泣きたくなるほどに − 9 守人の姿がない石板前は、空虚な空間に見える。 自発的には何を言うでもなく、何をするでもない守人ではあるが、その存在感は強烈だ。その所為か否か、石板に近寄るものは一般兵では皆無に近い。 時折、観賞するかのように遠目でウットリと眺めている輩は数え切れなかったが。 最近の石板周りの、ある意味剣呑な気配に気付いているのかいないのか、以前のようにルック目当てで声を掛けるような輩もトンと見掛けなくなっていた。 守人もいない石板前で、文字通りぼ〜っとしているのは軍主とシーナ。 軍主の狼藉故にというルックの不在の理由を知っている彼らは、 「華がない」 等と抜かしながらもその場から動く素振りさえ見せない。 「俺さぁ、これからティントに行かなきゃなんねーんだけど」 「何かあったのか?」 「だから、何もないように。あの地域も山間で雪深いらしいから、その前に?」 冬の間ずーっと顔を出さないって訳にもいかないだろ、と面倒臭そうにぼやく。 「いよいよって段階だろ。今更寝首かかれても…だしな。何にしても、お互い信頼関係は大事だって事だ」 一度失ったら、取り返すまでにどれほどの時間と労力を掛けなければならないかなど、想像するのもイヤだとオギはぼやく。少なくとも、倍どころでは済まないだろう。ここまで来て、そんな事に費やしている無駄な時間など、ない。機嫌伺に顔を出すだけでそれが回避されるなら、当然そっちを選ぶ。 後、一歩なのだ。 どんな形であれ、戦争は終わらせる。そして、幼馴染に目にモノ見せてやるというのが、今のところオギの第一目標だった。 「って訳で、アカザかルックどっちか連れて行こうか?」 シーナは顔は正面を向いたまま、胡乱気な視線だけをオギに向けた。 「俺は、俺がいない間のシーナさんの心労を慮ってやったに過ぎないけど」 片方なら軽減するだろ?と問われ、シーナはさ〜てなと視線を戻した。 「んーなで軽減するなら、アカザ追い返してるって」 それが得策だとは思わなかったから、シーナはそうはしなかった。尤も、アカザ本人がグレッグミンスターに戻るというのなら別だったろうが……あの男はその選択をしなかった。というより、記憶を失ってから城から出てもいない。それまでは、定期的に顔を見せに帰っていたのに、だ。 暫くの間続いていた女遊びも、どうした訳かとんとなりを潜めている。 アカザが何を考え何を思っているのか、誰にも解らない。本人でさえ、解っていないのかも知れない。 だけれど、何かを模索しているのだろう事は知れた。 「もうちょい…って気が、しねー事もねーけど」 「……ド突いたら思い出さねーかな?」 腹癒せも兼ねて?というオギに、シーナは肩を竦める。 「あれ以上、脳細胞破壊してやんなよ」 相手して疲れんのこっちだぞ―――と言われれば、オギは 「ごもっとも」 としか返せなかった。 これ以上の過度の心的疲労を被る事を回避したいオギは、ホールに降りる階段手前でその元凶を捕獲した。 「………んーだよ」 元凶・アカザの声音はどこか憮然としていて、オギは気付かれない程度に目を眇めた。 「俺、ちょっくら視察行ってくるから。戻ってくるまでに、この鬱陶しい状態を何とかしてくれてると有難い」 口調は揶揄るかのようなそれだったが、本心込めてそう言うオギヘ向けられたのは、冷めた紅玉の瞳だった。 苛立っているというのが一目瞭然の表情だと、オギは思う。 「……鬱陶しいって、何だ」 「今のあんたの状態、スッゲー鬱陶しい。って、俺に言われるまでもなく自分で解ってんだろ」 アカザの精神状態が生半可でない程に最悪なのは、オギでさえ見ていれば解る。あの事故以降、ともすれば気に障る程だった余裕が一切感じられないのだ。 それはそれで、苛々させてくれた溜飲を下げるのに役立ってくれはしたが。別に、オギ自身はアカザという人間を厭うている訳でもないので、何ともいえない気持ちにもなった。 だけれど。 「………俺の所為かよ」 突き放すかのような物言いが、オギのやり場のない怒りを煽った。 「甘えんなよ。今回の事が、不可抗力だろうが何だろうが、あんたは忘れちゃならない事忘れてんだぜ?」 それでいいのかよ―――。 「忘れたのって、それが要らなかったからなんてこたぁねーよな」 殺意さえ込められた瞳を、アカザはじっと睨み返した。ふざけた答えを返せば、拳の一発でも繰り出されかねないと、冷静に思いながら。 「だとしたら、今頃あっち帰ってるんじゃねーか」 恐らくその何かを失いたくないと、それが何なのか覚えていないにも関わらず、そう思うからこそ―――この場から去る事が出来ないのだと。 そう、アカザは初めて本心を告げた。 「…………」 暫くの間、探るように目を眇めて覗き込んでいたオギの瞳が、微かに和らいでニッと笑みの型を取った。 「解ってんなら、いいさ」 不遜に言い放つと、最早興味をなくしたかのごとくに踵を返す。そして、その背を向けたままに、 「二日後の昼には帰るから。出来得る限りの善処を願いたいな、トランの英雄殿」 アカザが日頃からそう呼ばれるのを良しとしないのを知りつつ、オギは容赦なくそう呼ばわった。僅か眉根を寄せながらも、アカザは何も返せず黙したまま。 「じゃなきゃ、俺はあんたなんて認めねーからな」 オギは、逢ってからこの方アカザを英雄視した事などない。あくまで、傍に置くのは個人としてのアカザだと周囲、特に軍師辺りには明言している。それは、国家間の戦争にアカザを引っ張り出す事はしない、という牽制だった。 個としてのアカザ―――それを否定するという事の意。 言葉に含まれるそれを、解せないアカザではない。 「……あぁ」 「頭で考えんなよ。あんたは、心の赴くままに動けよ」 あんたよりはよっぽど正直者だぜ、と言葉だけを置き捨てて去って行くオギの背に、 「かも、な」 肯定を返した。 ぐるりと、ホール内を一望し、その紅玉がとある一点で留まる。 人のいない、石板。 ある筈のものが、ないという違和感。 「…………」 湧き上がる既視感に溺れる紅玉が、そっと細められた。 危うい事この上ない魔法少女の転移魔法で軍主一行がティントへ向けて出立したのは、昼を少し過ぎた頃だった。 ...... to be continue
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