還る場処






 時がただ、音もなく逝き過ぎる。




 そんな―――。

 己が身には掠りもせずに過ぎて逝こうとする時間の中に、ひとりで居たくはないと思ったのが最初。
 だから、いつもよりは多めに着込んだ衣服の上から外套を羽織り、使い込んでよく手に馴染んだ棍と小さな荷を手に取った。調理場で年越しの料理を仕込んでいたグレミオに、二言三言言うと、彼は驚いたように…それでも数個のパンと携帯用の水筒に温かい飲み物を用意してくれた。
「ひとりで大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、ツバキたちに連れられてあちこち行ったから、グレミオと旅してた頃よりも数段腕があがったし」
 だから、心配しないで……と言い置いて、重い扉を開けた。
 重い雲がどんよりと空を覆い、昼前だというのに薄暗い。遠慮もなく吹きつける凍えるような冷たい風に、首を竦め外套の襟を寄せる。

 さぁ、行こう―――。

 彼が居る……あの場所へ。





×     ×     ×





「居ないって―――?」
 眉間に皺を寄せた胡乱臭げな表情で問われ、グレミオは困ったように 「はい…」 と小さくなった。
 相手が、自分よりかなり背丈の低い華奢な身体つきをしているとはいえ、強い意志の煌くその瞳を前にすると、何となく尻込みしてしまいそうにすらなってしまう。
 綺麗は綺麗なんですが……。
 己が愛してやまない坊ちゃんが3年前に巻き込まれた解放戦争。その折に、星見のレックナート様から遣わされた宿星のひとつだった少年ルックは、薄手の外套を纏った姿で突然グレッグミンスターのマクドール邸に、たったひとりで現れた。
「ツバキに頼まれて、サクラ迎えに来たんだけど…」
 ぶすっとした表情と、本当に不本意だという態を隠しもせずに、腕を胸の前で組んだ姿勢のまま最低限の言葉しか発しない。
 3年前はこましゃっくれた、いたずら好きの子供―――という感が否めなかったが、あの頃と比べると、子供っぽさが抜け落ち着きさえ覗かせていた。けれど、毒舌やつっけんどんなその物言いは当時のままで、微かな違和感を感じさせる。
 自分が居なかった間、この綺麗な少年がサクラの側に居たのだと、グレミオはサクラ本人から聞き及んでいた。
 どうしようもなく寂しかった時や、恐怖に縛られて身動きすら取れなかった時。そんな時に、ただ、何をするでも何を言うでもなく……側に居てくれたのだと。
 ―――だから、自分はあの戦争時、最後まで立って居られたのだと。
「……で、どこ行ったの」
「ブラックベリー城まで…とおっしゃってましたが?」
「…………いつ出たって?」
「昼前です」
「…………雪が降りそうだとか思わなかったの?」
 言外、強い口調で問われる。微かに翡翠の瞳が眇められて、機嫌が悪いようだとグレミオは思った。
「そう、ですね」
「呆けたこと言ってるんじゃないよ! この辺じゃあまり降らないだろうし、降っても知れてるだろうけど、山間や峠辺りじゃ雪は深くなるんだから」
 こんな空模様の時に、たったひとりでの峠越えなんて許すんじゃないよ! ―――と、思い切り叱られてしまう。しかし、叱られながらもグレミオは嬉しかった。
 ちゃんと、心配してくれているのだ…と。
 サクラがルックのことをどう思っているのか、詳しくは尋ねたことがないので想像するしかないのだが、それでも彼のことを特別気に掛けているだろうことは容易に知れた。
 共に旅した3年間。どこ行く宛てもなく、ただ足が向いた方へと彷徨っていただけの時間に過ぎないそれ。それでも、その時間はサクラという人間には必要なものだと思ったから、何も言わずに付き従ってきた。
 戦争時の話題が口にされることはなかったが、それでも時折生意気な風使いの少年の名が、思い出したように彼の唇から零れたから。
 ルックの名が口にされる度、寂しげな表情の上に、どこか穏やかで嬉しそうな顔を覗かせたから。
 あの凄惨としか言い様のない戦争時でも、得られたものがサクラにはあるのだと……ただ嬉しく思ったのを覚えている。
 そのルックが、ちゃんとサクラの心配をしてくれてる…と思うと、笑みが零れるのを止められなくて。
 にっこり笑って見せると、ルックは訝しげに眉根を寄せた。
「迎えに行って下さるんですよね」
 それは問いではなく、確認―――。
 途端に思い切り渋面を作り睨み付けてくる少年の顔。
「…………あいつが何であんな性格なのか、やっと分かったよ」
 そう言うと、深々と溜め息を零した。





×     ×     ×





「……厄介だな」

 視界を遮るのは降雪。
 微かな風にさえ煽られ、上と下から視界を埋める雪に正直閉口していた。雪の所為か、現れるモンスターが殆どないのが救いといえば救いかも知れないけど。
 否、もしかしたらモンスターの方が良かったかも知れない。前後左右全く見えない上に、自分が今現在どこに居るのかさえ曖昧で。
 その上、一歩踏み出すにしても普段からは及びもつかない程の気力が居る。かじかんだ足と手の指の感覚は、最早ないに等しい。
 ―――今、己の周りの全てが白だった。
 視覚で感じるそれもそうなのだけれど、意識の中にもその色を持たない白が迷い込んで己が内を侵食してゆく。
 不思議と怖いとかいう感情はなくて。
 それどころか、その中に全てを浸していたいとさえ思う自分が居る。
 振り払ってしまうには、甘美なその誘惑。
 呑まれそうな意識に、瞼が落ち。
 ―――その瞬間。
 眼裏に鮮やかなまでに浮かぶ翡翠の瞳。
 朦朧としかけた意識が、一気に覚醒する。
 駄目だ……還らないと。
 きっと、彼は待っててくれてる。
 いつもの場所で、いつもと変わらない表情で。
 こんなところで寝てちゃ、絶対彼には逢えない。

 逢えない―――?
 
 それだけは、絶対に嫌だ。
 奮い起こした気力で、降り積もった雪に埋まっていた足を持ち上げようとしたその刹那。
 不意に―――。

「……こんなとこで、何やってるのさ」

 静寂を破る、それでいて静かな淡々とした声音。
 驚いて声のした方を振り返ると―――。そこには、
「……ック?」
 くすんだ鳶色の外套を小さなその身に纏った、求めて止まない風使いの姿。
「寒そうだね……」
 そう言う自分の声が、どこか震えているのが可笑しくて。笑みを浮かべようとしたのだけれど、寒さで半ば固まった顔では上手く表情を作れなかった。
「……どっちが、」
 呆れたように渋面のまま睨み付けてくる―――翡翠の瞳。
「何だって、ひとりでこんな所に居るのさ。そもそも、雪が降ってるんだから、峠越えは危険かも知れない…とか考えない訳?」
 ……心配してくれたんだろうか。ルックにしては口数が多いし、口調も苛立ってるみたいだ。
「うん、ごめん。…でも、ルックに逢いたかったから」
 途端に、ルックの頬が朱色を乗せる。雪のように白い肌に、その朱色が綺麗に映えて思わず見惚れてしまう。
「……相変わらずっ! 呆けたこと言って」
「そうかな…?」
 寒さで開くのさえ億劫な唇なのに、言葉がすらすらと出てくる。
 身体の方は冷え切っていながらも、その内側はどこかほくほくと暖かかった。
 さっきまでの己がまるで嘘のようで、たったひとりの彼の存在がこれ程までに僕に生を吹き込む。
「―――どう、したいの?」
「…………えっ?」
「……置いていって欲しいんなら、そうしてあげる。あんたは……」
 翡翠の瞳が…その瞳の色だけが、降り注ぐ雪に遮られることもなく視界を埋め尽くす。
 ―――どうしたかったの?
 どこか表情を無くしたその瞳が、問い掛けてくる。僕の返す答えを、じっと待っている。
「……還るよ?」

 だって……ここには、君が居ない。

「僕が居たいのは……君の居る処だよ?」
 返した答えに、微かにルックの表情が柔らかく和む。
 ―――安心? してくれたんだろうか……。
「…なら、おいでよ」
「…………えっ?」
「連れて還ってあげる。だから―――」
 僕へと向けて伸ばされた腕。細く頼りないその腕。だけど……。
 その腕は、きっと僕が一番欲しかったもの。
 何も言わずに、僕を包み込んでくれる。
 そして、居場所をくれる。
「手を取って……」
 重かった筈の足。もう一歩も踏み出すことさえ出来ないと、一瞬でも思ってしまったのに……。
 なのに、ちゃんと足は雪の中から踏み出せた。
 きっと、ルックだったから…。彼が差し出してくれた腕が、その想いがただ嬉しくて。
 歩みにしてたった5歩。たった、それだけの距離。そんな僅かな距離さえ、僕達の間にあるそれが許せないから。
 一歩、一歩―――距離を縮めてゆく。

 後、2歩。

 後1歩。

 ……やっと、…………捕まえた。










 転移を果たした先は見覚えのある場所で、それでも何で? とか思ってしまう。
「…何でいきなり風呂な訳…?」
 それも、湯船じゃなくて洗い場。見覚えがあるのも当然で、何度もツバキに誘われて入浴したことのあるブラックベリー城の本拠地名物、ヒノキ風呂だった。
 まぁ、確かに風呂場いっぱいの湯気は凍えていた身体をゆっくりと解してゆくようで、心地いいんだけど……。
「いきなり熱い湯の中はまずいんじゃないかな…と、思ったからね」
 ある程度強張りが解けたら、湯船につかりなよ、と言われた。
「うん、ルックも入ろうよ」
「僕は大丈夫だよ。それより……いい加減離してくれない?」
 両腕で抱き締めたままのその態勢に、ルックの口から苦情が発せられる。
「えー、だってこうしてると、温かいよ?」
 お風呂一緒に入ってくれないんだったら、このくらいいいよね…? 嫌だったら一緒にお風呂ね♪ 極めてルックには不利な選択肢を挙げると、不本意そうに溜め息を零すのが分かった。
 だって……本当に温かい。
 触れ合ったそこここから、緩やかにぬくもりが身体を満たして行くようで…。
「ねえ、ルック?」
「……何さ」 不貞腐れた声の調子はそのままだったけど、ちゃんと答えてくれて。
「さっき……僕があのままあそこに居たいって言ったら、どうしてた?」
 ふと、思い付いて問い掛けてみれば、
「愚問だね」
 ぐいっと胸許を押し返され、向かい合う形になった。おまけに、剣呑さを隠しもしないその瞳で、思い切り睨み付けられる。
「転移際に、湯船の中に落としてあげてたよ」
 苦笑が零れる。……尤もだね。僕だって、立場が逆でルックがそういう返答をしたら、やったかも知れない。
「でも、何で分かったの?」
 僕の居た場所が。
「……あんたはそれで」 と、僕の右手の甲を指示す。
「ある程度離れてても、僕が居る場所が分かるよね」
 紋章同士は共鳴する。
 3年前ルックからそう教わった。最初の頃はどうやればいいのか分からなかったけど。確かに、真の字を戴く紋章同士というのは、互い互いに共鳴という形でその存在を誇示しあうらしい。
 3年前の戦争時に、紋章を使ってのそれを覚えた。
「いつもは抑え込んでるだろ、紋章の力。でも、あの時は……」
 やたら紋章が活気付いていたんだよ―――と、抑揚のない口調で告げられる。
「……あんたが、一瞬でも"そいつ"に呑まれても構わない……って思ったからだ」
『―――どう、したいの?』
 ……だから、あの台詞。
「あんたが……それを本当に望んでるんなら、引き止めるべきじゃないのかも知れないって思った。本気でそう思っているんだったら」
 ルックは翡翠の瞳を揺らめかせ、じっと視線を逸らそうともせずに見つめている。
「それもいいのかも、って。…………でも、」
「……ック?」
「僕は……嫌だったんだ。あんたに逢えなくなるのは。側に居られなくなるのは、嫌だ…って」
 滅多にない素直なルックの告白にも驚いたけど。恐らく……心配させたんだろうことの方が、僕を居た堪れない気持ちにさせた。
「うん、ごめんね」
「…………あんたって、本当に…馬鹿」
 ことりと肩口に額が押し付けられて。
「ごめんね」
 そのまま、ゆるりと腕の中に囲い込んだ。
「ごめんね、ルック」
 纏ったままの外套の胸許を、ぎゅっと握り締めてくるから。
 そうして、ずっとずっとその儚い背を抱き締めていた。
 ごめんね……そう掛ける言葉に、彼が頷いてくれるまで……。





×     ×     ×





 きっと……。
 どんな人たちにも、どんなモノにも、時間は平等に与えられたもので…。

 ―――だけど、それは。

 僕の上にも、君の上にも掠りもしないで過ぎて行くから。
 刻という枠からはみ出してしまった僕らは最早、人ではないのかも知れない。



 ひとりだったら……。
 こんな風には、受け入れられなかった。

 ―――君が居てくれたから。
 自分たちには何の変化ももたらさない、新しい年を迎えるというこの事実さえ、自然に享受できる。


 だって……。
 触れ合ったこの温かさは本物だから。
 その場所から生まれる熱も、この想いも、ちゃんと本当だから。
 君が……君だけが、僕に命という時間を与えてくれるから。



 だから―――。

 ずっと、触れ合っていよう。





 ねぇ、ルック。

 君が居れば、もう…何も怖くない。








...... END
2001.12.31

 お年玉小説〜。
 こんなので?って感じですか? 変だなー。甘々狙ったのに…。っていうか、ルックが……変! 素直過ぎて……後の反動が怖かったり(苦笑)。
 その後はこちら

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