泣きたくなるほどに   − 8




 かちり、と。
 静かな空気に響いた音を聞きとめ、ルックはゆるりと瞼を開く。
 灯りの点らない薄暗い室内を視界に収め、閨を共にした軍主の姿がないのにホッとする。さっきの音は、扉を閉じた際に生じたものだったのだろう。
 僅かな間気を失っていたのか、軍主が部屋を出て行くのに気付かなかった。
 疲弊しているという自覚はしかりとある。夜も眠れない事が少なくない上に、食事の量も減った。アカザが今の現状になってから一緒に食事を摂る回数が増えたシーナが、目いっぱい眉間に皺を寄せるくらい、には。
 心配を掛けているのだと、解っている。
「……情けない」
 シーナにもオギにも、あれだけの事を言っておきながらの態に、自嘲するしかない。
 倦怠感に苛まれる躰を宥めながら起こし、慣れるしかなかった痛みには、僅か顔を顰めた。
 乱れた髪をくしゃりと掻き上げて、帳の下りていない窓の外に翡翠を向ける。
 不意に雲の合い間から現れた月の光が、広過ぎる室内を照らし、視界を鮮明に晒す。握り込んでいた拳に気付いて、ゆっくりと解いた。
「………何、やってんだ」
 強がってる癖に、耐え切れなくて甘えて、情けないにも程がある―――と、ルックは唇を噛む。
 こんなのは、違うと。
 こんな己を望んだのではない、と。
 そう思うのに、感情を律し切れずにいる。
 平気だと、思っていたのだ。
 シーナから、あの男が僕との関係の記憶だけを忘れたと告げられた時は。
 最初っから手元になかったものなど無くしても平気な筈だと……そう信じていた。
 それが、この様だ。
「―――ッ、」
 いっそ、こんな想いなど感じなければいいのに…と、立てた膝頭に額を押し付けた。





 夜も更け日付けが変わった時刻に、オギは酒場の扉を押した。
 相変わらずの喧騒で賑わっているこの場所は、眠りを知らない。
 オギは、扉の前でぐるりと酒場の中を見回す。そして、隅でちびちびとグラスを傾けていたシーナの姿を認めると、テーブルと酔っ払い共の合い間を器用にすり抜けて近付いた。
 ちらりとこちらに気付き見上げてくるシーナに、 「よっ」 と手を上げる。
「横、いいか?」
 それは話があるという事だろうと、シーナも頷く。
 シーナがひとりで飲んでいる事自体は珍しくはない。この男は、ひとりでもふたりでも大人数でも、飲みたい時に飲みたい場所で飲みたいものを飲んでいる。
 オギの知る者の中で、アカザの次にマイペースなヤツだという認識があった。
 引いた椅子に腰を下ろしながら、酒場の女主人に最近解禁されたばかりのアルコールを頼むと、頬杖を着いた。
 そして、開口一番―――。
「思い切り、ルックの弱みに付け込みました」 最初から誤魔化すつもりなどなかったのか、そう言ってオギは曖昧な笑みを浮かべる。
「……お前なぁ」
 潔さに嘆息しつつも、シーナはその事については責めなかった。
 ルックが決めた事について、シーナは一切口出ししない。ただ、見守るだけに徹している。
 それに、オギは多少強引だが、嫌がる相手に無理強いするような奴ではないという信頼もそれなりにしていた。
 オギはオギのやり方で、シーナはシーナのやり方で。
 せめて周囲の者が変わらずにいる事が、今のルックには必要なのだと思う。それが些細としかいえないフォローであっても。
 そのくらいしか出来ないし、させて貰えない。
「泣かせてやりたかったんだ。あぁでもしなきゃ、ルック泣けないから」
 だけど、泣かなかった…と、オギはぽつりと呟く。
「ずっと、泣けないままなのかなぁ」
 そんなの嫌だと、オギは思う。
 幸せになんてならなくて、いい。笑ってなんて…いなくていい。
 それより何より。
「泣きたい時に、泣いて欲しい」
 そうすれば、痛みだってやわらぐのだ。
 あまりに不器用で、そうやって痛みから逃げる事さえしないルックの様に、オギは泣きたくなる。
「欲しかったけど……俺じゃ無理なんだよな」
 アカザとルックとの再会時。ふたりが顔を付き合わせた、その時のルックの態度から結果は解りきっていたけど、と呟くオギにシーナは何も返さなかった。



 明け方近い時刻に戻った部屋の中はひんやりとし、人気のない事は一目瞭然だった。
 扉を閉め、今は無人の寝台に目線を落として、オギはひとつ溜息を零す。
 尤も、はなからルックの姿がないだろう事は予測していた。彼が出て行きやすいように、部屋を出たのだ。
 溜息が零れたのは、寝台の敷布が替えられてあった事に対して、だ。綺麗にベットメイクまでしてあるのを見てしまっては、そうするのも仕方ない気がする。
 こんなだから、放っておけない。
「…………起きれなくしてやりゃ良かった」
 物騒極まりない台詞を吐き、くしゃくしゃと髪を掻き乱す。
 ―――正直。
『……忘れ、られる?』 などといった台詞を、ルックが口にするとは微塵も思っていなかった。
 だから、それだけでオギには解った。
 解りたくなんてないのに、解ってしまう。
 他人にそんな弱みを見せるくらいに、追い込まれているのだと。
「んーとに…馬鹿だよな」
 付き合いの長さは腐れ縁程ではないが、深さが違う。そして、深みを望んだのはオギ自身だということも、他との付き合いとは違っている。それを望むほどには、ルックの事をオギはずっと見てき、腕の中に入れても厭わないくらいには好いてもいた。
「やっぱり、アカザのヤロー殴ってやろ」
 少なくとも己にはその権利がある筈だ、と。
 寝台に勢い良く飛び込みながら、オギはそう思った。








...... to be continue


 シーナとオギの存在は、保護者のようだ。こんなある意味強力な小姑いたら、坊さま大変だー!←そういう問題?

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