その夜、襲った嵐があった。

翻弄され、奪われ、傷つけられ。



今考えると、阻む方法は幾つかあったのかも知れない。


でも、出来なかった。

そんな事はあり得ない―――と。

そう、無条件なまでに信じきっていた自分が居たから。










最後の楽園 − 凍える刻






「…何、―――何か用?」
 同盟軍の、自分に与えられてある部屋は、酷く居心地が悪い。星の任を解かれるまでの仮の居住まいだと、心の内で思っているからなのかも知れない。
 それでも、こんな夜更けになると戻らざるをえない。いつでも、何があっても対処できるように、体調は万全に整えておかなければならないから。
 それなのに、こんな時間に扉をノックする非常識な訪問者にまで、いちいちお伺いをたててやる。
 半分は厭味込みだけど―――。
 まあ、目の前のこの男には、そんな厭味自体が全く要を成さない気がする。
「やあ、ルック。夜這いに来たよ」
 胡散臭そうな視線をやると、彼―――サクラ・マクドールは楽しそうに微笑った。
「訳解んないこと言ってないで、さっさと休みなよ。明日は向こうに帰るんだろう」
 向こう―――グレッグミンスターのこいつの実家だ。
 何が気に入ったのか、サクラは実家とこの城を行ったり来たりしている。見てるこちらの方が、疲れそうな気がするけど。
「ちゃんと食事と休養を取って、いつでも万全の態勢に整えておけって言ってたの、あんただよ」
 尤も、そう言われたのは3年前だけど…。
 当時、食事も休養も思い出したようにしか取らなかった自分に向けられて言われた言葉。あの時分は、うるさい奴としか思わなかった。
 だけれど、体力のなさは自覚しているから、それなりに守ってはいる。足手まといなんかには、絶対なりたくないから。
 そう言うと、サクラは 「良く覚えてるね」 と苦笑した。
「うん、そうなんだけど…。今日、ここの軍主に遠征付き合わされてて、ルックに会えなかったからね。わざわざ、こんなところまで来て協力してるんだから、それなりのメリットがないとやってられないよ?」
「だったら、何で僕に言うの? 報酬が欲しいなら、ツバキに言いなよ」
「だって、僕の欲しい報酬はルックにしか支払えないよ」
 それとも、ツバキに報酬にルックとキスさせて―――なんて、言っていいの?  心底楽しそうに囁かれ、思い切り眉を顰めてやる。
「何考えてるんだ、冗談じゃないよ」
 こいつの場合、本当にやってくれそうだから始末に負えない。
「じゃあ、いい?」
「〜〜〜っ、いちいち聞くな!」
 頬が熱を持つ。 「いいよ」 なんて台詞、言える訳ないんだから聞かないで欲しい。言えないのが解ってて業と言ってるらしいのは、こいつのその笑みで分かる。凄く悔しいんだけど―――。
 差し出された手が肩に置かれ、その持ち主に必然的に引き寄せられる。俯きそうになる顔を、顎に添えられた指で軽く仰向けさせられた。
 節榑立ってはいるけど意外に細い指が、ゆっくりと唇をなぞり―――。
 しっとりと重ねられた唇は熱く、静かに目を閉じ、その熱を受け入れた。
 そういう行為には嫌悪しか沸かないが、この男とのものなら、微かに羞恥を伴ってはいたが甘受できる自分が居る。
 いつの間にか忍び込んできた舌に、自分のそれを絡み取られ執拗に弄ばれ。
 こんな行為には慣れていない。
 他人と触れ合うこと自体、自分にとって必要だと思ってはいなかったのだから。
 息継ぎさえ上手く出来ず、息苦しさに喘ぐ。
「…ん、っ―――」
 抗議しようにも、喉の奥から発せられるのは、くぐもった声だけで…。男の胸を両の手で押し返すことで、唇の解放を要求する。
 惜しむように…。
 ゆっくりと唇が離れてゆく。
 乱れた呼吸を整えるのに気を取られ、背に回されていた手が、衣の上から優しく我が身を慈しむように撫で上げるのに気付くのが遅れた。
 ―――瞬間、本能的な恐れに身が竦む。
 そんな自分の様子に、サクラは小さく小さく笑みを浮かべ、潤んだ目許に唇で触れてきて。
 そうしながらも、背筋を這う掌の感触はそのままで。
 その手から逃れようと身を捩ると、案外すんなりとそれは離れていった。
「何…、してるのさ」
 喘ぐように口にした抗議と共に、赤く染まっているであろう目でサクラを睨み付ける。
「ルックに触れたいよ」 耳元にひそっと流し込まれた台詞に、一瞬のうちに紅潮する。
「―――欲しいんだ」
「なっ……」
 経験が皆無だとはいえ、言葉の意味くらい分かる。
「何、考えてんのさ!」
 たったひと言ふた言の台詞に狼狽したのを、悟られないよう声を荒げる。自分がそういう点で子供であるらしいのは知っている。だからといって、それを吐露しようとは思わない。
 それに―――。
 これが、サクラ流の言葉遊びの範疇であるらしいのは、彼との少なくない付き合いの中で学んだこと。
 いつもなら、何を考えているのか分からない笑みを浮かべて終わる筈の。
 そう、いつもなら。
「欲しいんだ…」
 何時にない真摯な瞳の色と、切羽詰ったような声音に、ぞくりと何かが背を駆け上がる。
「な…に―――」
「いいよね…、触れても」
 台詞と共に伸ばされた手が、辿り着く直前に。
 考えるより先に、ぴしゃりとそれを叩き落した。
 殆ど無意識のうちのその行動に、そうした本人である自分の方が驚く。
 求めたそれを拒絶され、サクラは口許だけの笑みはそのままに。
 そのまま、笑みの形を取っているのに…。
 実際は、笑ってなどいない事を知っている。
 微かに目を細めて、目の前の男を見る。
 いつもとは違う、全く感情を読み取れないその笑み。
 そんな彼を前にして、言い知れぬ恐怖を覚えた。
「ルックは、……僕を欲しいと思ってくれないの?」
 先程の切羽詰ったような声音とは明らかに違う、全ての感情を削ぎ落としたかのような言い方。
「そん、な事ッ」
 思った事も、考えた事もない。
 確かに、こいつのことは好きなんだと思う。
 触れ合うのも口づけを交わすのも、サクラとならいいのだ。
 受け入れることが出来る。
 それが出来る分、サクラは自分にとって特別。
「……解らないよ」
 彼が特別だということは解る。
 でも、それは―――。
 彼に抱かれたいとか、全てが欲しいとか。そういう事を、思わない程度のモノなのかも知れない。
 けれど―――。
 その想いだけでは駄目なのか。
 そして、怖くなる。
 目の前のこの男が。
 歳は重ねるが、彼の留められた時間は動かない。3年前と同じ姿、同じ声で…。何も変わったようには見えないのに…。それでも、その中身は男なのだ。
「でも……」
 3年前、そして今回の戦争に参加することで学んだこと。
 言いたいことは口にしなければ伝わらない―――。
「君の言う意味でなら、僕は君を必要としない」
 サクラの瞳を見つめ、ハッキリそう告げる。
 刹那―――。
 彼の顔が痛ましげに歪み、暗い影が落ちた。それを目の当たりにし、ズキッと小さく胸が痛む。
 こんな表情をさせたい訳ではない。傷つけたい訳ではない、のに。
「ひとつ、聞いていい?」
「何……」
「なら…僕は、君の何?」
 サクラのその台詞に。躰が鼓動が……瞬時、ぴたりと停止する。


 ボクハ、キミノナニ?


 でも、その質問以上に自分を躊躇させたのは、サクラのその瞳だった。必死で何かに縋り付くような、寂しい色をしていた。
 その瞳の中に、彼の深淵を覗き込んだようで、心が躰が竦む。
 自分がそういう状況に弱いことを、ルックは知っている。
 その為に、常に他人を牽制しているのだ。引き摺られないよう、引き込まれないよう。それで、大抵の人々は自分を避けるようになる。誰だって、不必要に傷つきたくはないから。
 けれど…サクラは違う。
 何の警戒もせずに、近付き触れてくる。自分の弱点を知ってか知らずか、確実にそこを突いてくる。
「―――何?」
 再び繰り返される問い。傷つき、疲れ切ったサクラの心が、答えを待っていた。
 彼がどんな答えを欲しているのか…。
 その彼に、自分がどんな答えを返すのか…。
 普段なら考えることさえしないだろうそれらに、思考が浚われる。
 その一瞬の隙を突いたように―――痛いほどに抱き締められ、口づけられた。
 驚いて、抗うように胸元を押し返す腕を容易く捕らわれ。
「ルックは、答え考えてて…」
 言われ、答えを返せない後ろめたさに、抗う力さえ奪われ。
 縋り付くように求めてくるその腕を。
 もはや、拒みことさえ出来ず―――。
「卑怯だって解ってる……それでも、僕はルックが欲しいんだよ」






 泣きたくなった。


 ―――こんな想いはいらない!



 そう思う心とは裏腹に、自分を浚っていこうとする熱に。
 徐々に意識さえも懐柔されていく。





 そして、嵐は至る。

 この身に、彼の上に―――。




 この嵐は、終結なのか。
 それとも、序章なのか。










+     +     +










壊れてしまうと思った。

自分ではない他人に、壊されてしまう―――と。

それは恐怖であったのか。それとも、安らぎであったのか。





―――それもいいかも知れない。

そう、一瞬でも感じた自分が居た。

普段の自分ならば、絶対に甘受し得ないであろう感情に、
微かながら笑みが浮かぶ。





あぁ、もしかしたら…自分はずっとそれを望んでいたのかも知れない。








...... END
2001.05.31

BACK