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 それは、所謂―――恐怖だった。
 今の形が壊れるのではないかという。

 それは、所謂防衛本能だった。
 これ以上、崩れてゆくのは嫌だという。



 それは、咄嗟の行動だった。
「あなたの相方は、一体何を考えてるんですか」
 柚希茂の相棒らしい衣雷(イライ)が傭兵御用達の店から出てくるのを目にし、何の前触れもなく突っ掛かったのは、衝動的にやらかしてしまった事だった。恐らく、その行動に一番驚いたのは、刹亜自身だ。
 だが、そうされた本人は怒るでもなく、深い溜め息を零し、宵闇色の瞳で刹亜を見やった。
「あれへの苦情を俺に持ってこられてもな」
 直接本人へ向けてくれ、と静かに言われて刹亜は思わず自らの行いを恥じた。相棒といえど、個々の人物だ。そんなあたり前の事にも思い至らなかった程、興奮していたらしい。
「そうですね、すみません」
 自らが反省すれば、頭を下げることくらい出来る。
 素直にそうする刹亜を僅かに細めた目で見、小さく口許を緩めて衣雷(イライ)は言った。
「あれは、正直俺もよく解らんから」
 あの、柚希茂の飄々とした態度は、相棒に対しても変わらないらしい。四六時中共にいるらしい相方からそう言われるとは。一体、柚希茂とはどういう男なのか、と興味以前に呆れが勝った。

「が、あまりにも目に余る時は言ってくれ」
 言い添えるようにぽそりと零れた言葉には、不器用な気遣いが窺える。
「……そうして頂けると、有り難いです」
 不得手な人付き合いながら、それなりの対処法という処世術を刹亜はこの年齢ながら身につけている。それは、彼自身の特殊な事情故、致し方なくではあったが。
 それでも、その処世術が通じない相手というのも存在するのも当然で。柚希茂に苦手意識を感じたのは、初対面時からだ。厄介な相手だ、というのが、柚希茂に対する素直な印象だった。
 本音をいうなら。
 陸瀬を含む自分たちの周囲は近づいて欲しくはない。
 何かが、動く……変わる、そんなあやふやな感覚が胸をざわつかせるのだ。


 ―――ただ。
 引っ掻き回してくれるな、と。
 あの独りぼっちで自分たちを護ってくれている幼馴染みを、これ以上傷付けてくれるなと。
 そう願っていた。

 なのに。
 よりにもよって、あの男は陸瀬とふたりきり、忍ぶように逢っていた。あの男が陸瀬の取り巻きにどう思われ扱われようが、そんなことは刹亜にはどうでもいい。問題なのは、逢瀬だと思われても仕方ない状況にあったふたりを、灰羅が見てしまったということだ。
 灰羅が比類ないほどに陸瀬を大事に想っているのを……刹亜も、そして李玲も知っている。気付いていないのは、恐らく陸瀬本人だけだろう。
 知れば傍から離れずにいただろうか、と考えて、刹亜はゆるりと首を振る。
 恐らく、陸瀬の苦悩を深めるだけだろうと、容易く知れる。
 大事だから護りたい―――あの子どもは、そう考えているのだから。
 そして、だからこそ。離れ離れになってしまっている現状を、どうにかしたいと刹亜と李玲は模索していた。
 が、どう考えても互いが互いであるというその点で、全ての画策は行き詰ってしまう。
 一番大事な根本を、突き崩さない限り、どうにもならない。
 ―――しかし、それでは意味がない。

 衣雷という大きな男の宵闇色の瞳は、全てを内包するかの如く深く、そのくせ含むものを全く窺わせない。
「…………僕たちの、」
 気付けば、その瞳に引き摺られるように言葉が零れていた。
「僕たちの間は、微妙な均衡で保たれています。他が入り込めば、それだけで容易く揺らいでしまうくらいに」
 呟いた言葉は牽制か、それとも独り言という弱音か。
 目の前の相手が本人ではないという現状では、牽制では有り得なかった。が、自分の口から無意識のうちに零れたそれを、弱音とは考えたくなかった。
「ーっ、すみません、独り言です」
 常にはない失態だった。
 見ず知らずに近い通りすがりの他人に、弱音を吐くなど。
 だけれど、衣雷の瞳はやはりあるがままを受け入れるかのように淡々としていた。
「いつ崩れるか怯えながら過ごしてんなら、思い切って崩してしまうのも手ではないか」
 衣雷の言葉に、目を瞠る。
 それだって、幾度も打開策として脳裏に浮かんできたものだった。望んではいない形と、確かに言ったが。それでも―――実行に移すに至らなかったのは、
「それを恐怖に思うくらいには、今残されているものも愛しいんだ」 。
 そうそう覚悟など、出来ない。全てを失うかもしれないというリスクと天秤に掛けたら、当然今の現状が勝つ。
 目を逸らさずにそう言い切る刹亜へ、深い宵闇色の瞳を細めて衣雷は小さく口端を上げて見せた。
「そうか」
 そうして、ただひと言。静かに頷いた。
 ただそれだけのことだったのに、それでも刹亜は凝った何かを溶かされた気がした。


 くしゃりと髪を掻き乱し、
「………とんだ失態だ」 小さく零す。
 見送った男の背は、広く大きかった。憧憬さえ覚えてしまうほどに。
 ただの通りすがりだったから、弱音が吐けたのかも知れない。
 直ぐに自分たちの前からいなくなる。去って行くと、解っていたから。
 自分を、自分たちを取り巻き知る者たちには、決して晒せない弱みだから。
「強く、ならないと」
 大事な人たちを護る為に、そうなりたいとずっとそう願ってきたのに未だに叶わない。せめて、年下の幼馴染みをひとりぼっちにしておく現状だけでも、なんとかしたいのに。
「強くなりたい」
 今は、ただそれだけが望みだった。
 それなのに―――。



 数日後、彼らはどうにもならない残酷な運命を知る。





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