泣きたくなるほどに − 6 日に日に大きく増してゆく焦燥感を、正直アカザは持て余していた。 どうすれば失った何かを思い出すのか、そもそも何を失ったのか。それを思い出したいと思っているのかさえ、己自身では解らないのだ。 故にそれは焦燥というよりは、苛つきに近かった。 周囲に悟られるようなヘマをやらない辺りが、アカザらしいといえばいえたが。 身体も心も満たされないなら、傍に居ても無意味だ―――と、アカザは二度女性を部屋から追い出した後そうする事をやめた。楽しめる無駄はそれなりに好きだが、無意味な事を彼は嫌う。 かといって、そのまま大人しく宛がわれている部屋に戻る気にもなれず、アカザは酒場に向かっていた。 今のアカザにとって、そこは一番居心地のいい場所である。 勿論、生家へ戻るという選択だとてアカザには残されている。 『何故、帰らない』 と聞かれても、首を傾げる事しか出来ない。 ―――ただ。 今は帰れない、と。 帰ってはならない、と。 どこかで、そう告げる己がいるのだ。取り返しが着かなくなる…と、警鐘が鳴る。それを無視する事は、アカザには出来なかった。 「………?」 ホールへ下りる階段に足を掛け、かの石板守が相も変わらずその場に佇んでいるのを視界に入れ、どこかホッとする。 あるべきものがあるべきところへ、という図式が今のアカザには有り難くも思える。 昼間に比べ、人気の少ないホールに足音が響き渡る。 ルックの事だから、当然気配で足音の主には気付いているだろう。 それなのに、綺麗に無視されてアカザは内心むかついた。そうして、何故むかつくのかと頭を傾げる。記憶にある限りでは、今までとルックの態度は変わらない。無視をするか、互いに毒舌で牽制し合うか。 だから、その態度でむかつくという事は、むしろ変わったのはアカザだという事だろう。 階段下まで降りつくし、その距離を保ったまま視線だけを石板守に向ける。石板守の翡翠の瞳は真っ直ぐとホール入口に向けられたまま、アカザを映す事はない。 「………」 その事実が、アカザにとてつもない違和感を沸き起こさせる。 違和感の正体が解らなくて、アカザは随分と長い間ルックを見つめ続けた。 と、先に反応したのは視線を浴びせられているルックの方で。 「………何、鬱陶しい」 新手の嫌がらせか何かなの、とちらりと視線だけをアカザに流す。 「……相変わらず、暇そうだな」 「あんたに気に掛けてもらえるなんて光栄だね」 嘲りを含ませた物言いにムッとする間もなく、ルックが石板前から離れるのを目にし、訝んで腕を組んだ。 「……もう、寝る」 ひと言言い置いて、そのまま脇を抜けようとした―――ルックの翡翠に唐突に見上げられ、アカザはギョッとした。 「…んーだよ」 「それは、こっちが聞きたいんだけど?」 呆れも含まれた冷たい瞳で問われ、刹那硬直する。 何故か、無意識の内にアカザはルックの腕を掴んでいた…らしい。 「………で、何なの」 部屋に戻るんだから用があるならさっさとしてよ、と言われ、何故咄嗟に腕を掴んだのかが解らなくてアカザは慌てた。 「……お前は、知ってるのか?」 だけれど、唐突に口から零れたのはアカザ本人でさえも予期していなかった問い掛け。 「…………何を、僕が知ってるって?」 それに、ルックは逆に窺うように睨み付けた。 「僕は、あんたの事なんて何も知らないよ」 眇めた翡翠の瞳や淡々とした口調からは、何も窺い知れない。何も含まれていないかのように、思える。 が、そもそも―――ルックから一線引かれた態度など、アカザは受けた事などない。 解放戦争時から寄せられていた拒絶や、嘲りといった態度にでさえ感情は備わっていた。 だから。 「俺は、何を……失ったんだ?」 常にないルックの態度だったから、何かを知っているのだとの確信の上にそう問うた。 「……そんなの」 僅か、その翡翠が揺れたと見えたのは、アカザの気の所為だったろうか。 「気の…所為じゃない?」 何かを得たと思うのも、失ったと思うのも―――それがカタチを成さないものならば、本当の所どうだったのかなんて誰にも解らない。 「元々あんたは、何も得てやしなかったんだよ」 さげずむでもなく、嘲るでもなく、ただ淡々と呟かれる言葉に、アカザは僅か眉根を寄せる。 「だから……失ったと思うのも、錯覚でしかない」 綺麗に感情を払拭して流れるだけの声音は、彼の知る石板守のものとは到底思えない。 唐突なあのアクシデント以後、そんな様を見るようになった。それが本来のルックの姿であるとでもいうように、何度もだ。 「実際、あんたの内には何にも有りはしないだろ」 そうして、すっと視線が反らされた刹那―――言い知れない程の恐怖が、その身を走り抜けた。一度も振り返る事なく、さっさと立ち去って行くルックの後姿を見送りながら呆けたように立ち尽くす。 ……何、だ? それが間違いなく恐怖だということは解る。 だけれど、それが何故なのかがアカザには解らない。何故、ルックの態度如きで、恐怖なんて感情を覚えなければならないのか? そんな事、有る筈がない―――と。 「………っ。冗談だろ」 口許を覆った手の隙間から零れた言葉は、誰に聞かれる事もなく風に解けた。 「……いた い」 言葉にすると、その痛みは現実味を帯びて小さな身を苛んだ。 「だけど、平気」 だから、そう言えば平気になるのかと…そう思って口にしたのに。一向に痛みは引かない。 「……平気、痛くない」 言い聞かせるかのように、何度も呟く。 何度も何度も、何度も―――。 そうしなければ、堪え切れない。 握り込んだ爪の先が、食い込んだ掌を傷付け血を流すが、そんな痛みなど胸を苛む痛みに比べれば些細なものだと、思えてしまうほど。 「僕は………平気」 あいつなんて、要らないのだから…と。 そう、二度と違える事のないように。 癒える事のない傷口に、言葉という呪を塗り込めた。 ...... to be continue
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