ツメタイ瞳 後編 真夜中に人の部屋を訪問するのも何だけど。 それも、女性の部屋なのだけれど。 そういう事を無視できる程度には、何か言ってやらなければ―――という思いが強かった。 重い扉を叩くと、中から微かに 「お入りなさい」 という返答が帰ってきた。 「…………夜分失礼かと思ったけど」 前置きしながら声を掛けると、 「構いませんよ」 といつものように穏やかに言葉を発してくる。その様が、何だか無性に腹立たしい。 「子供をあんな場所にひとりで置いとくのは、どうかと思うんだけど」 「……そうですね」 いきなりな不躾とも言える俺の台詞に、だけど、レックナートはそう静かに返してきた。 「あの子が望んだのです」 「最初に俺があいつに会った時、あいつ魔物に襲われかけてた。その状況を、あいつが望んだって? 今日だって、怪我して帰ってたし!」 刺々しい口調になってしまう。だって、そういう言い方って要は責任転換ってもんだろう。 12やそこらのガキが、どうしてそんな状況に置かれたいって思うよ。 「そうですね。確かにあの森で過ごすようにと言ったのは、私です。そして、それを選んだのはあの子なのです」 ………訳解んねー、何でそれをあいつが望んだり選んだりすんだよ。どう考えても、それって普通じゃないだろ? 思い切り胡散臭そうに、それでも 「へー」 って相槌を打つと、レックナートは小さく笑った。 「真の紋章を宿したモノに、普通を望むのは許されるのでしょうか?」 「――――――― !!!」 「もうお分かりでしょう? あの子の身には、真なる風の紋章が宿っています」 愕然とする。 でも、恐らく俺は気付いていた。 俺―――というより、この右手に宿る呪われし紋章が。 でも、あいつの身に宿るそれは、共鳴を促すほどに成熟してなくて。ほんのたまに響いてくる程度のものでしかなかったから……。今思えば、成熟してない器に宿った紋章ならば、その本来の力を発せないのは当然の事だったのかもしれないけれど。 そうでなければいい―――と、思っていた。 否、願っていた。 真なる紋章を得て、俺には失ったモノばかりで、得られたモノなんてなかったから。 あいつが、あんな幼い身でそれを持つなんてことを考えるだけで、寒気を覚えてしまう程に哀れだと思ったから。 返す言葉に窮する俺に、レックナートは淡々と言い聞かせるように言を繋ぐ。 「手放すことも可能なのだと言いました。あの様に幼い身では、紋章の力自体にあの子の精神と身体が押し潰されてしまう可能性が大きかったのです。何度も何度もそう言い聞かせました。―――己の選ぼうとしている道が、どんなにあの子自身を追い詰め苦しませるか」 そうして、レックナートは見えない筈の閉じられたままの目で、俺を見つめてきた。 「あなたなら……解かりますよね」 「…………………あぁ」 「それでも、あの子はそうあることを望んだのです」 レックナートの部屋を後にして、自分に与えられた部屋へと向かう道すがら、いい様のない嘔吐感に見舞われた。 冷たい石造りの壁に手を着き、目を閉じてそれをやり過ごす。 そのまま……身体を捩って、背から壁に寄り掛かった。体重を掛けて、壁に身を預ける。 そして、目を閉じた。 今なら解る―――あれは、試練だ。 己が道を選んだあいつへの。 避けられないであろう、牙を振るう事に対して躊躇させない為の。 「…………何で、逃げないんだよっ」 実際にはあいつが何を成そうとしているのかは知らない。それは、ただの好奇心とかで訊ける類のものではないから。ただの通りすがりである俺なんかが、興味本位で聞いてはいけない事だから。 だけど―――。 「何でっ…!」 そうまでして、何を成したいというのか。 「馬鹿……はどっちだよ」 それが、とてつもなく重いものだという事は解る。 優しくある事でそれが成せないというのなら。 それさえもを、捨てる覚悟を身に付けろ―――と。 レックナートが伝えたかった事が、今なら解る。いっそ、壊れてしまった方が、楽なのかも知れない。 その方が痛みを覚えずに済むだろ? それじゃあ、意味はないのかも知れないけど……。 それでも、そう思ってしまう。 ―――願ってしまう。 「俺も行くからっ」 そうつっけんどんに告げると、ぽっかりと穴を開けた闇色の空間を前に、ルックはきょとんとしてこちらを見つめてくる。 「……は?」 「だから、俺も行くから」 そう言って、ずかずかとルックの脇をすり抜けてその空間の前に歩み寄る。 「……どこ行くのさ」 「あの森、行くんだろ?」 「…………あんたには関係ないよ」 そんな事を言って、心底嫌そうに顔を顰めるから。 「関係なくない! お前が大怪我でもすると、食いっぱぐれるからな」 「怪我なんてしないし、あんたが食事作ったっていいんじゃないの?」 「そう言いながら、この間怪我してただろ! それに、だ!」 人差し指をルックの胸許に突き付けながら、その翡翠の瞳を覗き込む。こいつとの口論では、視線を逸らした方が負けだ。 「俺の作る料理は不味い」 きっぱりと言い切ってやると、ルックは心底嫌そうに眉根を寄せた。 「……脅してるの?」 「本当の事だ」 胸を張ってのたまうと、深々と溜め息を吐いて 「……好きにすれば」 と返されたので、その言葉に―――珍しく素直に従う事にした。 闇の扉に一歩踏み込んだ次の瞬間には、初めて出逢った時と同じ森の中にこの身はあった。 振り返って見ても、既にそこには闇の痕跡さえも無く。 一体どういう紋章なんだろう…と、首を傾げた。 俺の横で、周囲の気配を探っているルックの紋章は、風だと聞いた。聞いた瞬間、何となく頷いてしまったけど……。こいつそのものが、風のような属性だと感じていたから。 でも、レックナートの紋章は丸っきりその属性が解からない。 ただ解かるのは、俺のこの紋章と同じように闇の属性に近いらしい―――という事だけだ。 「………ここいらで、いいのか?」 「……昨日の血の臭いが残ってるから、ね」 それって、魔獣が登場しやすい状況だ…ってことだよな…………。 昨日の血痕は、こいつのモノだったらしい。掠っただけだ…と言っていたけど、その割に出血が多かった。湯浴みの最中に、頭から掛けた湯が髪に纏い付いた血を攫い、白い背を流れてゆくその様は、綺麗で視線を反らせなかった。 「ここで、待ってるのか?」 「……だね」 言葉少なに返してくる。 ……緊張してるのか? それとも、やっぱり怖いのか。 ちらりとルックの面を窺うと、小さく睨み付けられた。 「何さ」 「いや、怖いのかな〜って」 「……冗談」 冗談……ってな〜、言い切るか? 昨日、魔獣に傷付けられたばかりなんだぞ? 普通なら怖がって当然だろ。 出血だって多かったし、今日は本当なら来させたくなかったんだ。 けど……。 こいつがそんな事聞く訳無いし、俺にも言える訳なかった。 それでも、自分が認めた者を再び失ってしまうかも知れない―――っていう、恐れがどうしても拭いきれなくて。少しでも役に立てればいい…って思ったんだけど。 瞬間―――右手の甲に響く警鐘。 そして、はっと見やったルックの身体に漲る緊張感。 「――――――来た」 のっそりと現れた魔獣。熊のような体躯を覆う黒々とした体毛。 ルックの倍はありそうな大きさだ。 それに…目許には生々しい傷痕が見て取れる。 「……あの傷、お前か?」 「昨日の、ね」 ちょっと待てよ! 手負いの獣がムチャクチャヤバイって、当然知ってるよなっ! 何でわざわざそんな魔獣相手にするんだよっ! 「厄介だぞ、アレ」 「知ってるよ、じゃなきゃ怪我なんてしなかった」 「知ってるならなー、もっと楽なの選べよっ!」 本気でそう言う俺を、呆れた様に眇めた目で睨みつけて来る。 「雑魚なんて何匹来たって一緒だろ」 そうか……そうだよな。雑魚なんて何匹相手にしたって、紋章の本来の力を発揮できるまでには遠く及ばないんだよな……。ある種の危機感がないといかんのか。 だから、ってな……アレは流石にヤバイだろっ!!! ちゃんと昨日手負わされた相手を覚えているのか、ルック目掛けて突進して来てるし。 ルック、あんなのに吹き飛ばされたら一発であの世行きだろ。 「手、出さないでよ」 そう言いながら、その視線は魔獣を見据えたまま。 「出されたくなかったら、怪我すんなよ」 「二度も同じヘマはしない」 きっぱり言い切る。こいつのこういうところは、結構好きだな。 魔獣が突進してきた速度のままに、ルックを弾き飛ばす勢いで突っ込んでくる。それを、さらりと余裕で交わし、素早くそれに相対する。 こいつは突進一辺倒の攻撃しか仕掛けてこないらしいけど、時間的に長引いたら、体力で劣るルックに不利だ……。細ッこ過ぎるよな〜、こいつ。 だけど、この状態でどうやって紋章本来の力を引き出せばいいのか。 確かに、恐慌状態に陥れば主の危機を回避しようとし、紋章が覚醒する確率が高くなるのかも知れないけど……。 かなり危険なことに変わりは無い。 それに、一種の賭けに等しい。 紋章自体が、こいつを主として認めていない―――って事だって有り得る訳だし。それを持ち得た経緯とか聞いてないから詳しい事解らないけど…。 俺の時は……切羽詰った状態で、他に方法がなかったから。 「―――ック!」 魔獣の形振り構わぬ攻撃が掠めたのか、ルックの小さな身体が微かに弾かれたのを認めた。 怪我しないって言ってたじゃねーかっ! 又昨日みたいに血だらけになったら、……手ェ出すからな! 我知らずの内に、拳を握って身を乗り出してしまう。手に汗握るっていうのは、こういう状態の事だろう。 目の前で繰り広げられてる攻防戦は、確実に時間との戦いだ。 今のこの状況じゃ、手を出すことは出来ない。 遠目からも、ルックの息が上がっていく様子が見て取れる。 畜生っ! …………どうすりゃ、紋章は覚醒するっ?! だけど、俺の焦りとは裏腹に、ルックは自分の敵をじっと見据えたままで…。 こんな圧倒的に不利な状況にも限らず、己が敵を目の前にしながら…。目を反らすことさえしない。 ―――強い意思。 大型の魔獣が攻撃をかわされ、再び方向を転換する。その反動で抉られた土塊が、背後で体勢を立て直していたルックの足許まで飛んでいき、その脚力の強さに改めてぞっとする。 「大丈夫かよ……」 どんなに意志が強かろうと、それだけでは克服出来ないことっていうのはそれこそ沢山ある。 そっとルックには気取られないように――尤もそんな余裕ないだろうが――弓に矢を番い、更に意識を集中させる。 矢っていうのはある意味、不便な武器だと思う。武術や剣術なんかと違って、連動攻撃がし難いから、敵からある程度の距離を置いておかなければならない。まぁ、援護とかするには結構役に立つんだけど……。 ふっと――――――俺の気配を感じたのか、ルックの視線がこちらに反れる。 明らかに、怒気を孕んで燃える翡翠の瞳。 「ばっ……っ!!!!!!」 何、敵前にして余所向いてやがるっ! 俺が立ち上がって怒鳴ろうとした瞬間。 注意が反れたルックに、容赦なく魔獣が襲い掛かる。 ―――咄嗟に気付いたルックが、その身を翻そうとしたが、完全には避け切れる訳もなく、弾かれたように背後に飛ばされた。 「ルックーーーーー!?」 ここから、あいつの位置までかなりある。 助けにいけない―――。 集中力を削がれた今の状況では、まともに矢を射れる自信がない。 視線の先で、跳ね飛ばされたルック目掛け、魔獣が再び進行方向をかえる。 ルックは、その魔獣の先で膝を付いて、立ち上がろうとしていた。土に汚れ、唇の端から血が零れるその様に、 「っくしょー」 右手の手袋を勢い良く剥ぎ、曝け出されたその紋章の刻印をぎゅっと睨み付けた。 間違ってアイツ……喰らうなよっ、ソウルイーター! 右手をそのまま目の前に突き出す。 だけれど――――――。 俺がそれを発動させようとした刹那。 ぼうっと、微かに発光を見るその華奢な身体。 何かが―――溢れ出してくるかのような、錯覚。 否、それは紛れもない現実。 ちりり、と曝け出された右手の紋章に響いてくるこれは……間違いなく、真なる紋章の気配。 ルックの周囲で彼を護るように取り巻く―――――風。 正しくそれは、守りの風の壁。 その小さな身体から溢れるように飛び出した風の刃が、一斉に魔獣に向かってその牙を揮う。己が主を護るように、そして敵と見なした魔獣の息の根を止めるように……。 無数の風の刃にその身を削られ、―――魔獣はやがてゆっくりと崩れ落ちた。 次第に沈静化してゆく風の中で、ルックは半ば唖然としてその様子を見ていた。 走り寄った俺に気付いた様子もなく、 「……し…んだ………?」 呆然としたままに呟く。 「ルック?」 「…………殺した……。僕が―――」 「…ルック……」 それが望みだったんじゃないのか? 命を危険に晒してまでも求めたのは、力の解放じゃないのか。 確かに力は解放された。 そして、彼の敵を屠った。 なのに――――――どうして、そんな顔してるんだ。 痛みを堪えるような……悲痛な面持ちを。 「望んでたんだろ……」 こういう結果を。 お前の師の言った力の解放っていうのは、要するにこういう事なんだ。 生きて何かを成したければ―――自分の身を護り、そして…自身に牙を向けてくる敵を屠れって。 そういう事だろ。 「だって、アレはっ」 「ルック―――?」 「アレは、アイツ等は……自分達の領域を守ろうとしただけなのにっ!」 泣いているのかと思った。だけれど、潤んではいるものの、その翡翠に涙はなくて。 「それって、命持つものが生きていく為の本能だ。アイツ等の領域を侵したのは、僕の方なのに……っ!」 それでも、そうと知っていながらも、屠らなければならない―――。 「……生きていたのにっ」 例えば、その肉を食す事を前提とした行為なら、ちゃんと受け入れられる筈だけれど。 そんな意味もなく。 ただ、襲ってくるから―――とそれを屠る。 その生の意味を考えもせずに。 魔獣にとってそれは、彼等の領域を、こちらの都合のみで荒らされた故の襲撃なのに。 そう追い込んだのは、自分に他ならないのに。 泣けない子供。……命の尊さを知っていながらも……。それを絶った罪深さに心を痛めながらも―――泣かない瞳。 俺の胸許くらいの位置にしかない頭を、そっと抱き寄せる。 「大丈夫……」 発した言葉に反応したのか、ぴくりと小さく震える。 「命の重みを知ってれば……大丈夫だから」 抱え込んだ小さな頭を、胸許にぎゅっと押し付けた。 「お前が……あいつの生を思ってやれば、大丈夫だから」 だから…………。 そんなに自分を責めるな。 泣けもしない彼の周りでその身を宥めるように、微かに風が舞っていた。 もしかして……こいつがアレにこだわったのは、むやみやたらに他の命を屠りたくなかったから? 数多くの命を屠るよりは、1匹だけを…って? そういう意味だったのか。 「もう……戻ろう」 静かに促すと、己で癒したばかりの腕を無意識のうちに庇いながら、ルックはゆっくりと立ち上がった。 そして、すっと背後を振り返る。 自分の力で殺めた魔獣の骸。血だらけの惨状。 それらを、目を反らす事無く見続けて。やがて、ゆっくりと瞼を落としてから踵を返した。 その潔いまでの強さが……いっそ哀れだった。 「眠れないのか……?」 窓を叩く風が、彼の心の内を如実に表しているようで。 眠れなくて屋上に来た。そこには、白い夜着を纏っただけの小さな子供。 どこか遠くを見つめているその瞳が痛くて、 「子供は寝る時間だろ」 とからかい混じりに言ってやる。 「……子供に子供って、言われたくないよ」 こちらを見るでもなく返された台詞に、ちょっとほっとする。 「でも、子供でいられた方が……楽だろ?」 「――――――そう…かもね」 だけれど、遠くを見つめる瞳はそのままで。 いっそ、泣いてしまえと言ってやりたくなる。でも、きっとこいつは泣かない。 そう、断言できてしまうから、言ってやる事も出来ない。 泣く事が、必要な時だってあるのに。 「なぁ……」 呼びかけても振り返らない瞳。 「………何、さ」 そうされてるのは俺なのに、そうするルックの方が傷付いてるように見える。こっちに向けられた無防備な背中が、儚くて淋しい。 「今、―――何が一番欲しい?」 「…………なに?」 「欲しいもの、ある?」 再び問うと、ゆっくりとその視線がこちらに向いた。 深い翡翠の瞳。魅入られたモノを離さないであろうその色は、彼の心の内を映しているかのように微かに揺れる。 「欲しいもの……ある?」 三度、問う。 そのどこかツメタイ瞳を、溶かしたかった。 「欲しいもの……?」 それが出来ればいい…と思った。 頷いて見せると、ルックはきゅっと唇を噛み、そうして一言躊躇うように言葉にのせた。 「強さが……」 囁くような声音。小さく小さく開かれた唇から発せられたのは、紛れも無く。 「強くなりたい……っ」 ―――それは、慟哭。 「力とか魔力だとか、そんなだけじゃなくて! ちゃんと、振り返らないでいられる強さが欲しいっ」 小さな拳をぎゅっと握り締めて、潤んだ翡翠の瞳で、ただ……じっと前を見て。 そうして、小さな身体を震わせながら、ルックは慟哭していた。 「ちゃんと解かってる。過ぎたことに囚われてる時点で、もう進めなくなってるんだって事。でも――ッ」 だけれど、その瞳からは涙は零れない。ただ痛々しい程の、少年の慟哭だけが……響く。 俺の鼓膜を震わせる。 「……忘れられないんだよ」 だったら、係わり合いになるしか道はない―――って? 「知りたいんだ―――。真実を」 じっと前だけを見つめ、けれど目の前に在るはずの存在を見ているでもなく。 翡翠の瞳は遠くを……ただ遠くを捕らえていて。 「それが……僕の生きてる理由だから」 幼いその身で―――一体こいつは何を成そうとしているのか。 何を望んでいるのか―――。 「……だったら」 いっそ――――――。 「だったら、………それを成したいと思うんだったら―――」 俺くらいには馬鹿だったら……よかったのに、な。 「せめて、魔獣くらいは屠れるようになれよ」 非道になりきれ―――と。 そうでなくては、成しえない道を選ぶのだから。 そう言うと、ルックは微かに口許に笑みを刷く。 痛々しい笑み。だけど、 「解かってるよ」 きっぱりとそう言い切るから……。 認めてやろう………きっとお前は俺なんかより、ずっと強い。 こんな小さな幼い身体で真の紋章さえ抑え込めるほどの強い精神力を持ち得ているのなら、それを成すことが出来るって。 ひとりくらい、そう考えて応援してやってもいいじゃないか? 「何かあったら、呼べよ」 ―――俺の名前を。 「駆け付けてやるから」 そう言ってやったら、ちょっと目を丸くした。そんな様は、年相応で可愛いのに…。 「要らないよ」 なのに発せられる言葉は、相変わらずで。 それでも、その目許は和んでいたから。正直、ほっとした。 「……行こうと思う」 そう告げたら、レックナートは 「…そうですか」 とだけ返してきた。 あの森から帰ってきた後、レックナートの許に訪れたルックに、彼女は封印の呪を施した。 これ以上、真なる風の紋章がルックの成長を遅らせる事のないよう…。その本来の力の暴走を引き起こさない為に。心の成長と体のそれの調和がなされるまでの間は…と。 だけれど、その呪は彼の意志によって簡単に解呪されるのだと、レックナートは言った。 彼を護り、育てる為の呪だと。 「あいつ見てたら、俺何してたんだろうって…何か、目が醒めた」 微かに微笑むその様に、 「あいつ、あんな子供なのに―――すっげー、色々教えられたよ」 あんたにもね、とついでのように一言加えた。 「……あの子にとっても、あなたと出会えた事は大きな力になったでしょうから」 そう真顔で言われ、こそばゆいような感覚に頭をわしわしと掻いてしまった。 色々と言いたい事言ったけど……やっぱり何もかもを見透かしていそうなレックナートはちょっと…というよりかなり、苦手かも知れない。 「―――あの子には?」 微かに躊躇いを乗せたような声音でそう問われた。こんな些細なところで、ちゃんとこの人がルックを心配しているんだって事が解かる。 「……さっき、言ったら 『さっさと行けば?』 って」 「そう、ですか」 穏やかな笑みは、苦笑に取って代わる。 「最後まで、ルックらしくて嬉しかったし」 負担にならないように、後ろ髪を引かれることのないように―――そういう、あいつなりの気遣いだろうと思う。 本当、不器用なんだよな、そういう所…。だって、一歩間違えば、悪印象しか持たれないって解るじゃん? でも、あいつを知った今ならば、それは背中を押してくれる為の台詞だって解るから。 かなり、乱暴ではあるけど……。 「では、テッド―――いってらっしゃい」 瞬間、息が、呼吸が止まるかと思った。 実際、止まってたんだと思う。苦しさに吐き出した息は、長くて深かったから。 だけど、そんな事はどうでもよくて。 我知らず、じっとレックナートの面を凝視してしまう。 還る場所なんて、ない……と思ってた。 ずっと、ずっと―――そう思って旅してきた。 なのに…………。 こんな何でもない筈のたった一言が、こんなにも胸に響くなんて。 「いってらっしゃい」 本当に、何でもない言葉―――の筈なのに。 …………なのに。 ちくっしょーっ、何か…何かっ……鼻の奥がいてーよ。 「い……ってくる、よ」 そう、つっかえながらも言うと、レックナートは静かに微笑んだ。 ここに帰ってくることなんて、ないと思う。言い切れてしまう。……なのに。 レックナートだって、それは解かってる筈なのに。 だけど―――。 その言葉に、安堵した。 拒絶されない、受け入れて…ちゃんと認めてくれてるんだって。 同属故なのだからかも知れない。 だけど…………。 それでも、その言葉は自分でも不思議な程に、俺を奮い立たせてくれた。 前に進む勇気を与えてくれた。 強い風に煽られた外套が、はためくその様を視界の端に収めて。 ふっと今来た道を仰ぎ見る。 勿論、瞳の先には、あの島もひっそりと建つ塔も見えはしない。 「―――ック?」 頬を撫でた風が、まるであの不器用な少年のようで……。出来る筈もないのに、あの場所に無性に帰りたいような気になった。 でも、違うから。 あそこは、俺がいる場所じゃないから。 肩から担いだ荷を抱えなおして、踵を返した。 俺は俺の道を行こう。 誰に指図されるでもなく、俺が俺でいられる場所を―――捜して。 そんな場所があるのかどうかも解らない。 でも、それでも、行こう。 「俺は俺の生きる意味を探す」 そう言ったら、 「だったら、行きなよ」 と送り出してくれたあいつに、恥じる事のないように。 翡翠の瞳は、どこか淋しげに揺れていたけど……。あいつは引き止めるなんてことはしなかった。 あの性分じゃ出来ないかもしれないけど……。でも、性分の所為だけじゃなくて、あいつならどんなに淋しいと思ったってそうしようとは思わないんだろう。 己の選んだ道を、常に進み続けるあいつだから。 苦しいなんて……辛いなんて、絶対に言わないあいつだから。 俺が選んだその道を、遮るようなことはしない―――。 ……又、ツメタイ瞳で心を痛めながら、己に刃を向ける敵を屠るのだろうか。 それを、望んではいないだろうに。 それでも、あいつは行くのだろう。 痛みに冷たく凍える、そのツメタイ瞳……。 その瞳が…………少しでも緩むといい。 俺があいつと出会えたことで、先に進める道を選べたように―――。 潔いまでに前を、前だけを見続ける―――翡翠の瞳が。 翳ることなく…前だけを見て進んでいけるように。 ―――――ツメタイ瞳に取って代わられる事のないように。 ...... END
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