遠い異郷の地の土は、その色合いさえ故郷と違う。 生育する植物、繁殖する動物。そして、そこに生きる人々の考え方ひとつにしても。 ただ、同じだと思えるのは……駆け抜ける風だった。 ![]() − 9. かえりたい − 赤月帝国からトランへ―――名を変え、政の仕様さえ変えた故郷。 遠い地にありながらも、彼の大国の噂は思い出したようにちらほら耳に辿り着く。 そして……星見の塔の主が代替わりしたらしい、という本当かどうか確かめようのない噂も然り。 「………これで、僕からの接触方法は完全に絶たれたってことになるのか」 手段がないと知れれば、余計に会いたいという気持ちばかりがつのる。 今でも鮮やかな色彩をもって瞼裏に浮かぶ、翡翠の瞳。 そして、穏やかに取り巻く風。 会いたくなったら、初めて出逢ったあの場所を訪れればいいのだと思ったから、正直安心していたというのに。 深い溜息を吐けば、 「疲れなさったかね?」 と、今現在護衛している商隊の気の良いおじいさんに訊ねられた。 「いえ、大丈夫です」 それには、にこりと笑って返す。おじいさんは何かあったら遠慮なく言いなさいと、人の良さ全開で頷いた。 本来なら、護衛にこんな風に気を使ってくれるなんてことないんだろうけど。 子どもといっても差し支えない見てくれと、おじいさん自身の気質のお陰で今回の護衛は気分的に楽をさせてもらっている。 賊や魔物から文字通り護ること。 魔物が出ない場所など、強力な結界で護られた街や城のみだ。 だから、街から街へと移動する商隊は安価な傭兵や護衛を雇う。長距離もあれば、次の街までという近場もあり、その雇用契約も様々だ。それに、腕前さえしっかりしていれば、こちらの諸事情までは深く詮索されない。 出来ればあちらこちらを見て回りたい上、ひとつ所に長く留まれないサクラには、案外ぴったりな仕事だった。 故郷からの距離は遠く、時折強い郷愁に襲われもした。 それでも、サクラは自分の選んだ道を後悔した事はなかった。 星が動けば、大きな戦に発展する筈だから感知できると思う。 そこに流される大量の血と魂は、我が身に巣食う真が欲して止まないものだろうから。 小競り合いは度々耳にするけど、そんな噂は聞かなかったから。 過去の大きな戦には、真なる紋章が関わってる可能性が高いらしいっていうのもいくつかの文献を読み漁って知った。 『戦を呼ぶのは真なる紋章かもね』 ルックがそう嘲るように笑っていたのを思い出す。 だがしかし、彼が真に嘲っていたのは紋章だろうか、人だろうか。 「…………ルック」 ふっとした瞬間に、逢いたいなと思う。 今、どうしてるんだろうとか。 何してるんだろう、とか。 「ルック」 それに呼応するかの如く、一陣の風が大気を攫う。 風が駆け抜けた先へと、視界を馳せ。 突き抜けるような青い空と、遮るものさえない真っ直ぐな地平とに目を細める。それらは眩しくて、泣きたくなるほどに綺麗で。 「………ねぇ、今、きみに凄く逢いたいよ」 自然零れた想い、それこそが紛れもない本心で。 この声が、想いが、風と共に彼の人の許へ届くことを切に願った。 北上した所為か、行き着いた地域は暦の上から見ると故郷よりも肌寒かった。 季節柄、畑の作物がほとんど刈り入れられ、目に入る緑が少ない所為で余計そう感じるのかも知れない、とサクラは思う。 「これから三日間、ここいらじゃ豊穣祭があるのさ」 村に一軒しかないという宿屋に入ると、恰幅のいい女主人が 「いい時に来なさったね」 と顔を綻ばせた。 「楽しんでいくといいよ」 湯気の立つ料理を数品テーブルに並べると、厨房の方へ戻ってゆく。季節柄か地域故か、使われている食材は茸の類が多い。無言でもくもく食していると、さっきの女主人が厨房からお茶のお代わりを持ってきてくれた。 「仕事? この村でかい?」 ついでとばかりに訊ねれば、困ったような顔が返って来た。 「食べていけるだけの仕事ならないこともないけど……」 「他所者は雇ってもらえないですかね」 行儀が悪いかも、とは思いつつ。折角の食事が冷めるのも勿体無いので、手は止めない。というか、こういう粗野なところを見せとくと、出自が貴族だとは到底見てもらえないから敢えてやってる部分もある。長期ではないにしても、暫く腰を落ち着けようと考えているところであれこれ詮索されるのは厄介極まりないから。 「あぁ、そういう事じゃないよ」 「……?」 「村の者としちゃあ、あんたみたいに若くて健康で目の保養にもなる男の子が居座ってくれるのは有難いんだけど」 細い目を一層細めて、カッカッと笑う。 豊穣祭を終えれば、季節はあっという間に長く辛い冬へと突入するのだと言う。 「この辺りは雪深いからね、雪が降り始めると村は出られないよ。ここで一冬越す気があるのかい?」 「あぁ、それは……ちょっと」 雪に閉じ込められているその間に、彼の人の居場所が解ったとして。すぐに身動きできないっていう状況は、論外だ。 ルックの置かれている状況にも寄るけど、彼は風……そのものだから。 一定の場所に、そうそう留まりはしないだろう。 「だったら、早めに村を出ることだね。きっと、数日中には初雪が降りるよ」 豊穣祭は雪呼祭とも呼ばれてるからね、との女主人の言に、お代わりの椀を差し出しながら頷いた。 これからは雪に閉ざされる、という北の地域へ進むのは諦めざるを得なかった。このまま北上すれば、大陸を囲うという海を見れた筈なんだけど……と少々気落ちしながら、仕方なく進路を南西へと修正する。 流石にこの辺まで来ると、記憶している国の配置は酷く曖昧だ。一度訪れた場所ならそらで瞼裏に描き出せる、と豪語した幼い地図職人の偉大さをひしひしと感じる。あの少年の悩みは、度重なる戦争で国境の位置が変わったり、大規模な魔法攻撃で地形が変貌してしまうことだった。彼は今も、愚痴りながらあちこちを回っているんだろうか、と目を細める。 ルックと、彼は仲が良かった。まぁ、一般的にいうと知り合い程度の態度でしかなかったけど、地図というものに興味を持っていたらしいルックは、時折彼の元を訪れたりもしていたみたいだ。 自分のところへは絶対に来てくれなかったのに。 過去のことだと解っていながら、不機嫌になってしまう心の狭い自分に自嘲する。 逢えない所為もあるんだろうけど、ルックのことに関しては余裕がない。そもそも、彼と向き合うのに、余裕なんてもてる筈もないのだけれど。 「……逢いたいな」 思いはただそれだけで。 ぽそりと呟いた刹那、頬を撫でた風に目を細めた。 目では捉えられない風の行方を、追う。 唐突に開けた視界。 地平線さえ窺える程に拓けた、平原。 季節の所為か、それともそういう土地なのか、草ひとつ見当たらない―――ただ、一面広大な原野。 さぁっと脳内を一陣の風が駆け抜けるように、既視感が過ぎった。 マッシュから、地形別においての布陣の仕方と最も有効と思える戦闘の方法という講義を、ルック込みで何度か受けた。講義後は、様々な条件をマッシュに課され、互いを敵と見立てての机上戦をやらされた。 最初は何で僕がこんな事を…と渋々付き合ってくれていたルックが、その内に自分なんぞより余程のめり込んでいた。 議論に熱くなったルックに、実際に見ろと、その時々課題に挙げられた地形によく似た場所へと、度々跳ばされたりもしたし。 ここは……その内の、平原のひとつに似ている。 何処までも続く平原は、人影もなく、視界を遮るものさえ皆無で。今現在、己がひとりなのだということを見せ付けるかのようだ。 「………ルック」 ただ、彼の名をひとつ呟いて目を閉じる。 「人間が争いをやめられないのは、何故だか知ってる?」 ひとしきりふたりで口論に近い議論を交わした後、地平線へ視線を投げたルックがぽつりと呟いた台詞。 「えっ?」 「この大地が、流れた血でさえ生命を育む元へと変換させるからだと……そう思わない?」 血塗れの戦場。 累々と横たわる、屍。 その傍らで、そよぐ風に靡きながらその根から取り込んだ養分を元に、花を咲かせ実を付ける草花。 脳裏に浮かんだビジョンに吐き気を感じた。 「………ぞっとしない」 ぽそりと呟いたサクラへ、ルックはふっと口許を歪めた。 「いっその事、人の体液が毒素なら、人間は己の愚行を身を持って知れるんだろうにね」 永い刻の中、幾度も勃発した戦乱に流された血を思えば、その多さ故に彼らが知る大地は全て焦土と化してしまうのかも知れない。 「うん、良かった」 「……何が」 噛み合わないサクラの言に訝しんで問うてきたルックへ、笑みを浮かべ。 「流された血が、無駄なばかりじゃなくて」 少なくても、花を咲かせたり次代を繋ぐ元くらいにはなったって事だよね―――刹那、きょとんと目を瞠ったルックは。蕾が綻ぶように、ふわりと微笑んで。 「あんたらしい、っていうか」 翡翠を柔らかに蕩かせた。 地平線へ馳せていた視界に、ふっと朧に入り込んだそれに意識が持っていかれる。 「……っ、ゆき?」 思わす上向けた掌に音もなく舞い降りた雪の欠片に、すぐ雪が降り始めるよ、と厚手の外套の購入を勧めてくれた宿屋の女将の言が思い出され。 ふわり ふわり と、天から降りてくる様は綺麗だけど、と襟元を整えた。 「取り敢えずは、南西」 雪に閉じ込められる事のないように、目指す。積もる前に、この平原は抜けたい。 見据えた方角へと足を一歩踏み出した刹那、 「ーッ!」 全身に走り抜けた感覚に身を震わせた。 激しく鼓動が振れ、言いようのない悪寒にぞくりと肌が粟立つ。 「これ…、」 今まで感じた事もないほどの、膨大な魔力の波動。それは、正確な場所も測れない程遠くにあるにも拘らず、己が内への侵入を果たす。 荒々しく攻撃的なその波動は、かつて共にいた彼のものと断言するには禍々しさを含み過ぎてはいたけれど。だけれど、自分が欲する彼のものに他ならなくて。 その己の感覚を間違っているなんて、微塵も思わない。 そこまでの魔力の放出を行うに至った経緯は気になれど、それでも。 「見つけた」 ようやく居場所が知れた歓喜が、心の内を満たした。 ―――今、逢いにゆくよ。 再会は、実に淡々と。 「久しぶり、変わり…ないようだね」 望んで、欲して、夢にまで見た彼の人を視界に収め。 湧き上がる感情を抑える術もなく、その必要性も感じず。 ただ、泣きたくなるほどの胸の痛みに襲われた。 個人的に協力はすると、現天魁星を担う少年へと告げれば、そのまま彼らの本拠地だという城へと誘われた。 ここが、今の彼の居場所。 自分の元ではないこの場所に、違和感が付き纏う。 人の出入りの激しいホールは、広さも相まって空気が温まる間もないだろう。 なのに、この3年間ずっと僕の中を占め、ただ逢いたい…とそればかりを望んでいた彼の人の姿は、目の前にあって。 背は、ちょっと伸びたかもしれない。 綺麗な貌は幼さを削ぎ落とした所為で、その美貌が一際際立っている。 だけど、久々にも拘わらず胡乱気な表情を隠しもしない様は、やっぱりルックらしくて。 僕が見間違うなんてことは、当然なく。 ―――やっと、逢えた。 胸を占めるのは、堪えようもない幸福感に他ならず。 自然、顔が綻んでしまう。 「ルック、ただいま」 ふっと首を傾げたルックの表情は、訝しさ満点な様があからさまに見て取れる。 思わず小首を傾げて問えば、 「こんな戦場の真っ只中で、あんたはそう言うの?」 何の感情も窺わせない声音で、そう返された。 「………」 あぁ、もしかして。 心配……してくれてるんだろうか? ほんの僅かでも、僕のことを気にしてくれてるって、そう思っても? 「違うよ、僕が帰ってきたのは君の傍にって事だよ」 そう言うと、ルックは驚いたように目を瞠り、続いて白皙の面に剣呑さを浮かべる。 頬を赤らめたり照れたりっていう態度を期待しない訳ではなかったけど……相変わらずの様子に、どこか安堵する。 ひとりで居たときには恐怖さえ感じていた”変わらない”という事実が、ルックを目の前にすれば奇妙に思えるほど真逆のものへと変わる。 「血生臭い仲、って訳だ」 「あぁ、うん。それ、なんかいいね」 そう言うと、呆れた顔を向けられた。 彼と繋がれるものがあるのなら何でもいい。血生臭くても、穢れでも。それでも、何もないよりは余程いいって思っての言だったんだけど。 きっと言葉のままの意で判断されたんだろうことがルックの表情から知れて、苦笑が漏れた。 そうして、やっと―――辿り着けた、とそう思った。 …… to be continue |