時折、星見に連れられてやってきた風使いの少年は、年下とも思えぬほどの憂いた表情と冷めた瞳を見せ、何の感情も窺えない言葉を発する。その度に、彼が普通の少年とは違うのだと知らしめる。 勿論、その類稀な容姿と毒舌と、底を見せない魔力を見せ付けられては、一括りにできよう筈もなかったけど。 それでも、感情を凍り付かせてしまったのかと思えるそれに比べると、容姿云々といった事柄はそれなりの許容範囲だった。 ![]() − 4. 付かず 離れず − 月の光が、煌々と水面に照りつける。 水面に映る月は、ゆらゆらと姿を揺らす。 最近、深い眠りが訪れない。 以前は当然だった寝るという生に欠かせないそれが、酷く困難に感じる。 今宵も眠りは訪れず、窓枠に深く腰掛けて、じっと月を映す湖面を見ていた。 揺らめく月影の儚さに、唐突に彼の魔法使いを思い出す。 「笑った顔、初めて見たな」 月を仰ぎ、ぽそりと零す。 揶揄るように口端だけを上げた笑みというのは、日常的に見られたが。あんな風に、自然に零れた笑みを目にしたのは初めてだった。 いつもあんな風に笑ってたら、と思い。苦笑を漏らす。 「希少価値ってヤツだよね」 たまに見れるから、目を惹かれるのだ、と。 だから、気になったりするんだ、と。 再び、月の浮かぶ水面へと視線を戻す。 「……?」 唐突に、視界に入り込む小さな影に目を凝らす。 「あれは…」 月に浮かび上がった青白く小さな横顔を確認するように、窓から身を乗り出す。 「……ルック?」 それは、自らの軍の小さな風使いの少年の姿。 当然、その影に小さな呟きが届く筈もなく。 やがて、ゆっくりと湖へと引き摺りこまれるように落ちてゆく、その様に。 咄嗟に窓辺から身を剥がすと、床を蹴って駆け出した。 息を切らせて行きついた湖の辺。 乱れた呼吸を整える暇もなく、ただ静かに凪いでいる湖面に目を凝らす。しかし、自分が目にしたあの光景がまるで幻だったかのように、湖はキラキラと月の光を弾いているのみで。 「―――ルック?」 小さく名を呼ぶが、返る応えはない。 「ルック、」 寝静まった砦に気を使いながら、出来得る限りの声でその名を呼んだ。湖を滑るその声に反応するかのように、刹那ゆらりと水面が揺らぎ。 「ルックッ」 「………何か、用」 濡れそぼった小さな躰が、水面を波立てながら現れた。いつもと変わらぬ口調と声音で、鬱陶しさを隠しもしない視線を向けてくる。 髪から、纏ったままの法衣から滴り落ちる水がそのまま小さな躰を伝い湖に戻ってゆく。 「……ルック、」 キッと、挑みかかるように睨みつけられ、彼の名しか呼ぶことが出来ない。 「用がないんだったら、戻るけど」 何も言えない僕に、ルックは冷たく冴えた翡翠を向けてくる。そして、濡れそぼったままに湖から上がる。その間も、凶悪なまでに澄んだ瞳に、目が離せない。 今日は、あんなに柔らかに溶けていたのに、と。 ちくりと、小さく胸を刺す痛みを感じる。 滴り落ちる水が足許に水溜まりをつくるのに、拭く物を何も持って来なかった事に舌を打ちたくなった。せめて、髪から流れる水を拭おうと手を伸ばす。 「………何か、あった?」 そう聞くと、すっと表情を失くす。 「あんたには関係ないよ」 そんな言葉ひとつで拒絶されて、触れようとした手が、行く先を失って止まる。 「……関係ない?」 とてつもない距離を感じさせる言葉。勿論、今この時まで自分とて特別な感情で見てるつもりなんて…なかったけど。 「たかが星ひとつの為に、心を砕く必要はないってことだよ」 「たかがなんて、思ってない」 「だったら、その甘い考えを改めるべきだね。あんたのしなきゃならないことは、そんなんじゃないだろ」 「―――っ、僕は」 「あんたはあんたの為すべきことのみに目を向けてればいい」 「ルック、」 淡々としたルックの口調とは逆に、語気が荒ぐ。 「僕がやるんだよ」 そこまで己の行動に口出しされるいわれはない。 だけれど、ルックの口角は僅かに上がっただけだった。 「だったら、ちゃんと立ってなよ」 煩わせるのは止めろと、嘲りさえ含まれた言が告げる。そこで漸く、彼の機嫌が酷く悪いのだと気付いた。ルックは、意味もなく人を嘲ったりしない…ことくらいは、知っていた。 「何か、あった?」 問うて、気付く。この少年は例えその身に何かあったとしても、それを天魁星である僕には絶対に言わないであろうことを。 だったら……この小さな身に背負い切れないほどの何かがあったとしたら? 僕でない誰かに、話したり…するんだろうか。 「……ッ、」 真実を告げてもらえず、頼られもせず。 ―――だったら、ルックにとっての僕は何なんだろう。 彼にとって、僕は単なる天魁星を担う者でしかない…のか? そう思ったら、自然と言葉が零れ落ち。 「全てを知りたいっていうのは、傲慢?」 それは星において…ましてや、戦乱時には余計なことだと、解っている。 だけど。 僕は……そして星を担う人たちも、それだけの為に生きてこの場にいる訳じゃない筈。 「ルックがそうやって何も告げずにいることがいいとばかりは限らないよ」 気になって仕方ないんだから―――。それって、 「効率悪いよね」 まるで脅しているようだとも思う。否、実際これは、脅しそのものだろう。 案の定、ルックの眉間に深い皺が寄る。苦虫を潰したような、露骨に嫌そうな表情を見せる。 昼間は………笑ってた、その顔で。 「……ルック」 名を呼ぶと、深い吐息と共に小さな肩が落ちた。 そして、唐突に。 「人を、殺めた」 「……えっ?」 「襲ってきたから、切り裂いた」 そう無表情に告げてくる言葉は、いっそ淡々として。 「襲われた? まさか、」 帝国側から差し向けられた暗殺者か、と自然語気が荒ぐ。 魔法兵団は、いわゆる切り札に等しい。その兵団長になら暗殺者が差し向けられるのも有り得る。 「違う………と、思う」 「どうして」 「………押し倒されて、噛み付かれた」 水に濡れ、首筋に張り付いた髪をかき上げる。白い首筋には、酷い鬱血の痕がはっきりと残されていた。濡れていた所為で気付かなかったが、よくよく見れば法衣の所々が裂けてて、その合間から覗える腕にも擦過傷がいくつかある。 「魔力の制御できなかった…から、死んでると思う」 「えっ?」 ルックに限って、魔力の制御を失うなどといったことなんて、ないと思っていたけど。それでも、彼にそうさせるに至ったのは恐怖なのだろうと予想は容易い。 「ごめん」 戦場においてなら兎も角も。 そうでない場所での殺生などを―――させるに至った己に、臍を噛む。 「ごめんね、ルック」 全てが僕の所為だとか、全てを僕がやらなきゃ…なんてそんな驕ってなんていないつもりだ。ひとりが出来ることなんて、たかが知れてる。 だけど。 「何で、あんたが謝るのさ」 不思議そうに問うてくる翡翠に、彼本来にあるべき色を見ても。申し訳ないという思いは止まらなくて。 「ごめんね」 自然と、言葉が零れた。 医務室へ、と促すと 「必要ない」 と一蹴され。 なら、部屋に送ると言えば、 「あんたも、さっさと寝たら?」 と突き放された。 それでも、心配だからと言い募ると。 「……あんなの、そうそう居ないだろ」 僅か揺らめいた翡翠が、ようやっとのこと折れてくれた。 ほとほとと。 静けさと暗さが増した砦の回廊を、ただ無言で進む。 時折会う警備兵の驚いたような様には、ひとつ頷いてみせるだけ。 隣りを並んで歩くルックは、僕の肩の位置を僅か越した背丈で。 小さく華奢な体躯と、崩折れそうな儚さ。彼の存在に生命を吹き込む強い翡翠が向けられなければ、それらはいっそ際立つ。 色んな人々が、色んな思いで集っているのが、ここ解放軍だ。 誰も彼もを信じていた訳ではない、けど。個々の利益や思惑が絡んでいるのは確かだし、それでも打倒帝国という目的だけは一致していたから、油断していた。 甘かったのかも知れない―――軽く唇を噛む。 「添い寝とか、してあげようか?」 「馬鹿?」 半分本気半分軽口にも、間髪入れず返ってきたことに幾分ホッとする。 階段を上がり、廊下を歩き、そしてようやくひとつの扉の前で、僕らの歩みは止まる。 「ゆっくり、休んで?」 無言のまま扉に手を掛けたルックに、言う。こちらに向けられた翡翠は、ひとつ瞬いただけで。 ―――本当に。 「……平気?」 心配も手伝って問うと、濡れたままの髪からぽとぽとと雫が足れ、僅かながら頷いたのがしれた。 「今更だよ」 何人の人を殺めてきたと思っているんだと、ルックは静かに笑う。 平気かと問うたのは、そういう意味合いじゃなかったけれど。恐怖と、罪の意識と……囚われるとしたら、どちらがましなんだろうと埒もないことを考える。 「おやすみ」 静かに扉の向こうへ去ってゆく背を前に、穏やかに声を掛ける。 「……おやすみ」 ぎこちなく返され、扉が閉まる。 ぱたりと音を立てて閉じられた扉を前に、全ての表情が消えたのが自分でも解った。 そのまま踵を返すと、階段へと足を向ける。 真夜中過ぎ。 こんな時間にすべきことか、そんな逡巡さえなく。 静かに、だけれど一定の強さで辿り着いた先の扉を叩く。 「マッシュ、」 未だ寝ては居ないだろう部屋の主の名を呼んだ。 いつの間にか、月は雲に隠れていた。 …… to be continue |