再逢 彩哀 …最愛 − 7 あのまま……逃げたって良かったのに。 石板前で、かつて少女の名があった場所を指でなぞりながらその場を動こうとしない天魁星の姿に、呆れたようにそう言ったのは当然の如く石板守だった。 「そんな事言うの、ルックだけだ」 とオギは濃茶の目を細める。 「………言わないんじゃなくて、言えないんだよ」 「知ってる。ここのみんな、メチャ優しいもんな」 誰一人として非難しないのだと、オギはぼやく。 「何で逃げたんだ、とかさ…誰かひとりでも詰め寄って殴ってくれでもしたら……とっとと逃げられたんだ」 いっそ、見限って欲しかった…と。 石板に刻まれた名、ひとつひとつを指で辿る。 「……あんたが、そんなだからだよ」 「ルック、今日甘過ぎ」 くつりと喉を鳴らすオギのそんな様に、ルックは嫌そうに眉根を寄せた。 「なぁ、キスしていい?」 「…………………冗談、」 ホール内は往来だ。それも、かなりの人々が行き交う城の中でも主要の。 現に今でさえ、何人もの姿をルックの視界に捉えている。 「いいじゃん、キスしよv」 そう言って、細い腕を捕らえる。拒絶の意をルックが告げる前に、その唇を封じた。 「―――ッ、」 深く深く口付け、吐息さえ奪い。苦しさのあまり開かれた唇の隙間から、舌を差し入れる。固く握り締められていた拳が力を失い、そして縋り付いてくる様になるまで、歯列を探り舌を絡め容赦なく嬲る。やがて、完全に膝が落ちた頃合を見計らって漸く解放すれば、頬を上気させ濡れた翡翠が、オギをキッと睨み付けてきた。 「色っぽいよなぁ」 欲に煽られたその表情は、底知れぬ妖艶さを浮き立たせる。 「……ッ、こんなとこで!」 「皆見て見ぬ振りしてくれてるじゃん」 「だからって…、」 「俺、誰に見られても気にしないし」 「―――あんたはねっ」 気にする必要などないだろうと、ルックは思う。 だけど……自分は、違う。 誘いを掛けてくる奴等が、自分をどう見てるのかなんて解り過ぎて…そんな己が嫌になる。煩わしく纏わりついてくる視線の全てを振り払う事など、無理だ。 他人は酷く欲望に忠実で、それを抑える事も知らないとしか思えない。 そんなもの関係ないと、突っ撥ねられたら……どんなに楽だろう。 「…………自分が逃げられないから、そうするの」 酷く冷めた翡翠に問われ、刹那、オギは面を強張らせた。そして、小さく苦笑を漏らす。 「……かも、な」 ぼそりと同意を示してから、両腕を上げて身を伸ばした。 「結局、俺は逃げられないって解った。道連れって、欲しいじゃん?」 そんなもの―――。 「欲しがる奴の気が知れないよ」 と、だけルックは返した。 軍師補佐に呼ばれ石版前を去っていく軍主の気配を感じながら、僅かに視線を足許に落とす。 「………あれで…」 保つのだろうか―――と、ルックは正直思った。 3年前にしろ、今回にしろ、星を纏める任を担うのは、まだ子供にしか過ぎない者で。ルックはそれによって自分に課せられる、多大な負担を感じていた。 我知らず溜息が零れる。 微かに震える空気の振動にふっと視線を戻せば、いつの間にか目前には前・天魁星が立ち、目を眇めてルックを見下ろしていた。 「…………な、に」 気付かなかった自分に内心舌を打ちながら、ルックは小さく睨み付ける。 「お前、あんなガキに惚れてんのか」 思いもよらないアカザの台詞に、 「……何、それ」 ルックは思い切り呆れた。 付き合ってられないね、と視線をそらせば、咄嗟に腕を捕られる。 「何だっていうのさ、」 訳の解らないアカザの所業に、怒りそのままの視線を向けた。だが、それはアカザにはなんの威力もなく。 「他人には口を聞くのさえ面倒臭がるのに、あいつの面倒はちゃんと見てるよな」 俺にだって、口さえ開けば毒舌しか寄越さないのに―――そんなふざけているとしか思えない台詞に、ルックは怒りを抑える事などする気もなく、そうしなければならない理由もなかった。 「離しなよ」 引かれた腕を、渾身の力を込めて振り払う。 目にも鮮やかな翡翠には、怒りの焔。 小さな躰全体から、立ち上るそれは怒りの色を纏っていた。 「あんたにとやかく指図されるいわれない」 気まぐれな干渉はやめろ―――と。 そう突き放された物言いは、ルックの十八番だと知り尽くしていた筈なのに。 「お前は星に連なる男なら、誰でもいいんだよな」 吐いた台詞に、アカザを映す翡翠の瞳が冷たく凍る。 それは轟々と燃え盛る焔が、一瞬にして凍りついたかのような錯覚をアカザに与えた。 「………それこそ、あんたに関係ないだろ」 朱色の唇から発せられた台詞は、毒舌などよりもっと激しい拒絶。 「そうだね、あんたじゃなきゃ誰でもいいよ」 鮮やかに零れる微笑。 どこか冷たく、妖艶で―――ぞくりと何かが背を駆け上がるのをアカザは禁じ得ない。 「あんたとだけは、死んでも遠慮しとく」 きっぱりと言い捨てると、風を纏った。 転移した自室の寝台の上に、ルックは力なく座り込む。 何だってあんな事言われなきゃならない―――冗談じゃない。 おまけに、自らを貶めるような言葉まで吐いて…。 それ程に、投げ付けられた棘が痛かったのだ。いつものそれとはその本質からして違うものだった。 髪に差し入れた指で、くしゃくしゃと癖のないそれを掻き乱す。 「………最低ぇ」 そのまま、頭を垂れて立てた片膝の上に押し付けた。 アカザが怒っていたのは解る。けれどルックには、その怒りの根本が何なのかは解らない。いつも言い合いしてはいたが、その言い合いでさえ言葉遊びの範疇で怒りなどとは無縁なものだったから。 だから、ルックはこれは一方的な八つ当たりなのだ―――と思った。 それでも、その投げ付けられた棘は深く胸を抉った。 だからといって、自分を卑下するような事まで言う必要などなかった。 ルックは、自分の容姿を持て囃す人間が実に多いという事を知っている。そして、それが純粋なものだけではない…という事も、その身を持って知っていたのだから。 ...... to be continue
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