… 10 …


 ―――だぁれ?
 不安そうに揺れる瞳は、夕刻の陽を湖に沈めたみたいな色だと思った。



 かさり、と微かな葉音を聞いた。
「……?」
 出所らしい方へ視線を向けた刹那、灰羅は身体を強張らせた。
 そして、自分を驚かせたものを認め、ほうっと胸を撫で下ろす。
「………どうしてそんなとこにいるの?」
 小さな身体をノチアの植え込みの茂みにすっぽりと隠し、泣き濡れた眼で見上げてくる子。
 大きな眼を髪と同じ白銀の長い睫が覆い、白い面と赤い唇、そして赤味を帯びた柔らかそうな頬からは男か女かの判断がつかないくらいに愛らしい。
 今まで逢った事も見た事もない子どもだった。
 自分や刹亜より小さいのだけは知れたので、視線を合わせるように身を屈めてその子どもの顔を覗き込んだ。
「かくれんぼ?」
「……ちがう」
「じゃ、なに? なんでこんなとこ、いるんだ?」
 こてんと首を傾げて問うと、子どもは唇を引き結んだ。
 そんな様を見て、
「帰れないの?」 そう思う。
 悪戯をして怒られそうだったり、つい帰る時間を過ぎてしまって逆に帰れなくなってしまうとか、自分たちにもよくある事だ。
 と、子どもはぶんぶんと顔を左右に振った。
「ちがう、かえり…たい、けど」
 泣きそうに歪む顔さえ可愛らしくて、灰羅は目の前の小さな頭をぽんぽんと叩いた。
「まいご?」
 僅かの逡巡の後、こくんと頷く。
「こんなとこ、はじめてだもん」
「ひとりで来たの?」
「ちがう。しらない人に、つれてこられた。行きたくない、はなしてって…ずっと言ってたのに手、引っぱられて……ハヌにほえられてしらない人がびっくりして手はなしたから、にげれた」
 一気に言って、くしゅりと顔を歪める。
「ハヌ? 大きい?」
「わかんない。声だけだったもん」
 従順さと懐っこさ故に哀願動物として多くの家庭で飼われているハヌは種類も雑多で、子どもが両手で抱えられる程度の大きさから幼児の背丈を余裕で超えるものまでいる。基本4足歩行だが、敵を威嚇する時や周囲を窺う時は2本の足で立つ事もある。
 基本的に性質は穏やかなので、子どもの遊び相手としては好まれていた。
 灰羅もこの近辺で飼われているハヌなら、それなりに見知っている。特徴を訊けば、どこで知らない人から逃げ出せたのか、場所が知れると思って訊ねた灰羅だったが。
「いっぱい走ったから……ここ、どこかぜんぜんわかんない」
 俯いて、泣き出さないようにだろうきゅっと唇を噛み締める子どもの頭に手を乗せたまま、灰羅は再び訊ねた。
「んと…じゃ、お家、どこ?」
 子どもの髪はさらさらした柔らかさで、銀のきらきら溢れる月色で、ほわほわしてて、あたたかい。あまりの心地よさに、灰羅は知らず笑んでしまった。
「………知らない」
 見る見るうちに、大きな瞳が潤みを帯びてくる。
 灰羅は慌てて、 「大丈夫だから、」 と語気を強めた。
「なかないで? 大丈夫。いっしょに探してあげる」
 見つからなかったら、見つかるまでぼくの家にいればいいよ――そう言うと、子どもの目がまん丸になる。
「……ほんと?」
 灰羅の言葉に、ぱしぱしと涙の雫を弾く睫が、長くて重そうだと場にそぐわないことを思った。
「うん! だから、そこから出ておいでよ」
 そう言って手を差し出すと、子どもはじっとその手を見つめた。その後、再び灰羅に視線を戻す。大きな瞳に戸惑いが見えた。知らない人に連れて行かれそうになった後なのだから、それも当然だろう。恐怖は、そう簡単にはなくならない。
 知らない人……そういえば、と灰羅は未だに差し出された手を取ろうか取るまいか悩んでいる子どもに 「はいら」 と唐突に告げた。
「ぇ……」
「ぼくの名前、はいらだよ」 と。
 これでこの子どもにとって自分は知らない人でなくなったから、この手を取ってくれるだろうと幼な心に考えたのだ。
 きょとんと丸くなった子どもの瞳を見返しながら、首を傾げた。印象深過ぎてなんと表現したらいいのかとずっと考えていたその色合いに、ようやっと思い至る。
「君の目、夕陽の色だね」
 熟したトウイの実の橙色と、アケの葉の赤色を混ぜて空に溶かしたような色合いだ。初めて見るその色合いに、目を細めた。
「綺麗だね」
「夕陽? 父さまはあかつき色だって言ってた」
「あかつき?」
「あさのお日さまの色なんだって」
 まだ、見たことないけどとはにかむ瞳に新たに浮かぶ涙はなく、灰羅はほっとした。
 愛らしい子どもの顔が涙で泣き濡れているのは、素直に嫌だと思った。笑ったら、さぞかし可愛いだろうと。
「おいでよ」
 差し出したままだった手を取って欲しくて促すと、今度は素直にその手が取られた。自分より、幼馴染みたちより小さな手の温かみを感じてぎゅっと握った。
「こわくないから、出ておいで」
 がさりと茂みを鳴らして、恐る恐る出てきた子どもに、嬉しくなって笑う。そうすると、子どもも僅かに笑んだ。
「大丈夫だったろ?」
「うん」
 元気よく頷く。
 そして、今更のごとく気付いた。
「あ、きみの名まえは」
 問いかけた時、
「陸瀬っ!」
 髪を振り乱し、転びそうになりながら慌てて駆け寄ってくる人の姿が目に入った。子どものそれでなくとも大きな瞳が、一際瞠られる。
「ー陸ッ、陸瀬、無事」
「…ぃちゃん、」
 走りながら差し出された腕に。
 繋がれていた手が、外され。
 小さな身体は、その腕の中に躊躇いなく飛び込んだ。
「に…ちゃ、ぃちゃん、ーーー兄ちゃんッ」
 整わない呂律と、小さく震える身体。
「、こわ…かった」
 しがみ付いたまま、灰羅にさえ零さなかった本心を告げるさまに、気丈な子どもの気性が知れた。
 どこかちくりと痛む胸を押さえて、灰羅は首を傾げた。
 良かったと思っているのに、何故だろう。
 兄に抱きついてしゃくり上げる陸瀬から、ちらりと視線を上げて窺い見た彼の人は、兄弟と瞬時に判断できるほどに容姿は似通っていない。柔らかな印象が強く、陸瀬ほど視線を囚われる強烈な吸引力がない。
 それでも、陸瀬を見つめる優しい瞳と力強く小さな身体を抱きしめる腕と、心底安心しきった陸瀬の様子に灰羅はホッとした。
 暁色の瞳が潤むさまは綺麗だった。だけれど、笑って欲しかった。それが自分に出来ればいいなと、そう思っていたのだけど。

 もう大丈夫だから、とぽんぽんと背なを叩かれ、陸瀬はそうした兄に照れくさそうな顔を向けた。
 そして、灰羅を振り返る。
「兄ちゃん、これ、はいら」
「こら、これなんて言っちゃ駄目だろ」
 兄に軽く窘められ、陸瀬は 「だめなの?」 と首を傾げた。
「彼はモノじゃないだろう?」
「うん、ともだちー!」
 嬉しそうにはっきりと、自分にとっての灰羅の存在を示す陸瀬の言葉。たった今逢ったばかりだというのにそう思ってくれるのが嬉しくて、灰羅は薄っすらと頬を染めて笑んだ。


 ありがとうね、と目線を合わせて陸瀬の兄、鴇空(トキア)は灰羅の頭を撫でた。
 陸瀬を攫ったという犯人が捕まっていないから、と灰羅は鴇空と陸瀬に家へと送られた。
「君の父上は汰鞍さまなのか。明日にでも、父とお礼に伺うわせてもらうね。家の方に、そう言っておいてくれる?」
 鴇空の言葉に、灰羅は頷く。
「この子は僕にとって大事な弟なんだ。だから、本当にありがとうね」
 目許だけはそっくりだが、瞳の色は空色な鴇空の横で、陸瀬もぺこりと頭を下げた。陸瀬の手は、兄の鴇空とずっと繋がれたままだ。
「お家にかえれるからうれしい」
「うん。よかったね」
「でも、でもね! はいらのお家にも今度あそびにきていい?」
 どこか心配そうに訊ねてくる陸瀬に、灰羅はもちろんだよと、頷いてみせる。ほっとしたように笑みを浮かべる様に、灰羅の家へ来れなくなった事を気に病んでいたらしいと知る。
「じゃ、帰ろうか、陸?」
 促されて、陸瀬は元気良く頷いた。
「じゃあね、灰羅。本当にありがとう」
「またね、はいら」
「うん、また……」
 その場に佇んだままの灰羅に背を向け、歩き出そうとした陸瀬だったが。
「あっ、」 刹那弾かれたように、くるりと灰羅に向き直り、じっと瞳を見つめる。
「ぁ、あのね、はいら、名前りくせだよ」
 こてんと首を傾げて陸瀬は自分の名前を告げた。
 鴇空が何度も名前を連呼していたから、子どもの名前は解っていたが。それでも、本人の口から名を知らされたのが嬉しくて、灰羅はにっこりと笑みを浮かべた。
「うん、りくせ」
 名を呼ぶと、陸瀬の顔が満面の笑みに彩られたので、それはきっと正解だと灰羅も頬を緩めた。
「ありがとう。はいら」
「いつでもあそびにおいで」
「うん、やくそく」
 頷く陸瀬は、花蜜やら砂糖菓子やらを蕩かしたような甘くて可愛らしい笑顔だ。
 それは自然と、こちらまでをも微笑ませるもので。

「まってるよ」
「きっとね」



 ―――それが、出逢い。





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