泣きたくなるほどに − 11 底さえ知れないような深い翡翠の瞳に、己の姿を見なくなったのは何時からだったろう。 それは―――。 その瞳から強い意志を感じなくなった頃合では、なかったか。 重い扉が開かれ。現れた石板守の姿を認め、ストンと胸の内何かが収まる。その感覚に、自分は間違っていないと、アカザは漠然とそう思った。 「何か……用?」 だけれど、開口一番そう問われて躊躇する。 一切の感情を消し去った瞳は、いっそ少年を人形めいて見せている。ともすれば、整いすぎた容姿故に作り物ではとさえ比喩される彼の少年を辛うじて人間と認識させていたのは、その強い意志を秘めた翡翠だったからだ。 「用向き、聞いてるんだけど」 用がないんだったら近寄るな、との意を込めてルックは目の前の紅玉を睨み付けた。 これ以上掻き乱して欲しくないと、思う。 要らないと思っていた感情を植付け、刹那の安堵を掘り起こし、そして自分は忘れる。ひとり取り残され、溢れ出しそうな感情を押し殺すのにルックは必死だった。 そんな境地にまで追い込んでくれたのは……全ての元凶は、目の前のこの男だ。 「用がある、ったら?」 その男は、今後に及んでまで己の内を乱そうとする。 本来ならふざけるなと風で薙ぎ払っても障りないだろうにと思いながら、それでもそうしなかった。抑え付けてきた感情が一端堰を切れば、それ以上押し留めるのは酷く困難に思えたからだ。 「―――で、何の用なのさ」 冷たい瞳で問われ、アカザにしては珍しく言いよどむ。 目の前の少年の存在そのものを具現化したような翡翠の前では、最近いつもこの調子だという自覚があった。 どんな嘲りの言葉を向けられようと、冷めた視線に晒され様と、これまでそれを苦手に感じた事など皆無で。何者にも何事にも関与しない事を良しとしているルックにそうされる位には、認められていると…と、ある意味前向きとも取れる考え方がアカザ自身長所だと思ってさえいた。 だから、己から目を逸らしたり言葉を躊躇ったりした事など、ない。 故に、気付いたのだ。 己の失ったものは、ルックに関連するのだと。それは直感に過ぎなかったが、それを否定する事は出来なかった。 「俺は、何を忘れた?」 「又………その話?」 問うた刹那、僅かに揺れた視線に気付かないアカザではない。間違いなくこいつはそれを知っているのだと、確信しながら頷く。 「お前は”俺の中には何も有りはしないだろ”って言ったけど、それは違う」 アカザの言葉に、ルックの眉間が寄る。 「ぽっかりと埋められない空洞がある。何をやっても埋まらない、焦燥感だけを生む穴だ。そこに何かがあったって事くらい、解る」 「…………周囲に影響されてるだけ、じゃないの」 「外野が騒ぐくらいで揺らぐような、柔じゃない」 そのくらい、お前だって知っているだろうと言うアカザに、ルックは心持ち翡翠を眇めた。そうして、アカザに気取られない様にぎゅっと拳を握り込む。 「要らないから、忘れたんだとか思わない?」 そうだとしたら、そうムキになってまで思い出さなければならない事でもないだろう…と言われ、アカザは紅玉を細めた。 「……そうだとしても。何を忘れたかって事自体を俺が知らないのは、俺自身が許せない」 「記憶が戻ったら、後悔するかも知れない…って思わない?」 再びの問い掛けにも、アカザはきちんと答えを返す。 「だからって、このままがいいとは思わない。現在の本来の自分の意思を反映してない今の状態で、それを是か非かって決めるのは間違っているだろ」 アカザらしい台詞だと、ルックはじっと目の前の男を睨めつけた。昏い紅玉に何ものにもたじろがない意志と光を宿し、解放戦争時にもやはりそうやって進んでいた。 そんな様は自分とは違い過ぎていて。 認めたくないと思いながらも、それでもどこかで認めていたのだ。 「…………断言してやろうか?」 「何を」 「あんたは、絶対に後悔する」 ルックの断言に、アカザは微かに目を細める。 「シーナには、思い出さなきゃ後悔するって言われたぜ」 くつりを零れる笑みと共に告げられて、きゅっと唇を噛んだ。 「どっちにしても後悔するんだったら……知らないよりは知って後悔した方がましってもんだろ」 だから、教えろ―――そう詰め寄る紅玉に、ルックはそれまで何とか保っていた自分を揺さぶられる。 何も知らない紅玉の瞳が、全てを暴く。 「俺は、何を失ったんだ」 「ッ!」 瞼の裏が熱を持つ。 「それを、僕に……聞くの」 そうして、視界が怒りに征服される。 「そうまで言うなら教えてやるよ」 激情が、理性を仰臥する。 「あんたが忘れたのは、僕の事だ! 僕とあんたとの間に何があったのか、それだけを綺麗さっぱり忘れてるんだ」 燃える翡翠の瞳が、アカザの視線を捕らえて離さない。ただ素直に、綺麗だと。 「散々人の中引っ掻き回して、翻弄するだけしまくって! とっととひとりだけ、忘れて」 抑え切らなければ、とルックはずっと思っていた。 恐らく、この戦乱はそう長くは続かない。同盟軍の勝利という終わりは、目の前に見えていた。そうすれば……それと同時に、別れは当然訪れた筈で。 その心積もりも、少なからずしてはいた。 共にある未来など、考えられる筈もないのだから。それが少し早くなっただけだから……と、そう自分に言い聞かせていた。 アカザが忘れてくれて、良かったのだと……そう思おうと、していた。 それを今更、と。 どこまでも己を振り回す自分勝手な男に、殺意さえ込めた視線を向ける。 「僕はあんたなんて、要らない」 いっそきっぱりと告げられた言葉の意味を把握するより何より、その台詞ひとつでいきなりアカザの視界が白く弾けた。弾けた勢いそのままに、凝っていた脳内が一気にクリアになった。 全てが―――色を持つ。 そうして、今、はっきりと解った。 こいつは、俺のものだったじゃないか、と。 ...... to be continue
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