この時期にしては柔らかな日差しが降り注ぐキッチンには、甘く香ばしい匂いが漂う。 焼き上がったばかりのケーキと調理台に置かれたままの材料を目の前に、キッチンの主である少年は暫しの逡巡を挟んでふうっと溜息を零した。 「……材料が余ったから」 そう言って、片しかけていた大き目のボウルを再び目の前に戻す。 「だから、仕方なくなんだ…から」 粉をふるいに掛けながら、誰にともなくルックは嘯いた。 隣家の一人娘・セラは、小学6年生の幼い少女で。人形のような端整な見目形もさることながら気立てのいい娘で、ルックを兄のように慕っていた。純粋に慕ってくる様は愛らしく、ルックが優しい笑みを向ける事が出来る数少ない人物の内のひとりだ。 「セラの想いを受け取ってください」 そう言って、VDに可愛らしくラッピングされたチョコを素直に受け取る事が出来たのも、それがセラだったからに他ならない。 「ありがとう」 お礼の意を告げると、天使のような笑みが返されて。ルックはWDのお返しにはセラが大好きなケーキを焼こうとその場で決めた。 ―――だから、ついでに…。 そう、それだけに過ぎない筈だ、と。 生地を捏ねた手の甲で、憮然とした顔付きのままに額を拭った。 例えば、こんな話 − ホワイトデー事変 暦の上では春とはいえ、まだまだ肌を刺す風は厳しい。学園指定の厚手のコートを羽織り、晒された首元には白いマフラーを捲き付ける。日差しが暖かく、風のない日にはしないけど…今日の北風は半端じゃなく根性ありそうだから。 今までは…っていうか、マフラーをし始めたのは今年の冬から。たかだか毛糸だかカシミアだかの長細いだけの物体に、それ程の防寒効果を期待していなかったというのが本音。 だけど。 「ルックさん〜、もうお帰り?」 手にしていた上靴を下駄箱に押し込んだところで、暢気な声が掛かってきた。見るまでもなく、声の主は知れる。 「……今日の用は済んだからね」 最高学年生は先月卒業した。 今、生徒部会が抱えているのは、来期新入生関連に関する雑事ばかり。 それも、手際のいい生徒部会長が自ら手掛けたものばかりだから、学園の先生方からも当然その上からも何を言われる事もないんだろう…という事は推して謀るべしだろう。 「だけど、あいつ待ってなくていい訳?」 「…………僕が、誰を、どういう理由で、待ってなくちゃいけない訳?」 確実に退く程の威力を込めた視線で、ひとつひとつ区切って問うてやると、目の前のテッドは 「おっと、失言?」 とおどけた様に肩を竦めた。 このテッドって男も、あの男の親友やってるだけあって、一筋縄じゃいかないくらいに強かだ。 レックナートさまの元で暮らし始めて10年あまり。生半可じゃなく強烈な彼女を相手にしていた所為で、そんじょそこらの相手に臆する事はないっていう自負はそれなりにあったんだけど……。世の中は、かなり広い。 「そう睨むなって。一緒に帰るくらいしてやったら喜ぶんじゃないかなぁって思っただけだし?」 「何だって僕が、」 冗談じゃない。そもそも、帰る方向が全く逆だ。 「そりゃ、アレだ。先月のお返しってヤツ?」 それにあいつなら、喜んで家まで送ってくれるぜ? と言われて、目いっぱい眉間に皺が寄る。全くもってその通りだと、頷かざるを得なくて。 「……冗談じゃないよ」 先月のお返し―――それが何を指すのかなんて、VDに生徒部会室にいた面々なら皆知っている。あの男はあろう事か、生徒部会室でホットチョコレートをチョコの代わりに差し出してきたのだ。ちゃんとしたチョコだと、受け取らないだろ? と言って。 実際その通りなんだけど……逆に、解られてしまっている事が悔しくて。 「それに、お返しならあいつの机の上に置いてきた」 こういう絶対に想像もしなさそうな策に出てみた訳だ。 「………マジ?」 「嘘なんて言ってどうするのさ」 それも、 「僕の手自らの、レモンパイだから」 。 「手作り?!」 「そう、隣家のセラにお返し作るついでに、ね」 そう、あくまでも……ついでだ。材料が、たまたま多く余った…からだ。 「あいつ、甘いの苦手だろ?」 「……よくお分かりで」 「生徒部会室でも甘味使わないじゃないか。それに、こないだ飲まされたホットチョコがビターだったし」 ホットチョコのビター……それはありなんだろうかと、テッドは小首を傾げる。長年友人を続けてきた彼の男を思い、まぁ、らしいっちゃらしいけど、と変な所で納得した。 「………何か、腹立ったから。砂糖5割増しにしといた」 「うっわー」 そこまでやるか。とのテッドの台詞には、 「そのくらいしないと、割に合わない…気がする」 と当然のように返す。 「借りは返す主義だけど、ただ返しただけじゃつまんないだろ」 「………この場合は、ふつーに返した方が喜んだと思うけど」 「あいつを喜ばせる為に、借り返す訳じゃないからね」 どんな些細なものだろうが、人に借りを作るのが嫌いだった。 この依怙地とも頑固ともいえる性格が、今の不本意極まりない現状を作り出しているのだとしても。 返さないという選択肢さえ、実際はあるのだ。 何もこの日に拘ることなく、他の場で返すという方法だってあるのに。 ―――も関わらず、この機にそうしてしまうのは、相手があの男だからに他ならないのかも知れない。 きっぱりと無視してやれば、そちらの方があの男には堪えるという事が解っていながら。そうはできない自分に、ルック自身何ともいえない心持ちに苛まれていた。 持ち前のポーカーフェイスで、周囲には全くそう気取られていなくとも、だ。 「あぁ…うん、まぁ〜 そうなんだろうけど」 なにやら言い難そうに口の中でごにょごにょと言い繕うテッドに、ルックは楽しそうに目を眇めて見せた。 「そもそも、あいつがそれくらいでへたばるなんて思えないしね」 満々の自信を込めてルックは言う。さも驚いた風に見開かれたテッドの目は、だけれど次第に苦笑にとって変わる。 「…………ご尤も」 そう、あの男なら。相手がルックからのものであるなら、どんなに不得手なものでも至極嬉しそうに甘受するんだろう事は、目に見えて知れる。それが嫌がらせにしか過ぎなくとも、そこまでこのルックが関わっただろう事実の方をあの男なら喜ぶんだろうと。 何だ、ちゃんと解ってんじゃん―――。 「じゃ、もう僕帰るから」 何故か至極嬉しそうな笑みを向けてくるテッドに訝りながらも、それを挨拶代わりに、とっとと踵を返す。 そのまま振り向きもせず、都蘭学園の門を潜る。 刹那、強く吹きぬけた風に首を竦めた。口許まで被うマフラーが、随分と寒さを緩和してくれている、と思う。 昨年のクリスマスの時。 恍けた勘違いで散々人を翻弄してくれた、彼の男からの贈り物だ。 表向きは 『お詫び』 って事だったけど。 『クリスマスプレゼント』 として贈りたかったと、冗談のように言っていた。 だから、そっちが本心なんだろうって事は解ってはいる。 だけど、それ以上にあの男は知っている。 それが名目上でも 『お詫び』 だったから、受け取ったって事を。 クリスマスプレゼントだったなら……拒絶した、だろう事を。 「………だけど、これだけ譲歩してやってるんだから」 そう、あの男に対しての譲歩は、僕にしては精一杯のもの―――で。 「それだけで、ありがたく思って欲しいね」 そうしてやるのも、今のところあの男にだけ…なのだから。 生徒部会長室の重厚な机の上に、不似合いな小箱をひとつ。 20センチ角の箱は、薄水色と藍色の和紙と紅色のリボンでラッピングした。 驚いた顔は見たかったけども、喜ぶ顔は見たくなかったから……手渡すなんてしなかった。 それでも、あの男は喜ぶんだろうから。 だから。 ただ、渡す。 だけれど―――。 そうさせる程の想いがどういったものなのか、僕はまだ知らない。 ...... END
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