… 13 …


 世界の崩壊する音を聞いたのは、二度目だった。







「私と共に、生きてはくれないか」

 いや……だ。

 本当は、そう答えたかった。
 例え拒絶しても、断れない事は解っていた。結局、受け入れるしかないだろう事も。
 だから。
「……なん、で」
 今だけ、否という言葉の代わりにそう訊ねる事だけ、許して欲しかった。


 皇帝の末息子の名は、主税(チカラ)という。
「私としては、時期を待ったつもりではあったのだが」
 腰まで届く燃えるような紅の髪を首元で束ねた、精悍な容貌に穏やかな表情を絶やさない男だった。

 出逢ったのは、12の時だ。
 河の浅瀬で遊んでいた時の偶然の邂逅。
「楽しそうだな」
 何気ない口ぶりとあまりの軽装に、誰も皇子だとは気付かず水遊びに興じた。闇を凝らしたかのような漆黒の綺麗な目を細めて見つめられ、次いで名を訊ねられた。
「陸瀬(リクセ)」
 とだけ、告げた。
「私は主税だ」
 名も教えられたが、市井でも耳にするそれが皇子のものだとは思わなかった。あの時、共に遊んだ子どもたち皆が、そうだったのだ。
 水飛沫を上げながら遊ぶ子どもたちの中のひとり、に過ぎない筈だった。

 その時に、一目惚れしたのだと主税は告げる。
 今は亡き母親に生き写しらしい己の容姿が男女問わず人目を惹くのは、いやというほど知っている。営利ではない数々の誘拐、過度ともとれる周囲の者たちの執着をあから様に見せ付けられ、気付くなという方が無理だ。
 父や兄が男の陸瀬に口煩く一人歩きを禁じていたのは、邪な視線や想いから己を護る為だという事も解ってはいた。
 だからといって、全てから遠ざけることは出来なかったということだろう。
 相手は皇族。第四位とはいえ、皇位継承権さえ持っている。選ばれたということを光栄に思うのが当たり前で、自分は本来ならそれを喜ぶべきなのだろう。
 それなりの家柄は皇家に嫁ぐのに、なんら支障がない。それでも、相手は皇族。拒否権など到底持ちえる筈もない。
「……どうして」
 最初から―――見初められたその時から、欲しいと望まれたその時から、陸瀬には選択肢なんて…なかった。
 嫌だと言う事も出来ず、項垂れたままの陸瀬に、主税は穏やかな表情を僅かに歪めた。
「まだ、皇帝を通してはいないよ」
 主税から零れたひと言に、弾かれたように陸瀬は頭を上げる。
「……それって」 期待に唇が震え、それで目の前の相手を傷つけていることが解っても、言葉から読み取れる意味合いに期待してしまう自分を止めることが出来ない。
「選択肢は、あるという事だ」
 そして、実に呆気なく主税は期待を肯定する。
 陸瀬は信じられない思いで、どこか淋しげに見える精悍な顔をじっと見上げた。
「無理強いしたくはない」
「ーッ、」
「想いが私にはないことくらいは解っている。そのくらい君を見ている」
 肉親でもなく、ここまで自分という人間を想ってくれる人がいる。見返りを求めるでもなく、ただ陸瀬の良いように、と。
「それでも、構わないと思ったんだ」
「……俺、主税嫌いじゃないよ」
 きっと、主税を選べば。誰よりも何よりも大事にしてくれるだろうことは、想像に難くない。事実、その地位と力と人格で出来ないことは限りなく少ない。それでも、それだけの地位にありながらも、陸瀬の想いを尊重してくれているのだ。
「だけど………」
 応と返せない自分が申し訳なくなるくらい、寄せられる想いと形は違えど主税を想ってもいた。
「ごめん」
 例え、どんなに苦しくても。
 例え、受け入れられなくても。
 それでも、自分が好きなのはただひとりで。
「ごめんなさい、主税」
 あの人しか、欲しくはないのだ。







 槇尭(マキタカ)様……って?
 主税の兄上、即ち―――皇位継承権第三位の皇帝が次男。
 何だってそんな人の名が、ここで出てくる?
 陸瀬を欲しいと願ったのは、主税で。受け入れられないと、答えたのは己の筈で。それだって、二日前の夕刻の事だ。
 何故今になって父親の口から、婚姻の話が……それも相手が増えて出てくる?
「槇尭様が園遊会にてお前を見初められ皇帝陛下に娶りを願い出たところ、主税様が既にお前と約束してあると」
 事実だけをよどみなく紡ぐ父の声音は、どこか苦味を含んで。だけど、それより何より告げられた内容こそに唖然とする。
 主税にしたら、それしか俺を護る方法がなかったのだろうけど。
 小刻みに震える拳を、いっそ強く握り込む。これ以上、何も聞きたくない。
 だけれど―――。
「どちらにしても槇尭様か、主税様を選ばねばならぬ」
「……父上」
 そう、どちらにしても…だ。
 皇帝を通したということは、もう逃げ道なんてないって……そういう事だ。
 槇尭様か、主税。どちらかに嫁ぐことは決定事項ということ。
 国の頂に立つ者の意思を無視する事など、この国に住まえばこそ出来得るはずもない。
 ただひとり、陸瀬にそれを許してくれた主税でさえ、頂を極めた父親からの言葉となれば従わない訳にはいかないのだ。
「見初めた……って」
 声が掠れる。緊張に凍てついた喉が痛みを発する。
「………傍に置き、愛でるに値する華の顔(かんばせ)、だと」
 苦渋に満ちた父の面は、色味を失っていた。
「ーッ、」
 ーーーこんな、顔ッ。
 要らない取り巻きばっかり呼び寄せる、人目を惹き過ぎる容姿などもとより嫌いだった。
 二目と見られぬ面容になれば? それとて同じ結果だろう事は、想像に容易い。
 何より……母そのままの容貌を傷付ければ、父と兄が哀しむ。誰より何よりも慈しんでくれた父と兄を哀しませることだけは、したくない。
 死ぬ事など論外だ。皇帝侮辱罪で、一族全てに累が及ぶ。
「………園遊会なんて、挨拶しかしていないのに」
 皇帝が次男・槇尭の噂は皇族らしいものといえばそういえたが、あまり性質の良いものではない。男女問わず見境なく手を出すといったものから、ならず者と交流があるといったものまでと実に様々で、眉を顰めるに値するものばかりだ。
 全てが事実だとはいえまいが、それ程の浮名が流れる人物だということだけは紛うことない真実で。
「お前が主税様と交流があることは知っていたが」
 父は、俺が連れて来た主税と二、三度顔を合わせたことがある。膝を着きそうになった父に、 「出来れば城外では陸瀬の友として接してはくれまいか」 と主税は望んだ。
 父にしろ兄にしろ、こんな話しが舞い込んでくるなんて青天の霹靂だろう。当事者の俺にだって、そうなんだから。
「断っても、いいのだから」
 いつもと変わらない声音で告げられて、咄嗟に父の顔を見上げる。
 どこか困惑を乗せながらも、それを悟られないように静かに笑う相貌を目にして。
 何度も顔を振った。
 そんなこと―――出来る訳、ない。
 主税の事は好きだ。
 先日想いを告げられたから、そういう意味で陸瀬のことを想ってくれてるのも、知っている。
 此度の騒動が大きくなってしまった今では、逢う事もままならないから憶測でしかないが、陸瀬のことを考えてくれたんだろうとは思う。
 だから、どうしても甘えたくなる。
 逃がしてくれるんじゃないかと、ない筈の逃げ道をあいつの中に探してしまう。そして、あいつはそれを持ち得ない。きっと俺は、解っていながらあいつを詰る。何故助けてくれない、と責めてしまう。
 あんなに想ってくれる主税を傷付けるだけだと解っていても。
 そんな俺を………俺が許せない。
 逃る事が叶わないのならば、いっそ。
「槇尭様に」
 甘い考えなど捨て去ろう。
 ちっぽけな自分の存在は、人を傷付けることは出来ても護ることなど出来ないと思っていた。
 元々は自分の容姿が招いたこととはいえ、それでも今の自分にでも護ることが出来るものが、ある。
 それは自分にしか出来ないことで、覚悟ひとつで叶うことで。
 そもそも、逃げ道などない状況の中で、唯一それが出来るということに。
 陸瀬はただ、素直に感謝した。










「莫迦だな」
 利用しても良かったのに、と。
 どこまでも優しい想いが温かくて、泣きたくなる。溢れるほどの想いが、包み込んでくれる。
 この人は、何故こんなに優しくあれるんだろう。
 何故、自分はこの人に恋しなかったんだろう。
 それが出来れば、きっと幸せになれたんだろうに。
 だけど、どうしても自身の想いを裏切る事は出来なくて。
「うん………でも、自分のこと嫌いたくなかったから」
 主税を選べば、きっと近い将来俺は俺を嫌っただろうから。
「だから、いいんだ」
 同じ後悔するんなら、そこに醜い自分なんて要素を追加したくないじゃないか。
「……そんな陸瀬だから、愛しくて堪らなくなる」
「馬鹿な子ほど可愛いって?」
「連れて逃げてやっても良かったんだよ」
「そんなの、無理だ」
 そんな世迷言、一刀両断切って捨ててやる。
「主税はどうか知んないけど、俺は父さんも兄さんも捨てられないから」
 そして、自分も捨てられない。
 それは父と兄が一番哀しむだろうことだから。決断したその内に、彼ら自身の影を見て。





 世界の崩壊の、なんて容易い事か。





to be continue