ツメタイ瞳 前編






 その瞳を初めて見た時、冷たい瞳だと思った。
 凍り付きそうな程に、冷たい―――と。

 でも、視線を囚われたのも事実。
 離せなくなった視線を前に、冷たい瞳は微かに溶けた。



 ふっと合ったそれに、たった今気付いたかのような色を乗せながら、それでもその子供はキッとこっちを睨みつけてきた。
「何て事、してくれるの」
 どこか怒っているかのようなその声音。
「何てコト…って」
 魔獣に襲われかけていたから、助けただけだ。
 どう見たって、10歳くらいにしか見えない子供に襲い掛かる魔獣を見て、助けない奴が居たとしたら、そっちの方が変だろ。
「邪魔しないでよ」
「…………はぁ?」
 邪魔…? って、何の邪魔?
「死にたかったのか……?」
 邪魔しないで…と言われたら、そうとしか思えない状況だったんだけど。
 だけど、目の前の少年は呆れた様に目を眇めてこちらを睨み付けてくる。
「―――馬鹿?」
 ……むかつく。

 改めてみると、本当に人間なんだろうか―――って思ってしまうほど綺麗な子供だった。
 けぶる翡翠の瞳に長いまつげがその影を落とし、透き通るような肌には色さえ感じず。桜色の小さな唇と、強い意志を秘めた瞳の色が子供に生を与えていた。
 黙って佇んでいさえすれば、出来のいい人形然としたその姿。その背から翼が生えていないのが、正直不思議な気さえする。
 こんな、人が踏み込むことさえ拒絶するかのような深い森の中。
 明らかに場違いな少年。
 もしかしたら、本当に人間ではないのかも知れない……。
 そう思ってじっと見つめていると、胡散臭そうな瞳を投げられた。
「何、何か用なの?」
「……いや、用っていうか……」
「用がないんだったら、どっか行ってよ」
 こんなところにひとりで置いてけって? んーな事、 「出来る訳ないじゃん」 。
 思わず言葉が零れた。
 いくら俺が、考える事の煩わしさからひとりでこんな場所にやってきたとはいえ……。別に人と関わり合いになるのが嫌だからって訳じゃないんだし。欲しかったのは……ただ何も恐れずにいられる時間だ。側に人が居れば…どうしても考えられずにはいられない悲喜こもごもの事柄に疲れたからだ。
 300年近くも生きてきて―――未だに慣れない。
「こんなとこ、子供が居る場所じゃないし……。日が暮れると、魑魅魍魎の類だって出てくるかもしれないだろ」
「…………僕がその魑魅魍魎かもしれない…って考えない?」
 小さく返された台詞に、それもありかもなと思った。容姿といい度胸といい人間の子供離れしている。
 いっそ、そうだと告げられた方が納得がいくんじゃないか…とさえ。人を惹き込むには、この器量は打ってつけだろうし。
「そうかもな〜」 知らず納得して頷けば、むっと不機嫌な表情になったそいつは 「……つまらない」 と、むくれた。
 あぁ、何だ。やっぱり人間じゃん。そんで、…可愛いじゃんか。
 そいつが初めて見せた年相応の仕草に、何となく余裕が出てきた。300歳だって怖いものは怖いからな。
 何となく緩んだ表情に気付いたらしい少年が、唐突にふいっと踵を返す。
「あっ、おい―――」
 何処に行くんだ? と問い掛ければ、 「帰る…」 言葉少なに返してきた。
「帰る……って何処に」
 ざっと周囲を見回してみるが、鬱蒼と茂る雑他な種類の草々とか天を覆い隠す樹木の葉しか目に付かないし……。それこそ、人の気配なんてしないんだけど。
 やはり、物の怪の類なのか―――。
「レックナート様」
 でも、その子が何もない空間に呼びかけた刹那。
 次元を掻き分けるように……歪んだ隙間から感じた、その波動。右の手、甲にジンジンと響いてくるようなその感覚。
 正直、ぞっとした。
 ぽっかりと穴を開けたかのような、その暗闇に少年が何の迷いもなく一歩を踏み込む。そして、ふっと気付いたかのようにこちらを振り返った。
「あんたは……ここに居るの?」
 問われたことの意味を図りかねて、 「えっ?」 と訊ね返せば、
「居たいんなら居てもいいけど? この辺の魔物強いから気を付けてね」 そう言い置いてさっさと踵を返すその後ろ姿に、
「―――ちょっと待て!!」
 思わず声を掛けていた。
「…………何さ」
 面倒臭そうに振り向かれ、むっとしてしまう。
 もう少し、年長者を敬うって事知れよ。可愛気ないしな。まぁ、その分顔が可愛いからいいのか?
 こんな顔してて、性格まで良かったらはっきり言って別の意味で嫌味だろうし。
「命の恩人、そんな物騒なとこに置いてこうっていうのか」
「……助けてなんて頼んだ覚えないんだけど?」
「あーゆう場合、頼まれなくても助けるだろ! 普通、人として!」
「だったら、そういう普通のことして、それに見返りを求めるなんていうのは、普通しないんじゃない?」
 くうー、頭の回転速いじゃねーか。痛いとこ突いてるしな……。だから、賢いガキって嫌いなんだよ。いや、俺が賢くないって認めてる訳じゃなくてなっ!
「…………そうだけど、!」
「……ここに居るのが怖いんだったら、何でこんなとこに来るのさ」
 尤もだ、尤もなんだが…………。なんつーか、
「考え事してたら、何時の間にかこんなことまで入り込んじまってたんだよ」
 っていうのが正直なところ…だったりする。情けないけどな、いいんだよ。こんな聡い子供相手に見栄張ったって、所詮付け焼刃だろ。
 人間正直なのが一番だって、昔じいちゃんもよく言ってたし。俺もそれには賛成だ。ま、事によりけりだけど。
「………馬鹿?」
 あっさりと言われ、返す言葉もなく項垂れてしまう。確かにな、迷い込んだって気付いた時にそうかも知れないって思ったんだ、実は自分でも。でも、他人に……それも、こんなガキに言われるのは腹が立つ!
「連れてってあげてもいいけど、」
 そう言ってガキはちらりとこっちに視線を向けてきた。
「あんた、飯炊き出来る? 後、掃除とか…」
「……おさんどんやれってか?」
「嫌ならいいよ―――」
 選ぶのはそっちだと暗に言われ、選択権を与えられているにも関わらず、やっぱりムカツク。こいつの言い方の所為か?
「やるよ、やればいいんだろっ!」
 ムカツクけど、この状況じゃここに残るって選択肢は選べない。マジ、迷子ってたんだから……。それこそ、飢え死にとか魔物に殺られてしまってる可能性が大で。人影を見つけたときは、本気でほっとしたんだ。
 一応、難儀なもの宿してるとはいえ、本体は人間なんだから―――。
 それに…………目の前でぽっかりと開けた暗闇から感じられる波動が気になって仕方ない…ってういのも、その選択肢を選んだ要因のひとつだ。
 きっと、この先には、俺と同じモノが―――居る。それは、確信だった。
「あんた、本気で来るの?」
「そのあんたっていうの、やめろ! 俺はテッドって名前があるんだよ、っていうか! 俺の方が年上なんだから、 『お兄さん』 くらい言えよ」
 そう言うと、思い切り鬱陶しそうな視線を向けられた。 「……呼んで欲しいの? お兄さんって?」
 心底嫌そうに言われ、がっくりと肩が落ちてしまった。
 何となく、こいつには呼ばれたくないかも知れない……。
「―――テッドでいい」
 当然というように踵を返され、 「来たいならくれば?」 とその態度で言われ、渋々その後に続いた。

 暗闇に一歩、踏み込んだと感じた瞬間には、どこかの建物の中で。
「…っれ? えっ???」
 一瞬の出来事に、呆気に取られてしまう。
 背後を振り返って見ても、そこには建物の柱と長い廊が続くばかりで…。確かにあった筈の扉は、既に閉じられていた。
「何きょきょろしてんのさ」
 行くよ―――と促され、納得がいかないとは思うものの、これが紋章が関わった事ならば、これも有りかも知れない……と何とか言い聞かせた。
「で、何処行くんだ? ここって何処だよ?」
「…………あんた、五月蝿い」
 黙ってついて来い―――って事か、それ以降何を訊ねても答えを返してこない。
 ……ガキっぽくないガキ。
 まぁ、五月蝿いガキも嫌いだけど……。
 そう考えてむっと眉根が寄ってしまう。まさかとは思うけど、……俺って五月蝿いガキ並か?
 言えてるかも知れない……というか、恐らくこいつの認識ではそう取られてるっぽいよな……。何か、むかつくっていうより―――情けないかも。
 一体、どういう育て方をしたらこんな無愛想で冷めた子供になるんだ? 親の顔が見てみたい…ってーか、もうすぐ会えるのか? それさえ、教えてもらってないんだけど。
 まぁ、別の意味でも親の顔は見てみたい…かな。だって、マジ、綺麗な面してんだもんよ?
「―――レックナート様、ただいま戻りました」
 突然耳に入ってきた誰かにそう告げる声に、はっと面を上げる。
 そして、すっと背筋を伸ばした。
 身体全体に緊張が走る。
 一歩足を踏み入れたそこは、簡素な造りの大きな部屋。
 装飾の類なんて一切なく、それでも落ち着いた風合いのその部屋の中央に置かれた安楽椅子に、その女性は腰掛けていた。
 静かなその風情に、緊張を強いられていた己の背筋からちょっと力が抜ける。
 閉じられたままの瞼が、こちらに向けられ瞬間―――背筋がぞっと凍り付いた。
 静かで穏やかな笑み。けれど、その身から伝わってくる感覚は……。
 正しく、己が身に巣食うモノと同種。
 強張ったままの俺に気付いた様子もなく、部屋に座する主は微かに口許に笑みを刷いたまま、
「お客様ですか? ルック」 ―――静かに目の前の少年に問い掛けた。
 否、気付いていない筈はない……と思う。
 なのに、その女はそれをおくびにも出そうとせずに。
 右手の甲からチリチリと身体中に広がっていくこの感覚さえもが、自分の錯覚なのか…とさえ思ってしまう程に。
「はい、レックナート様」
 控えめな…それでいてはっきりと返事を返すその様に、思わず呆気に取られてしまった。
 ……おい? 何か……えらく素直じゃないか? それに、ルックっていう名前なのか…初めて知った。
 こいつ自分の名前言わなかったからな。まあ、聞かなかった俺も俺だけど。
「森で迷ってた子供です」
「―――おいっ!」
 お前が! 子供って言うかーーー! どう見たって、俺の方が年上だろーよ!! いくら、俺が童顔だっていったってだな!!!
「あの程度の森で迷うなんて、子供の証拠でしかないんじゃない?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」
 ちっくしょー、反論できねーーーー!
 つーか、つーか、つーーーか! 何でそこまで言われなきゃなんねーんだ?
 あー言えばこう言う状態のこいつを前に、地団太を踏みそうになってしまうのをやっとの態で抑える。
 それやっちゃー、子供って言われても反論出来ねーじゃんっ!
「そうですか、わたくしはレックナートと申します。貴方、お名前は?」
 俺とこいつのやり取り取りを聞いていないわけではないだろうに、淡々と聞いてくる。
 ………図太いのか? それとも鈍いのか。
「……テッドだけど」
 何となく面白くなくてぼそりと呟くと、小さくその白磁の面に微笑を浮かべた。
 あぁ、こんな事で不機嫌になってるようじゃ、ガキ扱いされても文句言えねぇかも。
「ゆっくりしてらして下さいね」
 にっこり微笑まれてそう言われ、がくりと肩が落ちてしまった。
 己のコレを狙っているのかも知れない、と正直かなり身構えていた。しかし、どう見てもそうは窺えない笑みに、もうどうでもいいや…と一気に緊張が解ける。
 何か、色々あって疲れたし……。
 なるようになるさ―――と、ある意味前向き(かな?)に考える事にした。
「じゃあ、早速だけど」
 そう言って、箒と塵取りを手渡される。
「―――はっ?」
「掃除頼んだよ」
「…………っと待て!」
 お客じゃないのか? さっき、そこのレックナートだって言ってたじゃんっ!
 思い切り不本意そうな顔をしていた俺に、このガキはいいけしゃーしゃーとのたまってくれる。
「おさんどん、やるって言ったのはアンタだよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ! やるよ、やればいいんだろっ!」
 大声で怒鳴ってやると、 「"働かざる者食うべからず"っ言葉知ってるよね」
 追い討ちのように問い掛けてきやがる。
 はいはいはい、仰る通りでございます。
 渋々掃除用具を抱え直す俺に、 「奥の部屋からやってくれる?」 と、指図してくる。
「了解致しました!」 ムカツクから、投げやりに言ってやる。
 そんな俺達のやり取りに、レックナートはその笑みを崩すことなく、静かに微笑んでいた。

 …………何 なんだかな〜、調子狂わされっぱなし……。






 部屋をふたつ掃除し終わった頃に、ルックはやっと 「夕飯出来たけど…」 と、呼びにやってきた。
「食べる?」
「働いたからな」当然だろと胸を張ると、微かに眉根を寄せた。
「…………よく、分からなかったから……」
 食事の用意をしてあるのであろう部屋に俺を誘いながら、ルックは小首を傾げている。
「何が?」
「……どんなものを、どのくらい食べるのか―――とか」
「不味くても大概のものは大丈夫だし、量だって普通だと思うけど」
 そもそも路銀に余裕のない旅なんてしてたら、暖かい食い物に有り付けるなんて事だけでも有り難かったりするし……。
 どうやら、この塔みたいな無駄にヒョロ高い建物――掃除している時に窓から首を出して確認した――にはあのレックナートとこいつしか住んでいないらしい。掃除した部屋だって、取り敢えずあるだけ…って感じだったし。他に人の気配が全くない。
 その時に反対側の窓からも外を覗いて、どうやらここはそれほど大きくない島である事も知った。
「なぁ、ここって何な訳?」
 聞いちゃ悪い事かな〜とも考えたけど、だったらこいつは何も答えないだろうと思って訊ねてみた。
「赤月帝国お抱えの星見」
「……はっ?」
「レックナート様は、帝国専属の占い師だよ」
 あぁ、そういえばそういうの聞いたことがある。赤月帝国では、政の決め事とかそれの最終結論を星見の結果と照らし合わせてから決定するらしいとか―――。あれって、本当だったんだ。
 ……っていうか。
「あのルックナートってお前の母親じゃないんだ?」
「…………………当たり前だろ。レックナート様は師だよ」
「弟子ー? お前一体いくつだよ」
「…………いちいち五月蝿いね。12だったと思うけど?」
 それが一体なんなのさ、と辛辣な視線でもって睨まれた。
 12!? どう見たって、10くらいにしか見えないんだけどっ? このくらいの年での2歳ってかなり違わないか? 小さ過ぎるだろ、お前!!
「ちゃんと、飯食ってんのか」
「……小さくて悪かったね、」
 俺が言いたかった事が、ちゃんと解かったらしい。
 それとも、レックナートにでも常日頃から言われているのか。
「ここだよ」
 入るように促されたとこは、それなりに大きな部屋だったけど、そこに置いてあるのは8人くらいが食事するのに丁度いい食卓台に椅子が2脚。
 食卓台の上には、湯気の立つ料理が盛られた4、5皿に、山盛りのパンとスープが入ってあるであろう皿がひとつだけ。
「…………お師匠さんは?」
「ルックナート様は、いつも自室で食事なさるよ」
 嘘だろ? それって、こいつもひとりで食ってるって事だろう? 何で一緒に食わないんだ? ……っていうか、食ってやらないんだ? こんな広い部屋で、ひとりで食ったって美味しくないだろ。
 そう思って、ふっと気付く。
「何でスープひとつな訳?」
「何でって…食べるんだろ?」 不思議そうに訊ねられて、ちょっとむっとする。
「そりゃー、食うけどっ! お前は?」
「…………?」
「飯って誰かと一緒に食った方が、絶対美味いと思う訳、俺的には!」
「……誰かって?」
 訝しげに問われ、おいおい―――と本気で頭を抱えたくなる。
「お前しか居ないだろ? っていうか、お前は食わないのかよ?」
「…………一緒に、食べる?」
 キョトンとして、まじまじと俺の顔を見てるから、一体どういう環境で育ったのか不思議に思った。だって、普通の家庭に育ってれば、それって普通の事だろ?
「―――そうだよ、飯ってーのは大勢で食べた方が絶対美味いし、量だって入るんだよ。一緒に食おうぜ」
 そう言っても何も返さないから、厨房の位置を見てずかずかと入り込む。きちんと手入れされてるらしく、厨房にしては綺麗なそこにスープの鍋を発見した。適当な皿をそこいらから取り出して注ぐと、匙も漁ってから部屋に戻る。
「さー、食おう!」
 用意されてた席の真正面にその皿と匙を置くと、俺は反対側に回った。
「ぼさっとしてんなよ、冷めるだろ」
 まだぼうっと突っ立ってるルックに、声を掛ける。それでも、一歩を踏み出せずにいるから、
「飯、食おう? ―――ルック」
 初めて名前を呼んでみた。
 そしたら、一瞬大きく目を瞠って……そして、ゆっくりと歩を踏み出した。

 オズオズとしたその様子は、人慣れない子猫そのままで。
 我知らず浮かんでくる笑みを隠すのに、多大な苦労を強いられた。









 世慣れてないよな…。
 こいつの観察はなかなか興味深い―――そうしみじみ思ったのは、ここに来て三日目。
 知識とかは俺以上にあるらしい(……それはそれで問題かもな)のに、ルックが擁しているのは本当に知識として…であって、実際には一般的に…と世間がいう常識からは、かなりずれている。
 ある意味、こいつは純粋培養の子供だった。
 世間に出たら、ひとりでは生きていけないって奴だ。
 知識だけあっても、それを利用する事を知らなければ、それは宝の持ち腐れってもんだろ。
 どういう経緯でこいつがレックナートに預けられたのかは知らないが、預けられる以前も世に言う普通の家庭ってやつで暮らしてた形跡がない。
 ここに来たのは7つくらいだった―――って事だから、それくらいの年ならあって当然の生活感ってやつが感じられない。
「お前ってどんなとこで育った訳?」
 そう聞くと、憮然とした表情で 「どうでもいいだろ、そんな事」
 と返されるから、その事には触れられたくないのだろうと思った。
 自分の事には、全く触れられたがらない。
 さり気なく振った問いも、綺麗にはぐらかされる。
 まぁ、俺だってそこそこに知られたくない事がある訳だから、深く追求するなんて事はしないけど。
 それ以上に、時折触れてくる何かが……気になった。
 だけれど。まさか、そんな事がある筈ない―――って、半ば自分に言い聞かせた。






 そんな、ある意味平和な日々が続く。
 今日も掃除に明け暮れる俺。別にいいんだけど…な。
 レックナートは多分俺の素性とか知ってるだろうに、余計な詮索とかしてこないし。
 ルックは、たまに毒舌をはいてくるけど、慣れれば可愛いもんだし。観察のしがいもあるし―――。
 こんなとこでも、楽しもうと思えば案外楽しめるもんだ。
 それに、何かに絶えず圧迫されてるような緊迫感が、ここに来てから薄らいでいるような気がする。
 あのレックナートだって真の紋章持ちなのだから、それなりに守りの呪を島全体に張ってるのかも知れないよな〜。
 箒の長い柄に顎を乗っけて、ぼーっと考えを巡らせる。こんな所をあの小生意気なルックにでも見つかったら、又雑言を浴びせられそうな気もしたけど…。
 あいつとのそんなやり取りも楽しめるようになってたから、別に見つかったっていいんだけど。
 今日は出掛けてる筈だ。
 昼飯を食ってから暫くして、あの空間が開かれたのを感じたから。
 …………又、あそこに行ったんだろうな。
 そう解っても、それをやめろとか言う気にはなれなかった。危険だということは、解かってるのに?
 あの時、初めてルックに会った時―――。
 魔獣を前に、何かを思いつめているように見えた翡翠の瞳が、そう言うのを躊躇わせる。
 ……何かあるんだろうけど。
 それは解るのに。
 そこには踏み込むな―――と、俺の中で何かが告げるから。
「だけどなぁ……」
 あいつのあの年で…というのが気になるんだよな〜。12っていったら、全然子供じゃんか。あんな頃から何をそんなに背負ってるっていうんだ?
「…………ちょっとでも頼って欲しい、ってのは贅沢かなー」
 こんな厄介なモノを宿してる身で、これ以上余計な荷を増やすっていうのも何なんだけど……。
 いっそ、他人事の方が気が楽だから。
 せめて2、3年―――側に居てやったって、いいんじゃないかとさえ思う。
「―――――、レ?」
 物思いに耽っていた俺の右手の甲のソレが、突然チリッと何かを告げてくる。それと同時に、あの空間を無理やりに抉じ開けるような空気。
「やーっと、ご帰還か―――」
 この位置って、丁度それが開かれる場所の真正面だから。
 一番に 「お帰り」 って言ってやれる。
 久しぶりのその台詞は、どこかくすぐったくて…だけど、どきどきする。
 やがて…闇しかない空間から現れる小さな子供。
「―――――お帰り、ルッ……ク?」
 声を掛け、違和感に気付く。
「――――ルック?」
 濡れたように重い色を乗せる髪……否、血?
 浅葱色の法衣が、髪から滴るそれで緋色に染まる。
 そうはっきり把握した瞬間、それまで気丈に立っていたルックの膝が折れた。
「っ、おい! ルック?!」
 寸でのところで、伸ばした腕に抱き留めた。
「―――ルックッ!」
 べっとりと髪に濡らす血。
 腕の中で仰向けに抱え直すと、血の気の無い蒼白な面が視界に飛び込んでくる。
 出来過ぎた人形然としたその姿に、ぞっと背筋が凍り付く。
「ルック――!」
 再び名を呼びながら揺すると、長い睫がぴくりと瞬き…その奥の翡翠の瞳が次第に露わになるのを見て、ほっと息を吐き出した。
「………んなのさ、五月蝿いよ」
 いきなりのらしい台詞と、どうやら大丈夫らしい…という安心感から、何だかむかむかとイラついてきた。
「――――何言ってんだ! んーな血だらけな格好して帰ってきやがって! いきなり倒れられたらびっくりして当たり前だろ!」
「………何でそんなに怒るのさ」
 すっと目を細めて、不思議そうに問うてくる。
 何で……って!
「〜〜〜〜〜心配して当然だろ!!!」
 普通の事だろ、それって! 
 なのに、何でそんな途方にくれたみたいな顔してんだよ―――。
 何にも言えなくなるじゃねーか……。
 それとも…………人だったら普通に感じる、そんな事さえ知らないのか?
 そう、なのかも知れない。
 ルックが腕の中から身を起こす。微かな重みを感じさせる身体が遠ざかってゆくそれは、酷い喪失感を伴った。
「……あんた、心配し過ぎ。ちゃんと、水の紋章付けて行ってる」
 だから……大丈夫だって?
「僕は――――――死なないよ」
「……っ、そんな事っ!」
 そんなの、解からないじゃないか。
「僕は、死ねない」
 台詞の意味を計り損ねて、その血に汚れた顔をじっと凝視する。
「僕は……まだ何も成してない」
「――――何?」
 成してない……って何だ?
「……関係ないよ」 あんたには―――。
 すっとツメタイ瞳で拒絶される。
「だけど………っ」
 それは、痛みを伴って胸を苛んだ。
「だけど! そんな怪我までして、」
「これは……僕がしくじっただけだ」
 何で、こんなガキに振り回されて怒ったり心配したりしなきゃなんないんだよ、俺。
 そう思うのに……。
 なのに。
 どうしても、放り出す事が出来ない。
 関係ないって言われても、それでも突き放せない。
「当たり前だろ! お前、ガキなんだからっ!! ひとりであんなとこ居て、無事で居られるなんて考える方が変だろ!」
「でもっ!!!」
 激昂仕掛けた俺を、ルックの声が留めた。
「でも……約束だから―――」
「はっ?」
 約束……って何だ。
「レックナート様と約束した。あの森で、本来持つ力を解放出来るようになれば、道を示してくれるって!」
 本来……持つ力―――って、何だよ。
 それに……道って、何なんだ。
 聞いてはならないような気がする。こいつから……離れられなくなりそうな予感がする。
 それは……キケンだ。
 ひとりの人間に執着するのは―――喰ラッテシマイカネナイ。
 だけど………。
「レックナートって…一体、お前の何だよっ!」
 そんなに師の言い付けが大事なのか。己の身を危険に晒してまで、師である彼女の言い付けを護らなければならないのか……。
「レックナート様は……」
 ルックの翡翠の瞳が、どこか遠くを見やる。
「僕に、 『僕の望む未来』 への道を指し示してくれる人だよ」
 あまりに遠いその瞳に―――遣り切れなさが募る。
「お前の望む未来……って」
 ――――――何だ?
 そう問うと、微かに視線が揺らいで。
「……さぁ? 何だろうね」
 小首を傾げて返されたそれに、胸が痛くなった。
 こんなに小さくて儚いその背に、俺の何十分の一も生きてない子供なのに、こいつは何を負って、何を思って生きているんだろう。
 それは、重くはないんだろうか。
 苦しくはないんだろうか。
 見てる方が痛々しい。直視が出来なくなるほどに。
 無意識に反らした視界に、髪を濡らす血痕が入ってくる。
「髪に血がついてる…」
 傷は癒しても、流した血は消し様がない。いつもはさらさらとなびく薄茶の髪にこびり付いた血が、生々しく視界を染める。
「…………ん…」
「洗ってやるから、来いよ」
「……えっ?」
 きょとんとしてこちらを見上げてくる。
「禊……行くんだろ」
 そう言って、腕を強引に引く。軽い身体は、それこそその重さを感じさせないままに引き寄せられた。
「ちょ、痛いっ!」
 抗議の声を上げるルックを、そのまま引き摺って湯浴み場まで連れて行く。
 ―――綺麗な子供。
 血に濡れた…………子供。
 綺麗な――――――だけど、その命の緋色が醜悪に見えた。
 とてつもなく……卑しく感じられた。
 こいつに綺麗なままでいて欲しいっていうのは、俺の我が侭か…。
 掴んだ腕を解こうとしているのか、ルックがやたら腕を振り回す。だけど、禊をさせるまで、この腕を解く気にはなれなかった。
 一刻も早く……この穢れを落とさないと。
 小さな身体に、染み込んでシまう前ニ……。
 穢レきッテシマウ前ニ。
「―――ッ、バカテッドッ!!!」
 …………………たっぷり瞬き20回分は固まっていた、だろうと思う。
「………えっ……?」
 もしかして……今。
「痛いって言ってる! バカテッド!!」
 名前、呼んだ? ……俺の―――。
「何呆けてるのさっ! さっきから痛いって言ってるのに!」
 あぁ、確かに痛いだろうな…。こいつ腕細いし、力いっぱい掴んでたから……ってゆーんじゃなくてっ!
「名前っ! 呼んだよな、今!」
 自由な手で俺の手を解こうとしながら、 「バカ・テッド! これ、離して!」
 眉根を寄せて怒鳴りつけてくる。
「呼んだ!!!」
 何でこんなに嬉しいんだっ、俺! 今までだって、何十人何百人ってやつらに名前くらい何度だって呼ばれてきたのに。
 どうして、こんなガキに呼ばれたくらいでこんなに喜んでんだろう。
「もう一回、呼んでみな? テッド―――って」
 顔を近付けて言うと、むっとした表情なまま、
「バ・カ・テ・ッ・ド!!!!!!」
 鼓膜が破れるんじゃないかと思ってしまうくらいの大声――それも耳許――で、怒鳴られた。








...... つづく


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