泣きたくなるほどに   − 4




 渋々といった態のルックを伴い、再び医務室に訪れたシーナに、アカザはあからさまに不機嫌そうな表情を見せた。
「お前、俺に何の恨みがある訳?」
 アカザの言葉に 「恨みなら山ほど」 と返したい所を抑え、シーナは軽く肩を竦めるだけに止めた。
 アカザを挟んだ向かい合わせに、見舞いにでも来ていたのか軍主であるオギが楽しそうに一連の様子を窺っている。
 シーナが前もって告げていた所為か、アカザに 「嘲笑いにでも来たのかよ」 と冷たく投げつけられた台詞にも、ルックはさほどショックを受けていないように見受けられた。
 そう、傍からは。
 その胸中は、全く窺い知れない。
 いっそ、見事なまでに崩される事のないポーカーフェイスには、オギでさえ嘆息した。それは、シーナも同様だろう。
 そんな周囲の者達の内心を知ってか知らずか、ルックはただ僅かに翡翠を眇め、そして 「当然だろ」 とまで言ってのけた。
「こんな面白い状況見に来なくて、何を見に行けっていうのさ」
「娯楽にして頂いて、恐悦至極」
 茶化すかのようなアカザの態度に、ルックは一呼吸置いた後口端を歪めた。
「………無様、だね」
 ぽつりと零された言葉は、アカザに対してというよりも呟きに近く。
 ふんと鼻を鳴らし、嘲るような視線を置き捨てると、ルックはさっさと踵を返した。
「ルック、」
「あっ、おい!」
 シーナと軍主の呼び止める声にも耳を貸さず、ルックは用は済んだとばかりにそのまま医務室を後にする。
「……何だってんだ」
 ぼやくアカザに向けた視線を眇め、オギは内心小さく舌を打った。
 この対面は賭けだった。
 ルックとの関係だけを忘れたという事実に、ルックが傷付かない筈はない。だけれど、他にアカザの記憶を呼び戻す方法が思い浮かばなかった。ましてや、ルックに知られない内に記憶が戻る確立など、万にひとつに等しく。
 故の、賭け。
 こういうの裏目に出たとは言わねーよな、と思いながら、
「こっちよろしく、」 シーナに言い置いてルックの後を追った。



「―――っと待て!って」
 追って来たオギに腕を掴まれ、漸くルックは歩みを止めた。
「……何さ」 僅かに俯いたままのその表情が窺えなくて、オギは小さく胸のうちが痛むのを感じた。視線を合わせないままに言葉を交わすルックなど、オギは知らない。
「あのままで、いいのかよ」
「………いいんじゃない」
「ルック!」
 腕を捕らえた手とは逆の手で、顎を掴んで無理やりに視線を合わせる。
「いいのかよ、それで」
 オギの問い詰める口調に、どこか複雑な色をのせた翡翠がひとつゆっくりとした瞬きで遮られ、そして再び現れた時には、全ての感情を綺麗に無くしたかのように何の色も見えなかった。
「……あいつが、そう望んだんだから」
 要らないから忘れたんだよ。
 簡単に忘れてしまえる程度の存在でしかなかった。
 彼にとって、自分はそのくらいの価値しかなかった。
 認めたくなくても、それが事実なのだ。
 だから、彼は自分とのことだけを忘却するに至ったのだ―――と。
「あいつは、きっと自分でも知らない内に後悔してたんだよ」
 自嘲するような声音に、オギは何も言えなくて。
「………だからね、黙ってて」
 告げたら只じゃ置かないからね…その脅し文句より何より、真実を告げるのを躊躇わせたのは、いつもなら強い光を湛えた翡翠がいつものそれではなかった事だ。
 どこか揺れるそれに、ルックがどれほどの想いでそれを決意したのか…そう考えたら、彼の意志を尊重するより他になかった。



 ルックの後を追って出たオギを見送り、アカザはうんざりしたように肩を竦める。
「騒がしい奴等だな」
 当事者であるにも関わらずの物言いに、シーナは瞼裏が熱を持つかのような憤りを感じた。勿論、こんな状況に陥ったのはアカザの所為ではないという事くらいは解っている。
 理性では、だ。だけれど、感情はどうしてもついて行かない。
「一発、殴らせろ」
 シーナの有無を言わせぬひと言と、強い琥珀の瞳がアカザを射る。
「お前は、前に俺に約束した。何があっても、絶対に違わないって誓った。お前が何も失っていないって豪語するんなら、お前はその時点で俺との約束を反故にしたって事だよな」
 アカザは意味をはかりかねるも、いつものように軽口で返すという愚かさは晒さなかった。
「何を、」
 シーナに何か忘れてやしないかと尋ねられた時、否と返したアカザだったが、本当は違う。
 ぽかりと大きな空洞が、あるのだ。
 その空洞に何かがあったのかも知れない、とは思う。
 それが大事なものであった筈だという、もやもやとした焦燥感だけが胸にわだかまっている。だけれど、それが何なのかは解らない。
「俺が、何を、失くしたってんだ」
 誰も、何も言わない。シーナにしても、オギにしても、向ける視線は冷たく責めているのに。その態度から、彼らが自分が失ったものを知っていると解るのに。
 あの、ルックですら……何も言わない。ただ冷めた翡翠で、視界にすら入る事を拒絶…された。
「ふざけるなよ。お前が…お前自身が、思い出さなくてどうするんだ」
 再会してからこっち、何度かこんな風にこの男に怒りをぶつけられた……気がする。それがどんな場面でどんな事で怒りを買ったのかは今のアカザは覚えていなかった、けれど。
「このままで…いいのかよ」
 怒りを全身で発しながらも、寄せられた眉間に痛ましさが含まれていると感じるのは気の所為だろうか。
「シーナ、」
「断言してやる。このままだと、お前は絶対に後悔する」





 アカザが記憶の戻らないままに医務室を出たのは、その二日後だった。








...... to be continue


 …………ここで逃げるのが、我が家のルック。
 追い縋れるほど強くはなく、泣けるほどに器用じゃない。自分で自分を守るのに必死。

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