再逢 彩哀 …最愛 − 10 人の感情程、厄介なモノはない。 喜怒哀楽、全てが煩わしい。 特に、負の感情は……要らないと思っているこちらの心までを、容赦なく揺らす。 そんなもの、要らないのに。 心などという厄介極まりないもの、なんて……そもそも自分にはない筈なのに。 パタンと扉を閉めた直後。 隔離された空間から抜け出した安心感からか、崩折れそうになる膝を叱咤して一歩を踏み出す。 そう長い時間男の相手をしていた訳ではないが、精神における疲弊はそのまま身体へも影響するようで、かなり疲れ切っている自覚があった。 階を上がる為に差し掛かった階段で、ルックは暫し逡巡した。 「………風呂…空いてるかな」 時間的には夜更けに近い。 宵っ張りも多いこの城で、風呂場に全く人がいない状況を求める方が、難しいという事実もルックは嫌になるほど知ってた。 だけれど、それさえどうでもいいと思うほどに身を洗い清めたかった。 風呂場へ行くのなら階段を使わずに真っ直ぐ進み、部屋に戻るのなら目の前の階段を上がらなければならない。しかし、それ以上に問題なのは、風呂を出るまでに倒れないでいられるかという事だった。 今でさえ気を抜けば、情けなくこの場にへたり込んでしまいかねない。 転移するには、精神の疲弊が大き過ぎる。集中できない。 だけれど、身に纏いつく嫌悪感を洗い流さなければというそれは、強迫観念にも似ていて……ルックは喉元を押え喘いだ。 「…………気持ち悪、い」 どちらにしろ、このままの状態では疲弊した精神を解かすほどの眠りは訪れないだろうという事は、解っている。 「………ッ」 階段下を抜けて、そのまま風呂へ向かおうと壁に手を着いた刹那。 「馬鹿か、お前は」 背後から呆れたように言われ、ルックはぴくりと肩を揺らした。聞かずとも声の主が誰だか知れ、ゆるりと振り返る。そして、遠慮などする気もなく冷たく睨み付けた。 「………何か、用」 視界を埋める胴着の赤と、瞳の紅玉が、ささくれ敏感になった精神を追い詰めていくように感じる。 「んーなへろへろの状態でどこ行くってんだ」 「あんたには関係ない」 言葉に、口調に、視線に。その全てに怒気を孕ませて、ルックは目の前の男・アカザを見やった。 だけれど、アカザは目許を眇めただけで、無遠慮な視線と態度を崩しもしない。そして、さっさと踵を返して風呂場へ向かおうとするルックの姿に肩を竦めた。 「お前、やっぱ信じらんねーくらいの馬鹿だな」 「ーっるさいっ! 気持ち悪いんだから、放っとけ!!」 自分でも抑えられない程の憎悪を覚える。どうしてそんなモノを感じるのか、どうすれば抑えることが出来るのか……解らない。 「あんたには、関係ないっ! 僕に、構うな」 感情が、爆発する。 怒りの焔をそのままに立ち上らせて、紅玉を睨み付ける。が、そこまでだった。 「……いいから、来い」 引かれた腕に抗う体力など、今のルックにはない。 容易く寄せられた身体に、掴んだ腕の余りの細さに、アカザは密かに眉を寄せた。 「んーと、とんでもねぇ馬鹿」 「…………ったら、放っておけば」 「風呂、貸してやるってんだ。もっと有り難がれよ」 アカザの台詞に、ルックは漸く強張った身体の力を抜いた。今にもその場に崩れそうになる身体を叱咤して、アカザに引かれるままに彼の部屋に向かう。自分を促すその腕がなかったら、倒れていたかも知れない。 そのくらいには、今の自分の状態を知っていた。 備え付けられた浴室の湯船に湯を張り終えたアカザは、緩慢な動きで法衣を脱ぎ小さな空間に入っていくルックをただ眺めていた。 「鍵、閉めんなよ」 倒れられると面倒だからな、と言うアカザに 「……解った」 とだけ返す。 おざなりに身体を清め、湯船に浸かると、湯に溶けていきそうな感覚を覚える。 全てが還ってゆく。 それは所詮、錯覚に過ぎないのだけれど。 「拭くもんと夜着、置いとくからな」 扉の向こうから聞こえる声に、ルックは 「…ん、」 と頷く。 そしてゆるりと磨りガラス張りになった扉に映る男の影に、微かに目許を歪めた。 「……前は同じだったくせに」 「あぁーん?」 「人に構う余裕なんて、なかったくせに」 何故今更、持ち得たものをひけらかすような真似をする…と、唇を噛む。 「当ったりめーだろ、16、7のガキがあの状況下でんーな余裕あるかよ。俺はな、んーな聖人君子気取る気なんざさらさらねーよ。出来ることしかやらねーし、する気もねーし、他所に回せるのは回すんだよ」 「…………それで」 「いーんだよ。ガキなんだから。周りの奴等がそれでいいって言ってくれてる間くらい、それでいいじゃねーか」 姿形はどうあれ、時間は刻んだだけこの身に重ねられてゆくのだから、というアカザの言葉を聞きながら、ルックは湯船のなかで膝を抱え込み、そうして膝頭にゆるりと額を押し当てる。 「…………そんなのっ、結局は思い込みでしかないじゃないか」 少なくとも自分には、そんな半端な状態でしかないものを受け入れる訳にはいかないと、ルックは一層強く唇を噛み締めた。 ...... to be continue
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