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 密度を増し、渦巻く風。
 通常なら目に見える筈もない風の刃が、今はその姿さえ視界で捉えられる位置まで接近した翼あるものに襲い掛かり。
 刹那―――一面の空が、朱色に染まった。



 迫りくる魔物という恐怖の対象にざわざわとした雑音は、やがて。
「天都(アマト)さま……」
「建国の魔術師殿の再来だ」
「流石は、天都さま」
 ただひとりを讃える歓声へと、変わる。
 覚めやらぬ興奮が人々を歓喜の渦に巻き込む。
「……違う、」
 小さく零された呟きをのみ込んで、今や、帝都を割れんばかりの歓声という祝砲に包まれる。

「天都さま」
「天都さま」
「天都さま」

 が、咆哮の如く響き渡る、名は。

「天都さま」
「天都さま」
「天都さま」

 まるで世界全てが埋め尽くされてでもしまうかのように、ただただ連呼される天都という名。
「………じゃない、だろッ」
 それが腹立たしくて、歯噛みする。
 湧き上がる歓声は、魔物殲滅を祝いはすれどその立役者の活躍を崇めるものではない。彼の労をねぎらうどころか、存在さえ埋没させようとしている。

「天都さま」
「天都さま」
「天都さま」

「……な、んで」
 自分ひとりが違うだろうと騒いだところで、一体何人の人が同意してくれるだろう。己の無力さなど、誰に指摘されるまでもなく知り尽くしている。
 それでも………必死で護りたいことがあったからこそ、自分の望みさえ封じ込めたというのに。
 それが、どれ程の痛みと苦しみか。無力な自分は、未だに身を浸しているというのに。
 ―――これが、実情?
「なんで、」
 だったら?
 だったら、自分が願ったことは……ナニ?
 そうされることで、目指す指針さえ捉えられなくなる。

「天都さま」
「天都さま」
「天都さま」

 沸きあがる歓声は、止む気配さえない。
「ー何でッ、」
 この場で叫ばれる名が、天都なのだろう…と。
 文字通り敵を殲滅したのは、刹亜(セツア)なのに―――だけれど、その呟きに応えは返らない。



 城門から真っ直ぐに伸びる城への道を、カツカツと少年は進む。
 しんと静まり返った帝国の名を持つ大通り。両脇にずらりと並んだ民衆の、ただ崇拝の目だけが『天都』さまの再来と謳われる少年に向けられていた。
 毅然としたその背に、帝都の誇る三将軍を従え、感情を窺わせない琥珀の瞳はじっと前を見据えている。白い面がいつもより色味を落しているのは、膨大な魔力を放出した所為だろう。
 沿道に並んだ人々の列から一歩置いて、視界の真ん中に通り過ぎてゆく姿を目を眇めて見やった。
 チッ、小さく零された舌打ちは誰の耳にも届かないらしく、振り返る者さえない。
 視界を埋めていた人々が、過ぎた彼の者を追ってぞろぞろと流れる。
「……あいつもいい加減馬鹿だけど、」
 今は既にない過去の名を在り難がっている奴らの方は 「もっと馬鹿だ」 。
「言えばいいじゃん」
 自分は天都じゃない、刹亜だ―――って。自分たちと諍いあっている時は、あんなに刹亜本人であるというのに。その内を覗かせない淡々とした表情にいつもの覇気が窺えなくて、イライラする。
 ぞろりと救世主一行の後を追ってゆく民衆に、勝気な視線を投げつけた。

「……仕方ないから」

 ぽそりと。微かな声音は、風に消えゆきそうなほど小さかったが、陸瀬(リクセ)の耳は違えることなく捉えた。
「何が、」
 声の主へと真正面から向き合い、キッと睨み付ける。
 そこには、予想に違わない、灰羅(ハイラ)の姿。いつも穏やかに微笑んで、何もかもを見透かそうとでもするかのような態を常としながらも。弱点を突けば、こちらが動揺する程に表情を失くす―――幼馴染み。
 淡々とした灰羅の物言いもさることながら。それ以上に、何もかもを悟ったかのような表情に苛立つ。
「何さ、仕方ないって」
「刹亜は……あーやってしか、自分の存在意義を示せないから」
 希代の魔術師の再来と謳われてはいても、刹亜は刹亜でしかない。膨大な魔力を持ち得、天才的な使い手であったとしても、知識ばかりは彼の努力の賜物だった。なのに、自分という個を見て欲しくて求めたものから逆に追い詰められ。
 拒絶され、否定される”刹亜”という存在。
 そうなればなる程、彼自身は自分の存在を認めてやれない―――いっそ、痛々しいまでに。
 自分に持ち得ないものを持つ彼を救うなんておこがましくて、だから、ただ傍に居て名を呼んでてやろうと、灰羅が李玲(リレイ)とそう誓ったのはいつだったか。
「ーーーッ、違うだろ」
「……」
「お前は……そうやって、諦めるしかないんだろうけど!」
 叩きつけるように発した陸瀬の幼い顔は、泣きそうに歪んでいた。何かを堪えるかの如き表情に、胸の痛みが翳む。傷付けられたのは、己の方だろうとは思うのに。
 陸瀬の怒りも、又刹亜を思ってのことだと知れたから。
「俺はッ、絶対に諦めない!」
 その陸瀬は宣言し、キッと唇を引き結ぶ。陸瀬の赤い唇が、色を失くすのを目にし。ふっと、灰羅は思い出す。目の前のこの子どもは、昔から癇癪を起こしては今みたいに自分を困らせていた、と。それさえも、愛しかったのに。
 その瞳は、暁そのままの色合いで。その真っ直ぐ過ぎる程の気性は、闇を看破する暁そのままで。
 それでも、気性の一端を覗かせる温かさを垣間見せる陸瀬に、当時は傷付けられた覚えなどないのに。
 いつの間にか、離れていた。
 昔は、それこそ刹亜と李玲と、目の前で怒りを露にする陸瀬と共にずっと傍にいて。
 ずっと変わることなどないと、思っていたのに。
 一体、何故いつの間にこんなに距離が開いてしまったのだろう、と灰羅は思う。
 見開かれた大きな目の縁は赤く、今にも泣き出しそうに見え。小さな肩と握り締めた拳を震わせる姿に、
「陸瀬」
 小さく名を、呼ぶ。
 ぴくりと大袈裟に強張った体躯に、灰羅は瞬時口を噤んだ。
 彼の友は名を呼ぶと、これ以上もない笑みを見せてくれたから。いつもは慰められてばかりいる灰羅は、それ以外の慰め方を知らなくて。
「な…んで、」
 勝気な暁色の瞳が、灰羅を射る。惹き込まれそうなほどに綺麗な瞳だと、こんな状況ながら思う。
「なんで…名前なんか、」
 きゅっと唇を噛み締め。
「陸ー」
「名前なんかッ、呼ぶな」 再び紡がれそうになった自分の名にそうはさせまいと、叫ぶように叩きつける。
「……どうして?」
 痛ましげに歪んだ顔。そんな表情を見たい訳ではないのに。それでも、陸瀬は前言を撤回することは出来ない。
「お前は……お前だけは、俺の名前呼ぶな」
 あまりに勝手な言い草だと知っている。名は個を認識してこそ発せられるもの。それをするなということは、即ち見るなと同義に等しい。
 だけれど、陸瀬はそう強いることしか出来ない。
 ―――これ以上、傷付けたくなど……傷付ける気など、自分にはないのだから。

 踵を返すのは、いつも陸瀬だ。
 そうしたくはないのに、それでも一緒にいるところを誰かに見られては本末転倒というもので。
 痛いほどの視線を背に感じながら、振り向かずにいることにもようやっと慣れた。
「違う…だろ」
 傷付けたくないから。
 傷付いて欲しくないから。
 だから、離れたのに。
「仕方なくなんて、ないだろ」
 そう諦め切れるなら、自分は彼らの傍を離れてなんていない――と、陸瀬は唇を噛み締める。
 傍に在ることを諦めたのは、彼らに幸せになって欲しかったからなのに。

「………一番矛盾してるのは、俺か」











 初めてそれと意識して操ったのは、風だった。

「ほら、はいら! みてみてー」
 そう言って、目の前の花畑から花を舞い上げた。己の思うままに使役する風が、花を掃い、花弁を舞い上げ、はらはらと落ちるさまに。
 ただ、綺麗だねって言って欲しかった。
 それだけ、だったのに。
「”はいら”はまだまほう使えねぇんだろー」
 誰かの発した、そのたったひと言が。
「おれらと”はいら”はちがうんだよな」
 悪意の、嘲りの篭ったものでなかったなら。
「よしなさいよ!」
 李玲の留める声音が、哀しみと非難など帯びてさえいなければ。
「いいから、李玲」
 灰羅の寂しそうに笑う顔が、傷付いた色合いを含んでいなければ。
 はっきりと別たれた、立ち位置―――そんなのに、気付かずに居られたのなら。
 今も自分はあの頃と同じように、彼の傍に居られたんだろうか。

 ただ、自分は。
 あの日、あの花畑で。
 色とりどりの花々が舞い落ちるさまに、
「きれいだね」
 そう言っていつもの笑顔を見せて欲しかっただけなのに。





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