……おやすみ、ルック」
 小さく囁くと、 「…ん」 ルックの吐息混じりの声が、微かに耳許をくすぐった。



 笑ってくれたらいいのに…と思っていた。

 でも、ただ笑ってるだけじゃ駄目なんだ…って、やっと分かった。






*           *           *








 起こさないように注意して寝台の上に降ろすと、ルックは小さく身動ぎした。
「…っん…」
「いいよ、寝てて。おやすみ―――」
 小さく囁きながら、彼の人の乱れた髪をそっと梳く。
 さらさらと指の間を擦り抜ける、色素の薄い髪。
 それが心地いいのか、ルックは口許に軽く笑みを刷いたまま、再び眠りに引き込まれていったようで。小さな寝息だけが、耳許に届く。
「あんまりね、振り回さないでもらいたいんだけど…」
 それを許せるのも、ルック故―――なのではあるんだけど。
 自分がどれだけ人目を惹いているのかなんて、変なところで鈍いこの少年には分かっていないんだろう。
「君は、何で僕がこんなに頻繁にこの城に来てるのか、考えもしない訳?」


    戦争はキライ。

    人の大勢居るところもキライ。

    生命が儚く散っていく戦場も…キライ。


 それなのに…。
「君が居るからだよ?」
 ルックが居るから―――それだけの為に、ここに来る。
 そろそろ気付いてくれてもいいんじゃないか、と思うんだけど。
 いつもの彼からは想像も付かない程、無防備な姿を晒して眠るルックに、ひそっと囁く。
 これが、アルコールの所為じゃなければ、これ以上幸せなことなんてないんだろうけど。
 我知らず、苦笑が浮かぶ。
 ―――いつか。
 君が自分の意志で、その笑顔を見せてくれるといい。
 幸い…というか、時間だけは嫌になるほどたっぷりとあることだし。
「忘れないでね」
 勿論、ルックが聞いてるなんて思ってはいないけど。こういう時でもない限り、こんな風に穏やかに言葉を掛けられないから。
 たまには…こんなことがあってもいいかも知れない。
 僕の前でだけなら―――。
「勝手かも知れないけどね」





 サクラは寝台脇の椅子に腰掛けたまま、コトリと寝台の隅に頭を落とした。
 ルックの、耳をくすぐるような心地よい寝息が、眠気を誘う。

「おやすみ、ルック…」

 そして…ゆっくりと目を閉じた。








...... END
2001.09.25

 何だか…こんなに甘く(?)終わる予定では全くなかったのに…。
 書きたかったのは、笑顔全開のルック♪ 月ノ郷の話にしては、登場人物多いです。
 フリック哀れ? …っていうのかなー。でも、多分この人はこれで幸せだと…。

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