… 11 …


 幼い頃、気付けば刹亜の傍には灰羅だけが居た。
 そこに父母の姿はなかったが、そのことは刹亜にはそれ程重要ではなかった。
 暫くして李玲が現れ、そして灰羅が陸瀬を連れてきた。
 穏やかな灰羅と、しっかり者の李玲と、小生意気で我侭な陸瀬と、無愛想な刹亜と。
 彼らの世界は、それで完成されていた。皆が大事で皆が大切で、そんな大好きな者たちに囲まれて、彼らの世界は満たされていた。
 理解不能な横槍ややっかみやらが時折耳を掠めたが、気にならなかった。
 そのままずっと日々は過ぎるのだと、信じていた。崩壊するなんて、微塵も思っていなかった。
 が、ある日突然に崩壊は訪れた。

 踵を返した小さな背。
「陸瀬?」
 名を呼んでも、返されることのない舌足らずな声音。
 嘘だと思いたかった。
 だけれど、確かにその瞬間―――彼らの世界はひとつの終わりを告げたのだ。









「灰羅、」
 唐突に歩みの止まった友人に、刹亜は訝しんで問い掛ける。が、一心に何かに心を囚われている姿に、
「……どうした?」
 彼の視線の先を確認して、僅か瞳を眇めた。
 川縁に立ったまま話し込む者たちの姿。何故、このふたりが? と組み合わせに頭を傾げたくなったが、両方共に見覚えが有り過ぎる。
「………リーリアの賞金稼ぎだ」
「あれが?」
「うん。この間、訪ねて来た連中の内のひとり」
 柚希茂、と言ったか。飄々とした態度で、一般的だけど一般的には支持され難いと思われる持論をほざいてくれたヤツだ。
「……陸瀬と」
「仲、良さそうだな」
 角度的に陸瀬の表情は見えないが、リーリアの賞金稼ぎのどことなく楽しそうな様子は窺える。
 以前、柚希茂は陸瀬から刹亜のことを訊いたと言っていた。ということは、少なくとも、二度は顔を合わせていることになる。
 黙り込んだ灰羅に聞こえないように溜め息を零す。李玲ではないが、本当に迂闊な幼馴染みだと思う。自分の容姿を正しく認識している筈なのに、全く危機感が足りない。
 誘拐騒動だけで幾度経験していることか。今その身が無事にあることが、不思議に思える程だ。そのほぼ半分が、取り巻き連中のお手柄だということに関してのみ、刹亜はその存在を許容出来ている。
 容姿だけでなく、あの無垢で強い内面こそが陸瀬を陸瀬となさらしめている。幼い頃から好ましく思っていたそれを、他者に穢されるのだけは我慢ならなかった。
「灰羅、行こう」
「………けど」
「大丈夫だ。陸瀬はあんななだけあって、自分に有害か無害か嗅ぎ分ける能力だけは突出してるんだから」
「…………うん」
 灰羅が立ち去り難く感じているのは、陸瀬の身を案じてばかりな所為ではないだろうことを知りながら、敢えてそう言う。
 第三者、特に取り巻きたちの視界に、自分たちと陸瀬を一緒に入れるわけにはいかない。
 それでは、陸瀬が必死になって護ろうとしている距離を、護られている立場の自分たちが崩してしまう。どれ程の想いで彼がそれを成し得ているか知ればこそ。それだけは出来ない。
 あの小さな手で、自分の想うものをたったひとりで護ろうとしているのだ。
 苦しくない筈がない。淋しくないわけがない。
 あの少年は、どんなにその周囲に人を集め蔓延らせようと、本当の意味でひとりきりなのだ。
 ふとすれ違う瞬間、泣きそうに歪んだ貌を何度目にしただろう。一瞬後には無表情を取り繕うその仮面に、数年前まではそんな表情は見間違いだとさえ思っていた。陸瀬は感情を素直に曝け出すという思い込みもあって、物の見事に騙されていた。
 そういう意味でいうなら、情けなくも完敗だった。
 ただ、李玲だけは陸瀬が離れた理由もそうせざるを得なかった経緯も知っていた、と後に訊いたときの衝撃は酷かった。

「一体……いつまで」
 この膠着状態は続くのか。
 恐らく、陸瀬自身、これ程の間離れていることになるとは考えていなかっただろう。応急処置として離れただけに違いない。
 何もかもが着々と移ろい変わってゆくというのに、自分たちを取り巻くこの状況だけは変わらずにいる。未だに解決方法を見出せない。
「………傍に、居たいだけなのにな」
 だが、周囲がそれを許さない。普通ならば、当事者同士の思惑でどうにかなる筈のことが、そうならない。陸瀬という少年が絡んだとき、のみ。
 陸瀬が自分たちにそれ程想いを寄せなければ、きっと違ったのだろう。が、彼らは彼らのみの世界を構築するほどに近かったから。
 それが、本人の想いとは相反する事態に発展した。
 刹亜ならば堪えられる。
 自身に対しての攻撃は、嫉妬交じりのやっかみに過ぎないからだ。
 だけれど、灰羅へのものは違う。
 ある筈のものが欠けているという、灰羅自身がどうにも出来ないコンプレックスを突く。誤魔化しの利かない、急所だ。
 攻められれば、やはり落ち込まずにはいられない。
 自分の所為でそうされる灰羅を、彼らを大事に想う陸瀬が黙って見過ごせる筈がない。結局、離れるという対処でしか護れない。
「魔術なんて使えなくても、生きていけるのに」
 その結果が灰羅だったが。刹亜には言えない。誰よりもその才に長けているからだ。
 誰もが持ち得、行使するのが当然の世界に於いて、ただひとり持ち得ないという恐怖は幾ばかりのものか。
 そういう意味での痛みも苦しみも、きっと刹亜には解らない。
 見誤らないための呪だと視遠はいっていたらしいが、それならば今現在どうして灰羅はこれ程苦しんでいるのか。己のみでなく、大事なひとまで巻き込んで。
 それは本当に、純粋な願いだけで掛けられた呪なのか。
 ―――ぞくり
 一瞬、背筋を這い上がった寒気を散らすように、ふるふると頭を振る。
「さ、行かないと」
 放っておけばいつまでもその場に佇んでいそうな灰羅を促す。
 灰羅の肩越しに窺える幼馴染みと賞金稼ぎが、この位置からでは何の話をしているのかは解らなかったが、とても話が弾んでいるようには見えない。
 陸瀬が偽りの笑みを纏って久しいということに、一体何人の取り巻きが気付いているのか。
 気付いてたら、誉めてやるけど。
 嘲るように口端を歪める。気付きながら尚、陸瀬をこのままの状況において置こうというのなら、傲慢も極まる。
 あの不器用な幼馴染みは、いつ笑顔を取り戻せるのか。
 その時、傍にいるのは自分たちなのか、それとも他者なのか。
 自分たちで在りたいとは願うものの、世界が優しくないのを刹亜たちは知り尽くしている。


 去り際、後ろ髪を惹かれる思いで振り向いた視線の先、
「……主税(チカラ)、様?」 この場には在りえない姿に目を瞠った。
 紅い髪に漆黒の瞳。時折、陸瀬の傍らに身を置く、リシアヴィア皇国皇帝が三男。冴え冴えとした冷たさを含むその漆黒に。
「ーーーッ、」
 緊張感を孕んで駆け抜けた風に、刹那刻が凍った気がした。





to be continue