雨音 雨を厭い出したのは……何時からだった? それはいっそ、唐突で―――。 灰色がかった雲が空を埋め尽くすのを視界の隅に捉えていたとはいえ、正直驚いた。 「………降って来ちゃったか」 朝方、実家を出てくる時は晴れていたのに。 グレミオが、絶好の洗濯日和だと喜んでいた。 急に降り出した雨足は強く、草地を歩んでいた故に、雨宿りする木々さえなく。 あっという間に全身が濡れそぼってゆく。 「…………仕方ない」 ここで、このまま立ち竦んでいても仕方ない。 まだまだ、目的地まではかなりの時間と距離を要する上に、中間地にある町でさえ、まだこの位置からだと遠い。先程立ち寄った町に戻るのと時間的に大差なく、それならば…と、前に進む事を選択する。 水分を含んで重くなった荷を背負い直しながら、鬱陶しそうに垂れてくる前髪を掻き揚げ、そのままバンダナを毟り取った。 重く水を含んだそれを腰帯に捻り込み、吐息をひとつ吐くと、歩を踏み出す。 ………靴の中まで染み込んできた水が、歩く度にぐじゃりと音を立てる。そして、生温かいそれが足許を覆う感覚が気持ち悪くて、一寸眉根を寄せた。 ―――雨に、いい思い出等、ありはしないのに……。 それでもこうやって、その雨の中歩を進め続ける自分。 何が、これ程までに己の歩みを促すのか。 忌まわしいとしか言い様のない過去を、彷彿とさせる雨の中。忘れる訳にはいかないそれ。だけれど、思い出す度に、胸を抉られる程に………痛い。 なのに、踏み出す足は止まらない。 本当は……逃げ出したいのに。 胸を塞ぎたくなる程の恐れが、身体中を駆け巡っているのに。 ………なのに。 意味のない、取り留めのない逡巡。 ふっと掻き寄せられるかの様に、渦巻く風を感じた瞬間。 目の前に、ふわりと現れたその確かな存在。 強い雨足に、全ての色を削り取られた視界の中で。 唯一、彼だけが…淡い色合いを持って、僕の中に存在する。 僕と世界を繋ぐのは、きっと彼だ。 あぁ、と小さく笑みが浮かぶ。 そうだ―――。 自分がこの歩みを止めないのは、止められないのは、この存在故だ。 彼は……留まる事を良しとしないから。 常に歩みつづける存在だから。 それを放棄した時点で、彼には追いつけないから……。 この、彼の存在のみが、自分に道を示すのだ。 「……こんなところで、何してんのさ」 「うん、行くとこだったんだよ」 ―――君の所に。 「ラダトを出るくらいから、風に雨の匂いが混ざってただろ」 何でそこで雨をやり過ごさなかった…と、その台詞は問うていた。 「気が付かなかった」 そう返すと、呆れたように小さく零れる溜め息。 「…あんた、3年間もよく無事に旅出来たね」 怪訝な表情を浮かべるその彼に、にっこりと笑って見せる。 「急いていたんだよ、一刻も早くルックに逢いたくて」 ほら、………そのお陰で、こんなに早く逢えた。 「……呆けた事言ってないで、跳ぶよ」 そう言って、差し出されたその細い腕。 暫し、それを見つめて、そして彼の面を見やる。 「迎えに来てくれたの?」 「…………他に、こんな何にもない所に、何に用があって来ると思うのさ」 呆けてるんじゃないよ。 辛辣な台詞だったけど、そんなの照れ隠しだって知ってるから。 「うん、…有難う」 そう言うと、きっと睨み付けられた。 「礼なんて要らないから、さっさと行くよっ、」 雨に濡れ、冷えてる筈なのに、頬は朱色を刷いていて。 こんな場所で、その細い身体から確実に体力を奪う雨に、君を打たれて居たくなくて。 差し出された手を、そっと握る。 冷たい……けれど、何より愛しいその温かさ。 「面倒かけないでよね、」 きつい眼差しでそう言われ、 「…気を付けるけどね」 と、何とも曖昧に言葉を返すと、 「あてにならない答えなら要らないよ」 きっぱりそう告げられた。 そんな彼に、最早苦笑しか返せなくて。 「……言っとくけどね、僕は留まれないからね」 転移する間際に、不本意そうに不貞腐れた彼からもらった言葉は……いっそ、強烈だった。 それ―――って。 何で彼がそう言ったのか、問いただそうとした瞬間。 ものの見事に、熱めの湯を張った風呂に直に落とされた。 「――――ック!」 慌ててその小さな姿を捜すと、彼は風呂場の引き戸に手を掛けていて。 「よく温まってから、出てきなよ」 綺麗なその面に、小さく笑みを浮かべて、さっさと踵を返した。 「ルック―――!」 僕の呼んだ彼の名が、浴場に響き渡る。 「逃げ足…速くなったよね」 ルックだって、身体冷えてたんだから…一緒に温もっていけばいいのに。 でも、あの彼が、そんな自分で自分を追い込むような事、する筈もなくて。 だけど………せめて、服くらいは脱いどきたかった。 荷物も湯船に浸かってる状態だから、中の着替えも勿論役に立ちそうもないけど、ね。 「………着替え、持ってきてくれるのかな」 緩んでいく身体から衣服を取りながら、取り敢えず、今の最重要である問題点に挑む事にした。 僕が、立ち止まったら………。 君は、これからもこうやって手を差し出してくれるんだろうか。 そうやって、叱咤してくれるんだろうか。 ――――――追って来い、って? だったら、時折立ち止まってみるのもいいかも知れない。 雨の音は、………もう遠い。 ...... END
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