最後の楽園 − 夜のかけら ―――月が出ていた。 青白い、静謐さを漂わせるソレ。 窓から注ぎ込む月の光が、灯火のない部屋の中を白く浮かび上がらせる。 "じいちゃんが死んだのも、こんな夜だった。ナナミも―――?" 頬を伝うのが何なのか…。 何も考えることが出来なくて―――。 ゆっくりと瞼を落とした。 躊躇いがちに扉を叩く音に、ふっとそちらの方に視線を向けた。 微かに軋む音と共に、影がひとつ扉の隙間から覗く。 「…ツバキさん、起きていますか」 ひそっと囁くように掛けられた言葉に、その相手が誰なのか解り、寝台の上に身を起こした。 「―――ホウアン先生?」 「具合はいかがですか?」 ほっとした感じの声音。 「もう、大丈夫です」 「あまり、無理なさらないでいいんですよ。きついならきついと―――」 「…平気です」 返した言葉に何か感じたのか、ホウアン先生は微かに目を細める。 「本当に、平気ですから…」 今、一番側にいて欲しくない人、かも知れない。ナナミの最期を看取った…この人は。 ナナミが死んだのは、この人の所為ではないのに。憤りの持って行き場がなくって、何もかもをぶつけてしまいそうになる。 「では、誰か側に居て欲しい人は居ませんか?」 「……誰か?」 「今、貴方が一番側に居て欲しいと思っている方を」 「―――側に? 居てくれるひと……?」 「ええ、少しでも気持ちが穏やかでいられるように」 「……側に居て欲しい、ひと?」 ホウアン先生はいつものように穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。 「いらっしゃいますか?」 「………」 言っていいんだろうか。 ―――彼の名前を。 彼は嫌がるかもしれないけど。 今、側に居て欲しいのは。 ホウアン先生を見上げると、ひとつこくんと頷いてくれて。 言っても…いいのかもしれない。 「……呼んできて…もらえますか?」 ―――彼を…。 ホウアン先生に言われて、渋々来たんであろうその彼は、扉を開けるとともに、 「何か用―――?」 いつもの台詞で問い掛けてきた。 常と変わらないその台詞に、ほっとする。いつでも…こんな時でさえ変わらないルックの態度が嬉しい。 「…大丈夫そうだね」 微かに目を細めて、確認するように問い掛けてくる。 「皆、心配してたみたいだけど」 「―――そう」 心配してくれてるのは解ってる。僕のことを思っての心配だってことも、ちゃんと解ってる。 だけど……今、その思いは欲しくない。 誰も彼も、痛ましそうに僕を見る。腫れ物にでも触るように接してくる。 そんなもの―――。 うるさくて、見ていたくなくて、叫び出したくなる。 「ルックは……」 この綺麗な風使いの魔法術師は、どうなんだろうか。 「ルックも僕のこと、心配してる?」 問うと、心底呆れたように眉を寄せる。 「心配―――して欲しいの?」 「…………」 どうなんだろう。ただ、聞いてみたかっただけのような気もする。 「……よく、解らないや」 意識したわけじゃないのに、小さく笑みが出る。 ルックの眉間の皺が微かに深まって。 「そんな顔して笑うんなら、少しだけ心配してあげてもいいよ」 驚いてルックの顔を凝視すると、つまらなそうな顔つきで…それでも、微かに耳朶が朱く染まっていて。 「……うん」 ルックの心配は痛くない。 その感情を押し付けて来ないから。 優しくってほっとする。 「泣きたいときは泣いてもいいと思うけど…。慰めるなんて芸当、できないからね」 そのルックの台詞で、初めて自分が泣いてることに気付いた。 ずっと、泣かないって誓っていたのに…。ジョウイを取り戻して、ナナミと一緒に三人でキャロの街に戻るまでは、絶対に泣かない―――って。 あぁ、でも、もういいのかな。 ジョウイは、ナナミが倒れても…それでも戻っては来なかった。 ナナミはひとりで―――たったひとりで逝ってしまった。 もう…戻れないんだから。三人には二度と―――。 そうとはっきり認識したら、涙が止まらなくなった。涙腺が壊れてしまったんじゃないかと思うくらい涙が溢れてきて…。 子供みたいに泣きじゃくった。 宣言通り、ルックは慰めてなんてくれなかったけど…。それでも傍に居てくれたから。 独りだったら…。 きっと、こんな風には泣けなかった。 自分が誰かの星のひとつで―――。 替えがきかない存在だとしたら…それは重みにはならないんだろうか。 「ルックは…」 ―――ルックもそういう風に思ってる? 泣き腫らした目は、きっと赤いだろう。明日には腫れてるかも知れない…。けど―――今はそんなことどうでもいい。問われた本人は、ゆっくりと瞬きをひとつした。 そして、ゆっくりと口を開く。 「又、―――突然な話題だね…」 まあ、突然の話題転換はあんたの得意とするところだけど? ―――等と揶揄しながらも、どうやらやっと腰を落ち着けて話をしてくれる気になったのか、側にあった椅子に座ってくれる。 「僕はね、いいんだ。僕は僕の為にそれを利用できるからね」 「利用…って」 ―――何? 「君には関係ないよ」 冷たい言葉。綺麗な瞳でさらりと告げる。まるで、何でもないことみたいに。 でも…。 「じゃあ、僕の星のひとつで少しでも良かったって、思ってくれてる?」 返された訝しげな瞳の色に、恥ずかしいこと言ったかなとも思ったけど。それは、ずっと聞いてみたいと思っていたことだから。 ルックは綺麗な面に、うっすらと笑みを浮かべる。 「さぁ、どうかな」 見惚れてしまう。こんなに目を、心を惹くモノがあるんだ…と初めて知る。 暫しの間ぼーっとしてたらしく、あからさまな視線にルックの微笑が波が引くように収められた。 「……意地悪」 いろんな意味で。 「今更だよ、ツバキ」 名を呼んでもらえて嬉しくなる。いつも話しをしているときは、 「あんた」 とか 「君」 とかで、名前を呼んでくれることなんて滅多にないから。彼のなかに自分は確かに在るんだ、って安心できる。 あぁ、懐いてしまいたい。 『ルックの傍が良いよ』 居心地が良くてホッとする。 普段の彼の素っ気ない物言いからは、全然想像も出来ないけど。 僕がそう言うと、ナナミは決まって訝しげな表情になってたっけ。 だけど、そんなの全然気にならなかった。 だって…本当のことだったから。 何でなのかなんて、その時は全然解らなかったんだけど。 余計なこと言わないから―――。 サクラさんはそう言っていた。 変な詮索はしない。 厭味は言うけど、嘘は言わない。 その場限りの慰めは言わない。 そんな言葉や態度には出さない優しさが、ちゃんと伝わってくるから。 本当に傍に居て欲しいときには、何や彼や言いながらも居てくれるから。 ルックの傍に居ると、穏やかに時間が流れていくから。 ずっと、ずっと傍に居て欲しい。 サクラさんに叱られるかな…。ひそっと言うと、ルックが嫌そうに眉を寄せた。 「そこで、何でアイツの名前が出てくる訳?」 「サクラさんに言われたんだ。ルックはサクラさんのだから、触らないでね…って」 『取らないで』 ではなく、 『触らないで』 という台詞がいかにもサクラさんらしいと思う。 ルックの眉間の皺が深くなる。 「…言っておくけど、僕は誰のモノでもないし、誰のモノにもならないよ。僕は僕のモノだから」 凄くルックらしい台詞。 開かれた窓から、思い出したように風が吹き込む。その所為で乱れた髪をかきあげると、細い指の間からさらさらと色素の薄い髪が零れ落ちた。そんな仕種にも一々見取れてしまう。末期症状かもしれない…なんて、他人事みたいに考える。 「でも、誰かにそういう風に言わせるの…って、凄いと思うんだけど…」 「?」 「それだけ想われてるって事だよね? 自分のモノだって、思い込みたいほどに。誰にも渡せない―――って」 「…何? 君は誰かのモノになりたいの?」 呆れ三割り増しプラス溜息込みで言われて。 「えっ…いや、違うよ。そこまで想われてみたいとは思ったけど…」 サクラさん程の相手になら。 だって、僕の知る人のなかであの人程に、人間的な器の大きな人は居ない…と、思う。 ―――でも、どうせ同じ想われるんなら……。 目の前の綺麗な魔法術師を見る。 どうせ同じ想われるんなら、可能性は全く無いかもしれないけど―――ルックがいい。 だって、こんなに胸がドキドキしてる。側に居てくれて、嬉しいと感じる。 「くだらない……」 小さく吐息を吐き、呆れたように言う。 「…そうかなぁ」 本当に―――。 本当にルックは知らないんだろうか…。 例えば……、遠征から帰ってきた時。 ルックの顔を見て、ほっとしたように綻ぶサクラさんの顔を。 ちゃんとルックの無事な様を見届けてから、トランに帰ってる…ってこととか。 彼の人を迎えに行くパーティの中にルックを認めた時、その姿に嬉しそうに目を細めてる一瞬とか。 僕でさえ気付いてしまうのに…? 僕の沈黙をどう受け取ったのか。 「想ってくれる人にもよる、とか思わない? 君はアイツのことを崇拝してるらしいけど、僕に言わせるととんでもないね。アイツに本気で想われてる人には、僕でも同情するよ」 「………」 本当に解ってないんだろうか……。 あんな風に見られてて、特別の顔を向けられてて―――本当に気付いてないんだとしたら…。 もの凄い鈍感だと思うんだけど……。 「…熱、又上がったの?」 ぼーっとしてたら、ルックに問われた。額にひんやりと冷たい掌が、押し当てられて。 「…うん、そうかも―――」 「もう、寝なよ」 素っ気ないのに、優しい言葉。優しすぎて、胸が痛い。 胸が痛くて、苦しい。 「ねえ、ルック」 なに―――と、瞳で先を促される。 言って…いいんだろうか。言ってしまったら、もう側に居てはくれないかもしれない。 お得意の魔法で、転移してしまうかもしれない。 それは、嫌かもしれない。折角、ここにこうして居てくれてるのに―――。 その事自体が、奇跡のようだと感じてたりするのに。 だけど―――伝えたいことがある。 「僕は、ルックが僕の星のひとつで居てくれて良かったよ。だって、こうして会えたんだから…」 案の定、ルックが小さく眉間に皺を寄せる。 「男に言う台詞じゃないよ」 言い聞かせるみたいに言われて。 「―――うん。でも、ルックには知ってて欲しかったから」 「…そんなこと、知ってるよ」 何だか、びっくりしてしまったけど。ゆうるりと何かに意識が絡み取られていくみたいな感覚が、それを面に出させることなく押さえ込んで。 「……そう、なんだ。良かった―――」 「いいから、もう寝なって。寝つくまで、ここに居てあげるよ。―――仕事に戻れないじゃない」 「……う…ん」 寝てしまうのが、勿体無いような気がするけど…。 「お休み―――、ツバキ」 穏やかで優しい声音。 どこまでも、どこまでも…。 緩やかに意識を包み込んでくれる、その響きに―――。 ……ゆっくりと身を委ねた。 + + + ゆっくり、お休み…。 今だけは―――何もかも忘れて。 話し相手は無理だよと言うと、それでもいいよと答えられ。 側に居て欲しいだけなんだ…と。そこまで言われて、断れなくなった。 素直な瞳で会えて良かった―――なんて言われて…。複雑な思いがした。 何でも思ったことを素直に口に出せるツバキを、ほんの少し羨ましいと思う。 自分には決して出来ないだろうから。 ―――したいとも思わないけど。 こいつは―――。 傷ついているだろうに、それを他人に見せない強さと、常に前だけを見ていられるしたたかさを持っているから、明日の朝にはいつもと変わらない笑顔を皆に見せるんだろう。 ツバキも―――。 真の紋章を持つのだろうか……。 完成していない紋章。 その紋章が、真の姿を現すのは―――。 ―――その後でも、ツバキはツバキのままだろうか。 無邪気なその笑顔で、笑って居られるだろうか。 そうであれば―――いい。 穏やかな寝息が耳許へ届くようになったのを確かめ、ルックは小さく吐息を吐く。 "全く…、適材適所って言葉を知らないのか" こういう役割は、自分向きではないだろう。疲れたように、それでも物音を立てないように寝台脇に置かれていた椅子から立ち上がる。 立ち去ろうとして、もう一度ツバキの寝顔を眺めた。まだ幾分顔色は悪いが、眠りは深いようだ。 この様子なら、朝まで起きることはないと思う。 ちゃんと睡眠を取れば、体力の方は回復するだろうけど…。 恐らく他人には想像も付かないほどに、深く傷付いているだろう心の方までは…解らない。 "そっちの方までは面倒みきれないよ" 扉を開けずに転移することにしたのは、やっと寝ついたツバキを起こしたくなかったから。 一端、扉の外に出て、ふっと何かに気付いたように頭上に視線を巡らせたルックは、屋上へ続く階段へと足を向けた。 「……呼んだ?」 風の吹かない所為か、今夜の月は雲に遮られることもなくその明るさを誇示するかのように、淡々と青白く輝く。 ―――その月光の下。 ルックは自分を呼んだその相手を認め小さく舌打ちをすると、溜め息混じりにそう尋ねた。 「気付いてくれたんだ?」 楽しそうに言う相手―――サクラに、ルックは思い切り渋面を作ってみせる。 「気付かないわけないよ」 あんな風に紋章を媒介に呼びかけられて……気付くな、という方に無理がある。 「君の新しい天魁星の様子はどう?」 「寝たよ。でも、……何だかその台詞、むかつくんだけど」 刺々しさをも漂わせるルックの声音に、サクラはにっこりと笑みを返した。 「ルック、ツバキには優しいよね」 「―――はぁ?」 「自覚無い?」 ルックのきょとんとした面に、サクラは呆れたように言う。 「3年前の僕の時とは、大違いだよ」 「だって、アイツひとりじゃない」 ナナミを亡くした今、ツバキの側には誰も居ない。彼が欲した全ての人が……。 ―――誰、ひとりとして。 輝く盾の紋章は、本来なら護る為のものである筈なのに…。 護るべきものを失ってゆく彼を、少しくらいなら甘やかしてあげてもいい―――と。 「彼なら…大丈夫だよ。君や僕なんかより、よっぽど強いんじゃないかと思うけど?」 「そんなの解ってるよ」 ―――故の天魁星なのだ。 「君が言うには、僕の天魁星らしいからね。放っておく訳にもいかないだろ」 ここまできて、今までの仕事を無駄にするなんて……、それこそ冗談ではない。 そう、これは仕事なのだ。自分の目的を果たす為の礎に成るべき。 ツバキの星のひとつとはいえ、あくまでも自分はその行く先を見届ける傍観者でなければならない。 共に流される訳には…いかない。 「ルック―――誘ってるの?」 「…はぁ?」 「真剣に考え込んでるルックの顔って、かなりそそられるんだけど」 思考を無理やり中断させられ。…おまけに、とんでもない台詞を楽しそうに呟かれて、ルックは頬を紅潮させる。 「―――! 又、君は!」 何故、こんな風な台詞が、恥ずかし気もなく口に出来るのか。ルックには理解できない。 今直ぐにツバキを叩き起こし、 「ほら、こういう奴なんだよ」 と、本性を暴き立ててやりたくなる。 多分、言ってる本人にしてみれば、他愛もないやり取りなのだろうけど。 本当は……。 何度もそうされているのに、いつまでたってもそれに慣れずに、取り乱してる自分が一番嫌だ。 いや、慣れる必要など全くないのだけど。 「…いい加減、人からかうのやめなよ」 頬に朱みを残したまま、うんざりしたように言うルックに、サクラは心外だなーと微笑む。 「僕はいつも本気だけど―――?」 「どこが!」 「少なくとも、ルックに関してはね」 「だから、そういう誤解されそうな言い方、やめなっていつも言ってるよね」 ツバキも誤解してたよ。 「ツバキに誤解されるのが嫌なの?」 「あんたね、何が言いたいの」 「―――ツバキは、君に執着してるよね」 「………はぁ?」 突然の話題転換に、何とも間の抜けた問い返しをしてしまう。 「誰が―――、誰に何だって?」 「ツバキだよ。君を呼んで欲しいって言ったの、彼だよね」 場合が場合じゃなきゃ、許さないところなんだけど。等と物騒な言葉を吐き、穏やかに笑む。言葉と表情のギャップが彼らしく、ルックは小さく嘆息する。 「…何であんたの許可求めなきゃなんないのさ」 本気で頭を抱えたくなる。他人に束縛されるなんて、冗談じゃない。 「大体ね―――、」 ふっと、言い掛けた言葉が途切れる。 微かに何かが耳を掠めて…。 "……ック…こ―――?" 何かが―――誰かが、呼んでいる? 幼子が親を、必死で求めるようなその声が…。 "…ルック―――、どこ?" 微かに微かに鼓膜に触れる。 「君の天魁星だね」 サクラに言われるまでもなく、気付いてはいたのだけれど。 「思ったより、繊細なんだ…」 ルックは、いかにも面倒臭そうに呟く。 そんな風には、全然見えないのに。 思わず溜め息が零れる。 「呼んでるよ、君の天魁星が」 「……解ってる、よ」 行かなくてはならない。 彼の自分を呼ぶ声が、胸に痛いから。 他の誰を呼ぶこともなく、自分の名を呼ぶから。 けれど―――。 月の光の中に佇み、じっと静かに自分を見つめているその人を…。置いて行ってはいけない気がする。 「明日朝一番に、グレッグミンスターに帰るから」 「―――サクラ?」 "ルック―――" 風のない今日のような日には。 それによって消されることもなく、ツバキの自分の名を呼ぶ声がはっきりとルックに届けられて。自分が呼んだサクラの名に被さるように、耳を掠めた。 ほんの一瞬、サクラから意識が逸れる。 「呼んでるよ?」 いつもと同じにどこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべているのに…。 彼のその瞳は笑ってなくて。 ツバキの痛みに引きずられて―――彼の心の悲鳴が聞こえるような気がする。 「今のツバキには、あんたの方が必要だと思うんだけど」 「…そうだね、けど―――。今の彼の傍には居たくないよ?」 それは紛れもなく他人の痛みの筈なのに。未だに塞がることのないサクラの傷口を刺激してやまないから。 「行きなよ、ルック」 彼の…サクラのその台詞が、 「行くな」 と聞こえる。その所為で躊躇うルックに、サクラは綺麗に笑ってみせる。 「今の君の天魁星は彼だよ?」 「解ってるから、」 だから……。そんな瞳で笑わないで。捕らえられて、動けなくなるから。 君の瞳は、その台詞とは裏腹に、離れる事を望んではいないのに。 それでも―――。 「…………っ、もう…行くよ」 「うん、ルック。おやすみ―――」 君の瞳がどんなに傷付いた色を乗せていても…。 今の僕には他の選択は許されていないから。 「おやすみ、サクラ」 風を呼ぶ。この身に纏い―――転移する。 今の僕は、君の側に居てあげられないから。 自分自身がどんなにそれを望んでいたとしても。 音もなくその部屋を訪ねると、寝台を抜け出したツバキは白い夜着のまま、開け放たれた窓辺から月を見上げていた。 「―――何か用?」 唐突な訪問に気付いた様子のない部屋の主に、いつも通りに声を掛けると、その小さな躰がびくりと震え―――振り返った。 唖然とした風情のツバキを前に、ルックは表情を変えることもなく自らの天魁星を見つめる。 「―――来て…くれたの…?」 「呼んだじゃない」 半ば呆れてそう返すと、ツバキはどこかぎこちなく―――それでも笑みを見せた。 「来てくれると思わなかったから……」 「…じゃあ、何で呼ぶのさ」 来たくて来たのではない。本当は、寂しい瞳をした彼の側を…離れたくはなかった。 と、いうより、離れ難かった。多分、今も彼はあの場所であの瞳で…静かに佇んでいるだろう。 その彼の姿が見えるようで―――胸が痛い。 「ルックが…サクラさんと一緒に居たから…」 だから呼んだんだよ? 「はっ………?」 ツバキの言葉の真意を理解出来ず、ルックは思い切り頭を傾げながら問い返した。 「サクラさんと一緒だったよね」 「……答える必要性を感じないよ」 冷たささえ感じさせるルックの台詞。それに浮かんだ、ツバキの表情は空虚なものだった。 「ルックがひとりで居たら―――呼ばなかった」 「何…それ―――」 「さあ、何だろう」 小首を傾げたツバキは虚ろな瞳のままに、傍に立ち尽くすルックを見つめた。 「嫉妬、かな」 今のルックの天魁星は僕なのに―――と。当然のようにルックの側に居るサクラの存在に、自分がひとりなんだという事実を嫌というほどに見せつけられて。 そんな、訳の分からない感情に支配され。 ―――彼の名を呼んだ。 「……怒ってる?」 「別に、…いいよ、もう」 ルックは抑揚のない口調で、静かに言葉を返す。 そうだ―――と、不意に。 例え、傍に居ても……。 自分がサクラをどう思っているか解らないのと同じくらい、サクラが自分に何を求めているのかが解らないのだ…という事実に気付く。 いつか…その答えは出るだろうか。 答えが出たときは始まりだろうか…。 それとも―――? だから…。 今は、もういい。 「ルック……?」 「君も―――休みなよ。僕は自分の部屋に戻るから」 「…うん」 微かに、ツバキが微笑む。 「―――お休み、ツバキ」 ひとりでいることより独りだと感じることの方が嫌なんだ―――と。 彼の言っていることは、そういうことなんだ―――と。 今はそう、解っているから。 「お休み……ルック」 寝台に潜り込みながら、ツバキは扉の把手に手を掛ける風使いを引き留めるでもなく、穏やかな笑みを向けた。 自分ひとりが独りでないなら、それでいい。 ツバキの瞳は、確かにそう言っていたから―――。 ルックは静かに開けた扉から部屋を後にした。 そして、そっと瞼を閉じる。 誰も彼もが傷付いている。癒す事の出来ない傷を抱えて。 その傷は、多分誰にも癒せない。 サクラも、ツバキも―――。 彼らは癒されることなんて、きっと望んでいない。 だから―――。 もう、……いい。 ...... END |