お守り代わりだと、彼は言った。 眠れない時に開いてと。 小さな箱一つ残して、トランの英雄は母国へと帰って行った。 あれから1週間。 ルックは戦場にいた。 闇の守り手・前編 「第三部隊は、騎馬兵団の補佐に当たれ!第五部隊は、負傷者の救護!前に出過ぎないよう、気を付けろ!」 雨の中、森を駆け抜けながら、指示を飛ばす。 いつも通りの、ハイランドとの国境線争いだった。 両者とも大した兵力は投入していないので、小競り合い程度でしかない。 交代制で砦に配置されたルックは、ほとんど一人で前線指揮を行っていた。 来た時には、既に砦は落とされかかっていて、どうにか維持しているような状態だった。 負傷者も多く、兵数もハイランド側の半数くらいしかない。 援軍を要請したが、どこも自分達の砦を守るだけで精一杯だから、期待しない方がいいだろう。 ルックは今ある兵力だけで、ハイランド軍を撃破しなければならなかった。 敵も味方も入り混じってしまい、部隊は乱れきっていた。 一度軍を立て直そうと、ルックが命を下しかけた時、遠くの方で鐘の音が響いた。 ハイランド側の撤退合図だ。 どうやら、今日の戦闘はこれまでということらしい。 雨も激しくなって来たし、日暮れ間近であるから、これ以上戦っても益はないと判断したのだろう。 こちらもそれに合わせ、撤退することに決めた。 ルックが指揮を執り始めて3日。 事態はなかなか好転しそうになかった。 そこは砦といっても、ごく小さな、間に合わせみたいなものだった。 一応レンガ造りではあるが、大雑把な設計なので、あちこち隙間風が吹いたりもしている。 廊下も狭く、2人すれ違うのがやっとという有様だ。 元々あった訳ではなく、この戦争中に用意されたものだった。 狭い通路を抜けて、ルックは食堂まで辿り着いた。 中は人で溢れ返っていた。 混雑は好きではないが、仕方がない。 我が儘を言える状況ではないのだ。 ルックはトレーに料理を乗せ、見知った顔のあるテーブルへと向かった。 ここに来る時に連れて来た、魔法兵団の部下だ。 ルックが近付くと、彼らは軽く会釈をした。 元よりお喋りなたちではないので、ルックは一人黙々と食事を取り始めた。 しばらくした頃、隣に座っていた男が言った。 「ルック様、夜、しっかり眠れていますか?」 ぎくりとした。 思わず手が止まる。 実は、ここへ来る前から、ルックはあまりよく眠れていなかった。 だがそれは、以前から割と頻繁にあることだったし、原因も分かっていた。 いつも隣にいる青年がいないから、眠れないのだ。 恥ずかしくて、とても言えることではないが、要するに寂しいだけだった。 どうしようもないことだから、我慢するしかない。 ルックは平然としたふりを装って、短く答えた。 「睡眠は取ってる。心配はいらない」 ルックには無理をし過ぎる癖があるため、それを案じての言葉だと思ったのだ。 だが彼らの反応は、少し異なった。 やや驚いた様子で、「眠れるんですか?」と再度訊いて来た。 睡眠不足を心配しているにしては、どうもおかしい。 「何?」 「いえ…ここへ来てから、我々は悪夢にうなされ続けているんですよ。ほとんど眠れなくって…」 「聞いてみたら、この砦の者達は皆、そうらしく…しかも、戦闘が始まる前からだって言うんですよ」 向かえの男が補足をする。 ルックは僅かに眉を顰めた。 「どうしてそんな重要なこと、誰も報告しなかったんだ。前任の指揮官も、何も言ってなかったし…」 「ルック様が来られた前後は、まだ悪夢にうなされる者の人数も、大したことなかったみたいですよ。どんどん酷くなってるみたいです」 だが少なからず、戦闘の結果には関係しているだろう。 眠れなければ、集中力が落ちる。 イライラし、判断力も低下する。 同盟軍が負け続けた背景には、兵達の体調不良があったのだ。 そういえば、前任の男がここを去る時、やけに嬉しそうな顔をしていた気がする。 敗戦を重ねる日々が嫌なのかと思っていたら、こういう訳があったらしい。 夢程度、大したことではないと考えていたのかもしれない。 噂が大きくならなければ、個人の問題で済んでしまうことだ。 しかし、今もまともに眠れない日々が続く以上、放置しておく訳にはいかない。 このままだと、指揮能力とか兵数だとかいう以前に、同盟軍は負けることになってしまう。 「夢って、どんな夢?」 訊いてみるが、どうやら人によって違うらしい。 怪物に食われる夢だとか、火に襲われる夢など、様々だった。 しかも毎日違うという。 皆で同じ夢を見るというなら、もっと発見も早かっただろうに。 ルックは食事を終え、後方支援の文官達に調査を命じた。 その男達も、悪夢にさいなまれているらしい。 ルックが何とかしてくれるのだろうかという、期待に満ちた目で見られてしまった。 ついでに今日の戦闘結果を報告書に纏め、本城の方にも送ってもらうことにした。 全て終わる頃には、真夜中になっていた。 部屋へと戻り、ルックは寝台に倒れ込んだ。 疲れきってはいたが、眠れそうもなかった。 部下達が言ったような、悪夢のせいではない。 あるべき体温が隣にないと、眠れなくなってしまったのだ。 ここ数日、ろくに眠っていない。 夢など見る暇もない。 明け方まで仕事して、限界になったら机で気絶するように眠るだけだった。 ほんの一刻ほど、泥のように眠る。 それが最近のルックの睡眠状態だった。 今日はやるべき事をやってしまったので、逆に手持ち無沙汰になってしまった。 体は疲れているのに、眠気は襲って来ない。 どうしようかと思った時、ふと、耳にあの青年の声が響いた。 『眠れない時に開いてみて』 そう言って、彼はルックに小さな箱をくれた。 掌に乗る程度の大きさの、茶色い木の箱だった。 今も寝台横の机に置いてある。 言う通りにするのが癪だったので、忘れたふりをしていたのだ。 でもこれ以上睡眠不足が続くと、戦えなくなってしまう。 自分のことはともかく、指揮官として、部下に迷惑を掛ける訳にはいかなかった。 渋々、ルックは箱を手に取った。 蓋を開けてみる。 カチリとどこかで音がして、次の瞬間、小さな音色が流れ出した。 囁き声みたいな音色だ。 「オルゴールだったんだ…」 聞いていると、どんどん眠くなって来た。 子守唄みたいだ。 ルックは蓋を開けたまま、箱を机へと戻した。 寝台に戻って、毛布を被る。 すぐにとろとろと瞼が落ちて来た。 まるで贈り主の腕の中に包み込まれているような、温かな気分になれた。 優しい音色が部屋を満たす中、ルックは眠りに落ちた。 珍しいことに、日付が変わる前から、日が昇るまでぐっすり眠り、一度も目覚めることはなかった。 3日後、同盟軍はもはや戦える状態ではなくなっていた。 全く眠れないため、立っていることさえ危うい。 やむを得ず、ルックは篭城して、砦全体に防御魔法を掛けた。 だが魔力を使い続けるには限界がある。 早々に打開策を講じなければならなかった。 依頼してあった調査の報告が出たので、ルックは執務室でそれに目を通した。 一言で言って、原因は不明。 ただ、夢の中で不思議な歌声を聞いたという者が、大勢いたとあった。 「歌声?」 「はい。若い女性らしきものだったと、幾人もの兵達が言っています。因果関係は不明です」 報告をしていた文官の一人が説明する。 脇にいた別の男が、ぽつりと言った。 「まるでセイレーンの逆だな」 「セイレーン?」 最初の報告者が問い返した。 有名な話なのに、知らないらしい。 「海を行く船を沈めるという、女性の怪物だよ。もしかしたら、幽霊なのかもしれないけど。歌声で船員たちを眠らせたり、惑わせたりするって伝説さ」 「なるほど。確かに反対ですね。眠らせてくれないんですから」 「セイレーンの方がまだましさ。眠れないのが、ここまでつらいとは思わなかった」 背後に控えていた男の一人が、嫌そうに首を振った。 目元には隈ができており、顔色も良くない。 報告している間にも、眠ってしまいそうな状態だった。 「ルック殿は、本当に眠れているのですか?」 疑わしい目で見つめられ、返答に困ってしまった。 ルックが無理しているのでは、と思ったらしい。 だが、部下達に比べたら、ルックの体調はいい方ではあった。 血色が悪いのも、たまにあることだ。 だから彼らも不審に感じているのだろう。 軍内で一人通常の睡眠を取っているルックを、奇妙な目で見る者達も増えていた。 「ルック殿がこの不眠の原因を作り出しているのでは、と言う者もおりますよ」 「おい!」 苛立ちからか、口を滑らせた男を、隣の兵士が諌める。 それが部下達の本心なのだと、ルックは気づいていた。 しかし、どうしようもない。 何故眠れているのかなんて、ルックだって分からないのだから。 「僕が自分の部隊を不利にさせてどうするのさ。責任取らされるのは、僕なんだよ?」 ため息混じりに言うが、一度噴き出した悪意は、簡単には収まらなかった。 「あの方に頼まれたのでは?」 「あの方?」 「トランの英雄と呼ばれる方ですよ。都市同盟を危機に追い込んで、その隙にトランの領地を増やそうとしているのでは?」 出された名に、その場の全員が凍りついた。 ルックがその男と懇意だというのは、同盟軍全体が知っていることだ。 誰に八つ当たりせねばやっていられないのは分かるし、ルック一人が眠れている以上、疑うのは当然だ。 相手は病人みたいなものだ。 体調不良から、冷静な判断ができていない。 分かっているのに、やはり許せなかった。 「今の言葉は、都市同盟とトラン共和国の同盟に不和を招きかねない。軽率な言葉は慎むことだ」 「庇われる気ですか?やはりあなたは、トランの方が大事なんですしょう!?」 「冷静になれ。もしトランが都市同盟の領地を狙っているのなら、同盟など結ぶ必要はない。ハイランドに気を取られている間に、横から戦争を仕掛ければ、あっという間に都市の1つや2つは占領できるだろう」 「こちらの内部に潜入して、情報を得ようとしているのかも…」 「その台詞、トランの者達の前で言う度胸があるか?第一、今トランに手を引かれて困るのは、都市同盟の方だろう」 理路整然としたルックの指摘に、男達は黙り込んだ。 同盟軍にも、トラン出身の者は多い。 義勇兵に加え、解放戦争を戦った傭兵達もいる。 その全てを敵に回したら、同盟軍はもたないだろう。 「根拠のない誹謗中傷はするな。僕のことはともかく、トラン共和国への疑いは口に出さないように。外交問題になるぞ」 冷たく一瞥して、ルックは彼らに背を向けた。 睡眠不足の男達は、さっきより更に青い顔になっていた。 |