心の中に荒ぶるその想いを抑える術がなく。 最後の楽園 − いてゆるむ月 「……出て…って」 囁くような掠れた声で言われ、腕の中に抱き込んだ彼の顔を上から覗き込む。 「…ルック?」 色を無くした白磁の面に、彼の名を呼ぶ。そうすると、固く閉じられた瞼がぴくりと微かに震えた。 酷い事をしたと思う。 何も知らない、誰も受け入れたことのない躰には、耐え難い行為だったろうと…。 それでも―――。 「ルック」 後悔はしていない。欲しかったのだ、この腕の中の少年が。 「ルック―――」 何度目か名を呼ぶと、ゆっくりと瞼が開かれ、そのうちに隠されていた翡翠の瞳が露になる。 潤んだ瞳が思いの外強い意思を持って、自分を見上げてくるのをじっと見つめる。 その、綺麗な瞳に自分が映される。 その瞬間―――。 彼の瞳に自分が映る瞬間、胸が高鳴る。 「出て行って」 掠れた声のまま、存外強い口調で言われた。 「―――ルック」 「出て行って! 名前も…呼ばないで」 「ルック…」 「―――! お、願いだから…」 悲鳴を思わせる懇願。 逸らされる視線。 震える声に、彼が泣いているのかと思った。 けれど…彼の面を窺うと、散々泣かした所為で瞼は腫れているものの、涙はなかった。泣かない瞳に、胸が痛む。 泣いててくれたら…。ずっと抱き締めていられるのに―――。 ゆっくりと、腕の中の温もりを解放する。 驚かさないようにやったつもりだったのに、やっぱり怖がらせたみたいで。その躰がぴくりと小さく震えた。そうして、一層小さく丸まる。 「……ック」 「………出て行って」 何度も繰り返されるその台詞は、サクラという人間の存在を、必死で排除しようとしているようだった。 本当は、離れたくないのに―――。 ルックのその小さな躰いっぱいの強い拒絶に、何も言えなくなる。 するりと寝台を抜け出し、散乱した衣服を纏う。その衣擦れの音だけが、静かな部屋を乱す。 最早、掛ける言葉も浮かばず。 でも、立ち去り難くて―――。 寝台の真横に立ったまま、いつまでも小さく丸まっているルックを見下ろす。 「……後悔は、してないんだ。でも…酷いことをした…」 「謝らないで!」 サクラの言葉尻を奪うように、強い口調の声が重なる。 「謝らないでよ―――。謝っても許してあげないし、そうする事で気を休めさせてあげたりしない。無かったことになんて、絶対させない。君の中で、勝手に完結させるなんて…! 許せない」 一気にそこまで捲くし立てると、疲れたように小さく喘いだ。 「だから、…謝罪なんて必要ない」 「……分かった」 そう答えるしか、ない。今の自分に、他に何と言えるというのか。 部屋を後にしようと、扉の把手に手を掛けたところで、 「―――ひとつ、教えて欲しいんだけど…」 部屋の主の静かな声が、自分を引き止めた。 振り返ったのが解ったのか、寝台の上でルックは気だるげに言葉を繋ぐ。 「明日……。僕は君とどんな顔して会えばいい?」 「―――いつも通りでいいよ」 「そう……」 吐息と共に、小さく返される。 「だったら…、明日は僕の前には現れないで」 それが、傷付いた心と躰を必死で守ろうとする為だと解る。 守ってあげたい、と思っていたのに。 傷付けてしまった自分には、それは叶わないから。 「―――そうだね」 微笑んでさえ見せる。 「明日は、石板には近付かないようにするよ」 傷付けてしまった自分が、寂しいと感じるのは傲慢だと分かっている。 そうしたのは、…させたのは、他ならぬ自分自身なのだから。 閉じた扉の向こう―――。 泣いていなければいい。 苦しんでなければいい―――と。 ……考えながら。把手から手を離すことが出来ない。 傷付けてしまった心と躰を少しでも休めることが出来ればいい―――。 ただ、それだけが…今の望み。 自分の身に、この呪われた紋章が在る限り―――。 いつも通りの石板の前。 いつも通りに、風の魔法術師が静かに佇むその場所。 顔を出すと、彼の表情が強張った。それから何を思ったのか、小さく舌打ちをし、あからさまなまでに憮然とした面になる。 「昨日、……ここには来ないって言ったなかった?」 本当に不本意そうなその顔。それでも、言葉を掛けられた事が、嬉しくて。 「うん、そうなんだけど―――。熱、出したって聞いたから。―――お見舞い」 「……誰の所為だと思ってるの」 小さく呟く。いつもなら、勢い良く投げつけられるだろうその台詞は、内容の為か…もしくは常に人通りが絶えることのないホールという場所故か、囁き程度にしか紡がれない。 「うん、僕の所為だよね。だから、お見舞いに来たんだ」 「……もう、平気だよ。ホウアン先生に薬調合してもらったから。心配させて悪かったね」 切り上げ口調で言われる。 彼はまだ当然怒っているだろうし、羞恥も感じているんだと思う。昨日の今日で、顔を付き合わせるのに躊躇いもある筈だ。 それでも―――。 朝、遠目に彼の姿を見てから戻ろう、と思って。その、彼のいつもの定置を窺うと。 その場に居る筈の彼は居なくて…。 一瞬、血の気が引いていく感覚を覚えた。 それは、感覚というより恐怖そのもの。 「……心配…したんだ。君は僕の近しい人だから―――」 この身に呪われた紋章が在る限り……。 近しい人の魂を喰うのでは、といった恐怖は常にあるから。 こいつの次の獲物が、ルックだったらどうしよう―――と。 眉間に皺を寄せたルックの視線が、呆れたような色合いを浮かべる。 「相変わらず、つまんない事考えてるんだね」 本当につまらないといった感じのその物言いに、ちょっとムッとするけど、 「―――僕は死なない。君なんかが宿主でいられる程度の紋章に、僕が喰われる訳ないだろ」 いっそきっぱりと言って退けるルックに、怒るより感心してしまう。 「そう…なんだ……」 「何、今更言ってんのさ」 馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、やっぱり馬鹿なんだ―――と、あまりと言えばあまりな結論を頂いた。でも、彼に馬鹿と言って貰えて、こんなに嬉しいと感じるのは何故なんだろう。 嬉しくて、そのままの笑顔を浮かべたら、目の前の少年の面からすっと表情が掻き消えた。 「…それはそうと、僕はまだ怒ってるんだけど…?」 「あぁ、うん。当然そうだよね」 「………怒ってる、って言ってるんだからその顔やめなよ。むかつくし」 眉間の皺が一層深くなってて、本当に不機嫌そうなのが窺える。 神妙な顔つきをしてみたけど、表面だけなのが伝わったようで、眉間の皺はそのままに小さく溜め息を零した。 「結局、昨日のアレは甘えだったんだ」 溜め息混じりに呟かれた言葉に、唖然としてしまう。 「ルック…?」 いいんだけどね―――と。 「自分の恐怖や不安を持て余して、情緒不安定になるのは仕方ないけど、その矛先をこっちに向けるのはやめてくれない?」 辛辣な言葉。だけど、それがルックらしくてホッとする。 「…あれは―――」 言いよどむと、珍しくルックの方が視線を逸らせた。 白い頬に朱がのっていて…それどころではないのに、あぁ、綺麗だななどと見惚れてしまう。 「僕は―――っ!」 「ルック?」 「僕は……君のことは嫌いじゃないよ、多分ね…? でも…だからこそ、昨日の事は許せないし言った事は撤回しない」 揺れる瞳に、ルックの躊躇いが垣間見える。 殴られても罵倒されても仕方ない程のことを、やったという自覚がある。 それなのに―――。 許さないと言いながらも、辛辣な物言いながらも…。 それでも、彼の言葉は優しくて。 その不器用さに隠されてしまう優しさが、3年前から全然変わっていなくて。 「うん―――」 多分、3年前のあの日から……。 ようやく、穏やかな笑みを浮かべられただろうと思う。 「ルックはそれでいい」 己の意思とは関係なく、他人の人生を変えてしまう恐れのある自分が、激情に翻弄されて傷付けてしまったこの少年を変えることがなかったという事実。 それが、ただ嬉しかった。 きっと、自分はこの綺麗で生意気な少年に、どこかで憧れていたのだ。 それは、時折彼が見せる強さの所為かも知れない。 抱き締めたら、腕の中にすっぽりと収まってしまうくらい、小さくて儚いのに…。 どうして、こんなにも強く在れるんだろう―――。 ずっと、そう考えてた。 暫く見つめたまま思考していたら、 「何さ」 と、不躾な視線に抗議を示すように、目で問われた。 「ルック―――」 名前を呼んだけど、それでも視線だけで先を促されて、思わず苦笑してしまう。 「……答えを、くれる?」 「―――?」 「答えだよ。夕べの……」 キッと、ルックは目許を赤くして睨み付けてくる。 「可愛いよね、ルックって」 「……切り裂かれたいの?」 ひんやりとした冷たささえも感じさせるその声音に、これ以上からかうのはやめておく。 今、確かめたいのはそんなことじゃないから。 「夕べ、僕が君に聞いたよね。"僕は君の何?"って」 ゆっくりとした瞬きで隠された翡翠の瞳が、微かな戸惑いの色を乗せて、再び自分に向けられた。 そんな途方に暮れたような表情を見せられるくらいなら…。 どうでもいい問いの答えなら…。 ―――要らないと、言ってあげられるんだけど。 引き込まれそうな程に澄んだその瞳が、例えどんなに戸惑っていたとしても、その答えが欲しいから。 「答え、くれる?」 僕は君の何なのか―――。 多分、ルックには酷く難しい質問だろう。 でも…知りたいから。 「ルック―――?」 君は…僕の欲しい答えをくれる? 「そんなの……解んないよ」 途方に暮れた表情のまま、さらりと言う。 「友人とか恋人とか戦友とか、言葉で括って欲しいんなら、いくらでもそうしてあげるよ。でも、君の欲しい答えはそんなんじゃないんだろ? ―――そもそも、そんな質問無意味だよ」 強い視線は逸らさずに、ずっと僕を見つめたまま淡々と言ってのけて。 「……無意味―――って、どうして?」 「だって、答えなんか出ないよ。欲しかったのは、それじゃないだろ」 見透かすように、目を細める。 「…………………っ」 ……何で、彼には分かってしまうんだろう。僕自身でさえ、はっきりとは認識してなかったのに。 ルックに言われて、初めて気付いた。 そう、本当に欲しかったのは、答えなんかじゃない。 本当に欲しかったのは、君が僕の事しか考えられなくなる時間。 他の事なんか、何も頭のなかに浮かばなくなるくらい、君の中が僕という人間で埋め尽くされるその瞬間―――。 それが、欲しかったんだ。 「ルックって凄いね」 微笑みながら言うと、 「あんたに言われても、全然嬉しくない」 と、一蹴された。 「ルック……。もしかして、僕のこと嫌い?」 「嫌いじゃないって言ったよ。……多分、だけど」 「…何か、あんまり嬉しくない……」 いちいち 『多分』 なんて単語を付けなくったっていいのに、と思う。 「昨日の夜までは、 『多分』 なんて単語付いてなかったよ」 ルックは憮然とした面持ちで、辛辣に言う。 「―――自業自得だよ」 と。 あまりに尤もな言い分に、何も言葉が返せない。 全ては、自分の忍耐力の無さが原因なのだから。後悔はしてないとはいえ、ルックの想いが離れていったのでは本末転倒なのではないか。 「あんたって―――ある意味凄い奴なんだと思うよ?」 溜め息混じりの呟きに、ルックの面を窺うと、殆ど呆れたようなその表情。 あれだけの事を仕出かしといて、それでも、相手の想いまでをも手に入れたいなんて―――。 「普通は思わないよ?」 というか、思えないだろう。 「そうかもね。でも、誰にだって、絶対に失えないモノってあるじゃない? 僕の場合、それが君だった、ってだけなんだけど」 「相手の気持ちも考えないで、自分の気持ちだけを押し付けるの?」 だったら、僕の気持ちなんて必要ないよね。 「ルック……」 そう言われても仕方ない、―――言われて当然のことをしたんだけど…。 思わず情けない顔をしたであろう自分に、ルックは溜め息を吐き、両腕を胸の前に組みながら言う。 「本っ当に、馬鹿だよね」 そうなんだけど…。確かにそういう自覚はあるんだけど…。でも、それがルックが絡んでる時に限って―――ってことに気付いて欲しいな…なんて思ってしまうんだけど。 聡いのかそうじゃないのか、未だに把握出来ないこの少年には、ちょっと無理かもしれない。 「あんまり、甘やかしたくはないんだけど………」 一端何かを言いかけて口を噤んだ。 そうする事が珍しくて、目の前の綺麗な―――という形容がぴったりの少年の顔を覗き込む。 「何―――?」 「………仕方ないから、側に居させてあげるよ」 「―――――――はっ?」 さぞかし、びっくりした顔をしてたんだと思う。「ルック……?」 恐る恐る声を掛けると、ルックは自分で言った言葉に真っ赤になって、矢継ぎ早に言を繋ぐ。 「―――仕方なく!だよ。…だって、あんたって馬鹿なんだから…」 「うん…」 「僕が飽きるまで、……側に居てもいいよ」 「…うん、有り難う」 「仕方なく!だから、お礼なんて要らない」 真っ赤な顔をしたまま、そっぽを向く。 自分が結構凄いことを言ってる―――って、解ってるんだろうか。 他の誰にも与えないその場所を、僕の為に空けておいてくれる…って。 「うん、でも…嬉しいから」 ルックがお礼とか謝罪とか…そういうことを言われるのを苦手にしてるってことぐらい知ってる。 ―――でも。 彼がくれるそのひと言が…、その心が何より嬉しくて。 「有り難う―――」 「…そんなこと、どうでもいいけど。そろそろ帰らないと、あんたの付き人が心配するよ」 「うん、そうだろうね。でも…」 「―――何さ」 「今日は、ずっとルックの側に居たいな」 「何…言って―――」 「居させてくれるんだよね?」 にっこり笑って見せると、ルックはキッと睨み付けてきた。頬とか首筋とか、真っ赤にしてそうされたって…可愛いだけなんだけど…。 「…好き、にすれば!」 「うん、じゃあ、側に居る」 君の側に…。僕にだけ与えられた、その場所に。 「本当、あんたっていい性格してるよ」 吐息混じりに呟く。 ルックに言われると、かなりくりものがあったけど…。でも、それでも幸せだから。無いものねだりする程、子供じゃないけど。今、やっぱり君はここに、僕の側に居てくれてるから―――。 「言っとくけど、居させてあげるだけだからね」 「えっ!」 その台詞に、思わず不満の声をあげると、 「……君、懲りてないの?」 思い切り睨み付けられた。 「懲りるわけないよ? 反省ならしてるけど…。初めてだったみたいなのに、もっと優しくしてあげれば良かったな、とか。じっくり時間掛けて気持ち良くしてあげれば良かった…とか?」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」 人目があり過ぎるホールという場所柄か、大声であからさまな抗議はされなかったけど。 その強い自制心に、思わず敬意さえ感じてしまう。 「―――――もう! 飽きたから側に来ないで!」 多分、もうこれ以上赤くなれないんじゃないかって思える程に赤くなって。 言うだけ言って、思い切り視線を逸らせた。 「ルック?」 「―――側に来るな! どっか行ってよ!」 昨日言われた台詞と同じなんだけど…。意味は同じでも、それに含まれる意味合いは全く違うから。 「笑ってないで!」 嬉しくて、いつまでも途絶えない笑み。 見ていなくてもそれが伝わるのか、ルックは嫌そうに眉を顰める。 それでも、そこに居てくれる。 ―――どんなに怒っていてもいい。 ―――どんなに呆れていてもいい。 側に居てくれてさえいればいい。 + + + 例えば―――。 それは何でもないひと言だったり。 僕にだけ向けられた視線だったりするんだけど。 そのどれもが哀しいほど愛しくて、痛みさえ覚えてしまうほどに優しくて。 君の存在そのものが……。 僕の凍りついた心を、いとも簡単に溶かしてゆく。 その度に―――。 僕のなかの君が……溢れだす。 ...... END |